02追憶(2)
翌日の朝。
僕は約束の時刻から十五分も前に到着をしていた。とりあえず到着していることを彼女に連絡しようと、スマートフォンを取り出す。液晶画面をタップし、トークアプリを起動させる。企業の広告通知ばかりが名を連ねる画面を見て、重大なことに気が付いた。
――僕は彼女の連絡先はおろか、名前すらも知らない。
ずいぶんと長い間、まとも交友関係を構築しようとしてこなかったので、連絡先を交換するという初歩的なコミュニケーションすらも忘れてしまっていたようだ。
もしも、待ち合わせの場所で出会うことが出来なければどうしたら良いのだろう。彼女が来たら、なんと呼びかけるべきなのか。そもそも、名前も知らない男とパン屋に行く状況がありえていいのだろうか。昨日の一連の出来事は、僕の願望から生れた妄想だったのではないか。
僕はそのたった十五分間で、向こう一年分の心配を抱え尽くしたと思う。それほどまでに、もやもやと落ち着かない時間を強いられた。
しかし、僕の一年分の心配は杞憂に終わった。
斜め後方から駆け寄ってくる彼女の姿が視界に入ったからだ。僕はあえて気が付かないふりをする。彼女が近寄るまでの間、どんな表情で待つべきなのか。それを考えることを放棄するためだった。
「おはよう。君は朝が弱そうだから、遅刻してくるかと思ったよ。待っちゃった?」
彼女はひらひらと手を振った。小さくて丸みを帯びた手が、宙を泳ぐように左右する。
「おはようございます。全然待ってないから大丈夫です。それに、別に朝が弱いわけじゃないんですから」
母親以外の女性と会話らしい会話をした記憶がもうずいぶんとない。僕はひどく緊張して、早口になってしまった。そのぎこちない言葉を聞いた彼女は「ため口で話してよ」とさらりと言い放つ。
僕は返事もせず、彼女に見とれていた。
春らしい花柄が施された白いひざ丈のワンピースにカジュアルなフラットシューズ。柔らかい栗色の髪が風に揺らされて、甘酸っぱい春の香りが鼻孔をかすめた。それは人工的に作られた香りのはずなのに、いやらしさを感じさせない。むしろずっと嗅いでいたいと思う心地のよさだ。匂いの正体を確かめたくて、もう一度小さく息を吸い込んだ。
「いちごだよ」
「ごめん……」
彼女は「いい匂いでしょ」と誇らしげに笑っているが、僕は恥ずかしさで逃げ出してしまいたい衝動に駆られた。女の子の――それも、ほとんど初対面に等しい女の子の匂いを嗅ぐなんて言語道断。セクハラだと思われても仕方がないし、最悪な印象を植え付けたに違いない。
「君、辛いこととか悲しいことをずっともやもやしているタイプでしょ。あと、すっごく優柔不断そうね」
少し背伸びをした彼女が、僕のおでこに向かって指をはじく。軽い衝撃が広がり、僕は思わず目を丸くした。デコピンと自分の性格を言い当てられた衝撃の両方のせいだ。
割と失礼なことを言われたような気がするが、全て事実だ。それに、自信に満ち溢れた笑顔で指摘されてしまうと、不思議と不快だとは思わなかった。
「ほら、パン屋さんに行こうよ。せっかくなんだからさ、オープンでいっぱい並んでる時に選びたいでしょ」
彼女は、僕が「そうだね」と返事をするよりも先に一歩前に大きく進んだ。羽が生えているかのように軽い足取りに、僕は思わず見とれていた。色素の薄い栗色の瞳。それと同じ色をした柔らかそうな髪。花柄のワンピースから伸びる白くて華奢な手足。彼女の容姿を構成するすべてが、まるで天使のように見えた。しかし、その可憐な容姿に反するかのように、自信に満ち溢れた天真爛漫な性格をしている。そのアンバランスさが、僕を魅了するには十分すぎる要素だった。
「ほら、嗅いでみてよ。これが幸せの香りだよ」
店の前までやって来ると、店内から美味そうな香りが漏れ出ていた。意識的に嗅ごうとしなくても、バターの芳醇な香りを既に嗅覚は捉えていた。「いい匂いだね」と相槌を打つが、彼女は不満げに頬を膨らませる。
「いいから。ほら、目を瞑って深呼吸して」
道の真ん中でいきなり深呼吸をする。それは、なかなかに勇気のいることだった。ただ、彼女はそう簡単に引き下がるようにも見えない。「ほら、深呼吸」と催促を繰り返す。僕は恥を忍んで、大きく息を吸い込んだ。言われた通り、瞳を閉じて。
