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03追憶の夜(1)

 午後九時四十五分。

 アルバイトで疲れた体に鞭を打ち、古びたアパートの階段を上る。錆びた階段が悲鳴を上げるように音を立ててきしんだ。僕はアパートのチャイムを鳴らす。安っぽい音が鳴り響くが、誰も出てきてはくれない。もう一度、ゆっくりとチャイムを押す。しかし、玄関の鍵を内側から開錠して「おかえり」と迎えてくれるはずの少女は今日も現れない。

 深いため息を吐き出して、僕は自分で解錠した。

 暗い玄関の照明を灯して、靴を丁寧に揃える。そうしなければ、意外と細かい性格をしている彼女が怒りだすからだ。

「ただいま」

 返ってくるはずの返事は、今日も聞こえない。冷たい部屋は自分が呼吸する音さえ聞こえてしまうほど、静寂に満ちていた。それでも、期待を込めてもう一度「ただいま」と呼びかける。

 やっぱり、返事をくれるはずの彼女は現れない。鍵を自分で解錠し、暗い部屋の照明を灯した時点で、潔く諦めるべきだったのだ。

 荷物をそこらへんに投げ捨てる。卒論の教材がずっしりと詰め込まれていた荷物は音を立てて床に落ちた。肩が軽くなった代わり、せき止められていた川の水が決壊したかのような疲れが押し寄せてくる。僕は思わず深いため息を吐き出した。

 今日も、彼女は帰ってきてはくれない。



 冷蔵庫を開ける。中年の独身男性のような中身をしている。あれだけ占拠していた彼女の作り置きのコンテナは、もう何一つ残ってはいない。その代わりとして並べられたコンビニのチルド製品は、なんだか味気ない。どれを食べても同じような味がするので、すぐに食べ飽きてしまった。たいして美味しくもないそれらは、僕の空腹を満たすためだけの物体に過ぎない。適当に一つ手に取り、電子レンジに放り込む。説明書きも見ないで、適当な時間の過熱ボタンを押した。庫内で回るそれがやけに寂しく見える。僕は冷やしておいた度数の高いアルコールを片手に、テーブルへと向かった。

 一人で使うには広すぎて、二人で使うには狭すぎるテーブルだ。僕が腰かける向こう側には、彼女が座るはずの椅子が空席のままになっている。

 

 一口、アルコールを口に含む。キッチンで、電子レンジが終了のベルを鳴らしている。それを取りに向かう気力は、すでに失われていた。

 もう一口……もう一口とアルコールを流し込む。安価で度数の高いアルコールを流し込むように飲むことが、僕の最近の日課だ。それを咎めてくれる彼女は、もういない。

 涙が零れた。拭っても、拭っても、それは溢れて零れ落ちていく。悲しみを振り払いたくて、僕は一気にアルコールを煽った。


 視界が大きく揺れ動いて、強い吐き気に襲われる。僕は不幸か幸いか、あまりアルコールに強くない。このまま飲み続ければ、急性アルコール中毒で死ぬかもしれない。そう思いながらも、アルコールを辞めることはできない。このまま死んでしまっても別に構わない。むしろ、死んだ方が幸せかもしれない。本気でそう思っている。

 彼女がいなくなった僕の人生には、何の価値も残ってはいなかった。本気でそう思えるほど、僕は彼女を愛していた。それなのに、何が原因で別れることになってしまったのだろう。何が問題だったのか。ちゃんと全部直すように努力をするから、もう一度だけチャンスが欲しい。ずっと願い続けている。

 叶わない希望を抱くことは、時として人を苦しめるだけの毒となる。

 彼女が愛用していたシングルノートのいちごの香水は、今も部屋のテーブルに放置されたままだ。それにバイト代を溜めて購入したミラーレスカメラだって、この家に取り残されている。僕が買ってあげた服も、彼女が購入した書籍だって、全部。この家は、まだ彼女の面影を残したままだ。


「忘れ物を取りに来てよ」

 僕は繰り返し連絡をしている。トークアプリに電話、それからメールも何度も送信した。ただ、僕の携帯が彼女の名前を受信することは一度もなかった。

 僕との思い出は、何一ついらない。そう告げられているとわかっていても、まだ僕は諦めきれずにいる。

 再び、強い吐き気が襲い掛かった。それを無視するように、再びアルコールを口に含む。もう、何を口にしているのかさえも曖昧だ。水か酒か。今なら何を飲んでも気が付かない。馬鹿になった思考は、 彼女との思い出ばかりをぐるぐると循環させる。

 苦しい。悲しい。忘れてしまいたい。

 彼女との思い出は、僕を苦しめているだけだ。そうとわかっていてもなお、僕は幸せだった日々を追憶し続けている。


 それなのに、彼女は思い出の全てをこの部屋に捨てて出ていった。


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