バターの香りが、さっきまでよりもダイレクトに嗅覚に訴えかけてくる。その中に、焼きあがる小麦の香ばしさや他の食材の甘い香りを感じることができた。これが幸せの香り。
閉じていた瞳を開けると、彼女は頬をほころばせた。
「君も感じたでしょ。これが幸せ」
「確かに、深呼吸をした方がいい匂いだった」
素直に「幸せを感じた」と言わなかったのは、なんだかそれが気恥ずかしいことに思えたからだ。それでも、彼女は十分満足したようで「君も一つ大人になったね」と親指を立てて見せる。どのあたりが「大人」なのかは、全く理解することが出来ないが、僕は確かに幸せの中にいると感じることができた。
入店すると「私直伝。おすすめのパンを教えてあげよう」と熱弁を振るい始めた彼女だが、なにせおすすめが多すぎる。結局はどれもおすすめになり果てて、トレーはぎっしりと山積みになってしまった。
パンオショコラ、明太子フランス、メロンパンにベーグル。それから食パンを一本。最後に冷蔵庫の珈琲牛乳を乗せた。会計を済ませ、紙袋に詰められたパンたちはしっかりと重みを感じる。そして、何よりもかさばった。
「ちょっと買いすぎちゃったかも。そうだ、公園で食べちゃおうよ」
「僕はいいけど……」
それって少しデートみたいだけど大丈夫かな。喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。現時点で、十分デートと同じようなことをしている。それに、デートらしいと気が付いた彼女が「やっぱりやめておこうか」と言い出してしまうことを、もったいないと思った。
「ねぇ、知ってる? そこの公園ってね、バレーボールとか貸し出ししてくれるんだよ。私やってみたかったんだ」
彼女は鼻歌交じりに、スキップで前へと進む。聞いたことがあるようで、聞いたことのないメロディーだ。短めの髪がふわふわと揺れて、いちごの甘酸っぱい香りが広がった。
「ねぇ、君。バレーボールは得意かい?」
彼女は軽快な歩調を急停止させ、顔を近づける。急停止することが出来なかった僕は、前のめりになりながらも「普通かもしれない」と曖昧な返事で濁した。
本当は、得意と言ってしまってもいいレベルかもしれない。中学一年から高校三年まで、僕はバレーボール部に所属していた。それほど秀でた成績を残したわけではないが、六年間も継続していたので、人並み以上の実力はあると思う。高校の時にはレギュラーとして、レフトを任せてもらっていた。けれど「得意だよ」なんて見栄を張って、がっかりされたらと考えると怖くて言えなかった。それに、自慢しているみたいに聞こえるかもしれない。
「私はね、けっこう得意なんだよ」
「へぇ、何部だったの?」
「バドミントン部だよ。でもね、体育館でずっと観察してたから、出来る気がしてるんだよね」
力こぶを作り、スパイクの動作を繰り返して見せた。お世辞にも、得意な人間だとは思えない動きだ。「そっか」と適当な相槌を打って、対峙したときのリアクションを想定する。
彼女は「ちょっと待ってて」と公園の管理棟を目指して、走り出す。おそらくボールを取りに行ったのだろう。勢いよく駆けだしたせいで、揺れるワンピースの裾から白い足が見え隠れしていた。
僕は咎められないとわかりつつも、目を逸らす。彼女の白くて滑らかな体躯を思い出さないように、彼女の下手くそなスパイクモーションを思い出した。なんと言えば、彼女を傷つけなくて済むか。「得意じゃない」そう言ったからには、僕も下手くそなふりをした方がいいのか。それはどれくらいのレベルですべきか。嘘を付くのは印象が悪いかもしれない、僕の頭の中はそんなことでいっぱいになった。
悩む僕をよそに、彼女はボールを持って戻って来る。向かう時よりも勢いが失われていたおかげで、見え隠れする肌に悩むことはなかった。彼女は僕のもとに駆け寄って、手に提げていた紙袋と荷物を強奪する。それを近くのベンチにおいて、僕の真向かい数メートル先にポジショニングした。
「打つからね。いくよ」
そう叫んで、勢いよくボールを宙に浮かばせる。緩やかにスパイクを打つモーションに入ったが、ボールが落下する速度の方が明らかに速かった。当たり前だが、腕がボールを捉えることはない。
ボールは地面に勢いよく衝突する。数回バウンドをしたのちに、僕の足元まで転がった。ついさっきリアクションの想定をしたのに、想像を上回る下手くそ度合いに言葉を失ってしまう。とりあえず拾い上げて、セットアップのモーションでボールを返してあげる。
「え、君。もしかして、ちゃんとバレー出来るタイプの人なの?」
「別に、普通だよ」
「もう一回、もう一回打つからね。いくよ」
彼女はもう一度、宙に向けて高くボールを投げる。さっきよりも素早く、やや控えめなスパイクを打とうと腕を振った。ぺちんと軽く乾いた音を鳴らして、ボールは数メートル後ろに飛んだ。
「な、なんでだろう。前に飛ぶはずなんだけどな……」
ボールを拾い上げて、もう一度挑戦する。失敗。もう一度。失敗。数回それを繰り返して、彼女はそのたびに首を傾げた。
僕はとうとう我慢していた笑いが込み上げてくる。人の失敗を笑ってはいけない。そう思い我慢をしていたが、もう限界だ。彼女は運動音痴なのだ。それも、壊滅的に。
「あ、ちょっと。笑ったな。じゃあ君がお手本を見せてよ」
彼女はボールをこちらへと投げる。地面に一度バウンドして、勢いを失ったボールは僕に届くことはなかった。僕は声を出して笑いたい衝動を必死に堪えて、ボールを拾い上げた。
宙にボールを投げる。柔らかく浮き上がったボールは頂点から落下を始めた。弓を射るように腕を引いて、体全体でボールを捉える。鈍く重たい打球音を響かせて、ボールは彼女の方へと勢いよく飛んでいった。
それを運よくキャッチした彼女は、目を輝かせて歓声を上げる。
「え、すごい。ちゃんと試合に出れる人みたいだったよ。君、バレー部に入れるよ。なんでそんなに上手なの」
「高校までバレー部だったからだと思う」
「そんなの聞いてよ、ずるい。私、得意なんて言っちゃったじゃんか」
そのあと、彼女は「ずるいずるい」と連呼して駄々をこねて見せた。表情は笑っているので、心の底からの不満ではないと思う。
「私も今見たので出来る気がしてきた。よし。もう一回するから、見ててよ」
さっきよりも、僕に近寄ってスパイクのモーションに入ろうとする。少し近すぎないかな。そう思った時には、遅すぎた。
宙に浮かんだボールは、勢いよく彼女の手のひらに吸い込まれる。本来ならば、ボールは下方に向かって打ち付けられるはずだった。しかし、彼女によって前へ押し出されたボールは僕の顔をめがけて一直線に飛んだ。
よけられない。
そう思った僕は、とっさに下を向いて顔面への直撃を避けようとする。
鈍い音と衝撃が頭に広がった。痛い…… しかし、部活動をしている時は日常茶飯事に起きていた事故だ。どうってことはないはずだった。
「ごめんね。大丈夫?」
彼女は慌てて近寄り、僕の頭を撫でた。心拍数がどんどんと上がっていく。頭よりも心臓が痛い。心臓の高鳴りが死因だなんて、末代までの恥だ。
「大丈夫だよ」と顔をあげると、視界に違和感があることに気が付いた。起床してすぐのように、ぼんやりとぼやけて滲んでいる。ボールが頭にあたった衝撃で、コンタクトが落ちてしまったのだ。ここら辺に落ちていることは間違いないが、見つけられるだろうか。たとえ見つけることが出来たとしても、それを再び目に入れることは衛生的に気が引ける。
「本当に大丈夫なんだけどさ、コンタクトが取れちゃったみたいなんだ。落ちたのは片目だけだから、見えることには見えるんだけど……」
「本当にごめんなさい」
「いや、こっちの不注意もあるからさ。それに、カバンの中に予備の眼鏡をいれているはずだからさ」
しゅんという効果音が目に見えるような気がした。ひどく落ち込んで悲しい表情になった彼女は、一回り小さくなってしまったようだ。このままでは泣きだしてしまいかねない。僕は慌ててカバンの中から眼鏡ケースを探し出す。無造作に突っ込まれていたケースから、黒縁の眼鏡を取り出して、身に着ける。「ほら、見て。見えてるから。大丈夫なんだよ」と彼女の肩を叩くと、彼女は花が咲くように笑った。
「君、眼鏡も似合うね。かっこいいよ」
それはお世辞だったのかもしれない。でも、彼女はお世辞を言えるような器用な人間ではないような気がした。喜怒哀楽がはっきりとしていて、裏表がない。過ごした時間は短いが、僕は彼女をそういう人間だと判断した。
お世辞じゃないかもしれない。そう意識し始めると、急に照れ臭くなる。「思い上がるな、自分」と喝を入れるが、緩んだ表情は戻ってくれない。
「ねぇ、休憩がてらにパンを食べない? 今日の目的はそれだったんだろう」
僕は「パンの袋に夢中です」と言わんばかりに、紙袋に熱心な視線を向けた。緩んだ口角をパンのせいにするためだ。
「いいね。私直伝のパンは絶対に美味しいよ。君、楽しみすぎて口角が緩んでる」
「いい匂いだからだよ。どれから食べる?」
僕は片手で緩んだ口角を覆い隠しながら尋ねた。彼女は袋を覗き込んで、真剣に悩み始める。僕よりもパンへの関心が高まったようだ。それを望んだはずなのに、なんだか少し悔しい。
「迷っちゃうな。でも、君にあげて食べ損ねたやつにしようかな」
紙袋を眺めていた瞳が僕を上目遣いに見つめ、いたずらが成功した子供のような表情を浮かべる。
「その節はありがとうございました」
「いいのだよ。まぁ、押し付けたようなもんだしね」と言いながら、僕に珈琲牛乳を差し出す。見たことのないメーカーの商品だ。パッケージもお洒落で、紙パックがどことなくレトロな雰囲気を醸し出している。
「ここはね。珈琲牛乳もこだわってて、いいところから取り寄せてるんだよ」
「詳しいね、お店の人に聞いたりしたの?」
「ううん、雑誌。私、お店の情報とか小話が載ったような本が大好きなんだ」
そう言って、地域情報誌や製菓情報誌の名前を数冊上げていく。どれも、女子大学生が愛読書とするには若干違和感がある本たちだ。
「ね。今、ちょっとおばちゃんみたいだなと思ったでしょ」
「ううん、別にそんなことないよ…… あ、僕はこれから食べようかな」
そう言って、メロンパンに手を伸ばす。筒抜けになっている思考を誤魔化すように、大きな口を開けて詰め込んだ。可愛らしいフォルムのメロンパンは、さっくりとしたクッキー生地が香ばしく焼きあがっている。それに包まれる生地もしっとりとしていてミルクの風味を感じられた。さすがはパン屋さん。口の中の水分を奪われない。数口齧って、こだわりの珈琲牛乳で喉を潤す。
「おいしいよね? おいしいでしょ」と僕の感想を催促するように覗きこむ。確かに、すごく美味しい。それ以外の言葉で伝えるだけの語彙力は持ち合わせていないが、とにかく美味しい。素直に僕は「美味しいね」と返した。彼女はその言葉に満足したように頷いて、「さすが私、でも食レポが下手くそだから不合格」と口を突き出した。それから、合格を貰えるまで食レポ合戦を繰り返して、だらだらと時間を満喫した。
「あー、よく遊んだなぁ。パンもおいしかったし、そろそろ帰ろうか」
彼女は立ち上がり、大きなショルダーバックを肩にかけた。僕は、まだ重大な目的を達成できていない。彼女の名前を……あわよくば、連絡先を聞いてから解散したい。
問題は、僕にそれを言い出すような勇気と度胸が兼ね備えられていない点だ。断られる未来を想像して胃がキリキリと痛む。聞かなければ、このまま楽しく解散できる。楽しい思い出として今日を終えることができる。……でも、聞かなければ、次は二度とないかもしれない。
「ねぇ、ちょっと待って」
彼女の華奢な腕を握る。僕の腕よりも柔らかな感触だと思った。「どうしたの」と首をかしげる彼女は、掴まれた腕を振り払ったりはしなかった。
深呼吸をする。さっきまでの幸せの香りではないが、いちごの香水の香りが鼻孔をくすぐった。これも、ひとつ幸せの香りなのかもしれない。
もう一度、深く息を吸い込んで、
「名前。名前と連絡先を教えて欲しいんだ」とようやく言葉にすることが出来た。
彼女は鳩が豆鉄砲を食ったように間抜けな表情をする。口元が言葉を発しようと、ゆっくりと動く。 僕はその動きを食い入るように見つめて、祈った。僕の望む答えが得られるようにと。
「今日一緒に過ごしてたのに、私の名前も知らなかったの? あ、あれ。でも確かに、私も君の名前を知らないや」
彼女は宙を見つめて、これまでの行動を思い返す。小さな唸り声をあげて、懸命に悩んで見せた。しかし、どれだけ遡っても自己紹介をしていないことに気が付いたようだ。
「うん。やっぱり私、名乗ってないや」
僕たちは顔を見合わせて、声をあげて笑いあった。肩で息をしなければならないほどの大笑いをして、もう一度顔を見合わせる。
「瀬名千秋」
「七海星那」
名乗りあって、たどたどしい小さな会釈を交わす。彼女はご丁寧にも握手を求めてきて、僕は照れながらそれに応じた。ぎこちない握手の最中に「よろしく、千秋」と下の名前で呼ばれた時には、僕の中で小さな稲妻が走った。心の中をほとばしる幸せを噛みしめる。
「七海さんは、夏らしい名前だね。下の名前もよく似合ってる」
「そうでしょ、私も気に入ってる。だからね、千秋も『星那』って呼んでよ」
女の子を下の名前で呼ぶ。それはとても勇気のいることで、とてつもない緊張が襲い掛かってきた。でも「ほら」と催促する彼女が引くような人間ではないことを、もう十分に理解していた。決意を固めて「星那」と小さく呼びかける。
「合格。千秋はまた一つ大人になったね」
彼女は嬉しそうに笑うだけで、照れることはなかった。きっと、これまでに何度もそう呼びかけられてきたのだろう。名前を呼んだ僕の方が照れている。それが何だか悔しくて、たまらなく恥ずかしい。
それなのに、彼女は僕をさらに追い詰めるような発言をする。
「千秋と結婚したら『せなせな』になっちゃうなぁ」
彼女は、僕の苗字と自分の名前の読みが同じであることを示したったのだろう。当たり前のことを当たり前に口にしただけ。「これは海だ」と同じ熱量で紡ぎ出された。しかし、僕は勝手にプロポーズをされたような気持ちになってしまった。さっきまでと比べ物にならないほど顔に熱が集まる。心臓が強く、早く脈打つ。きっと顔は真っ赤に染まっているのだろう。そして、赤面した僕を見て彼女は笑うはずだ。そう予測をして、彼女に視線を向けた。
……意外なことにも、彼女の顔も僕と同じように真っ赤に染まっていた。
彼女は赤く染まった頬を隠すように両頬を手で覆う。そして、熱で潤んだ瞳で僕を見つめた。
「また、遊びに誘ってもいいかな」
それは、間違いなく僕が言うべき台詞だった。彼女は小さく呟いて、僕の袖を握る。僕は大きく何度も頷いて、肯定を示した。
このあと、なんだかんだと過ごして僕たちは無事に恋人という特別な関係性にまで進展する。告白は、僕からした。正しくは、彼女が僕の勇気が振り絞られるのを根気よく待ってくれた。意気地なしの僕は、恥ずかしいことに十月まで決心することができなかった。愛想をつかさずに待っていてくれた彼女には頭が上がらない。
それから一年と数か月の恋人関係を順調に歩んで、僕たちは同棲を始めることにした。互いに下宿生活だったこともあって、彼女は以前から頻繁に僕の家に泊まっていた。けれど「一緒に暮らさない?」と言い出してくれたのは、彼女の方だった。なかなか言い出す勇気を振り絞れない僕に、今回はしびれを切らしたのだろう。幸いなことにも、彼女の両親はすごく優しくて理解のある方だった。七海家に挨拶に伺った際には、盛大なパーティーで迎え入れてくれたほどだ。
三年から四年にかけての辛い就職活動を乗り越えて、僕たちは無事に内定を獲得した。彼女は住宅メーカーの地域総合職として、僕は市役所の事務員として勤める。つまり春からも拠点は変わらない。お互いに大学がある市で就職することができたのは、想定以上の幸福だった。「これからも二人で暮らせるね」と手を叩いて喜び合ったことは、まだつい先日のことのようにも感じる。
二人で生活するには狭すぎる部屋だった。
二人で眠るには小さすぎるベッドだった。
二人で並んで調理をするには窮屈すぎるキッチンだった。
それでも、彼女がいてくれさえすれば、それ以上の幸福はないと確信していた。
それなのに。
同棲中の恋人――七海星那は三年記念日を目前に、この部屋から消えてしまった。