01追憶(1)
僕が星那と出会ったのは、大学一年生の春のことだった。
入学しておよそ一か月半。見るものすべてが新鮮な大学の講義棟に、僕は少し慣れ始めていた。
桜の木はすっかり緑が生い茂り、上回生からの新入生歓迎の雰囲気も薄れ始めていた。窓から吹き込む新緑の香りを帯びた風に吹かれながら、僕は三階にある講義室を目指す。今日は一限目から、必修科目の中国語が組み込まれているのだ。
大学生になれば、時間割は自分で決めることが出来ると聞いていた。好きな科目ばかりを履修して、朝はゆっくり眠って過ごせる。入学前に抱いていた甘い幻想は、すでに打ち砕かれていた。現実は想像よりもはるかに過酷な生活だ。一回生の春学期における時間割のほとんどが選択の自由などなく、必修科目で埋まってしまう。例にももれず、僕の時間割表における一限目の欄は、まるで嫌がらせのように必修科目が並んでしまった。それでも、大教室の講義ならまだいい方だ。人数が多いので、教授も学生一人一人をしっかりと確認したりはしない。大教室で実施される科目のほとんどが、一方通行の情報の垂れ流しだといえる。
しかし残念なことに、今日の一限目は中国語だ。第二言語として履修している中国語は、少人数講義の筆頭である。一クラスの人数はわずか三十数人。これだけの人数となると、さすがに教授の監視の目が行き届いてしまう。相互での対話を求められ、いつ指名されるかと落ち着かない九十分間を強いられる。この九十分間は、数多くの講義のなかでも上位に入る苦行だった。僕は中国語を選択したので、まだましな部類だ。ドイツ語やフランス語の講義は、もっと少人数らしい。
重い足取りで、講義棟の階段を上っていく。まだ始業のチャイムが鳴るには早すぎる時間だが、なるべく後方の席を確保したい。僕たちに時間割の自由は与えられなかったが、座席の自由はかろうじて用意されていた。
勢いよく講義室の扉を開けると、数人の生徒の視線が向けられた。ちなみに、彼らの名前は知らない。大学生になると、極端にクラスメイトとの繋がりは失われるようだ。毎回自由に変わる座席のせいで、隣のやつの名前すら覚えることができない。九十分間の講義を通して、誰とも会話をしないことはよくあることだった。もちろん、中国語での形式的な会話はする。ただそれは義務付けられたものであり、自発的なコミュニケーションとは言えなかった。むしろ、自発的に誰かと会話をする日のほうが珍しいくらいだ。もちろん、全ての大学生がそうでないことは明白なのだが、僕はあまり積極的な性格をしていない。つまり、大学デビューを失敗――言い表すならば、ぼっちと言うものになってしまっていた。
なるべく後方の席を確保して、なるべく息をひそめて生きる。悪目立ちをせずに、なるべく楽に単位を取得しよう。それでいい。大学一年生の春学期にしては、虚しすぎる決意を胸に誓ったところだった。そう思い込むことで、一人ぼっちを肯定しようとしたとも言える。
僕は後ろから三列目の座席を確保する。一番後ろの席は逆に目立つ気がして、いつも避けることにしている。二列目はその目立つやつらに巻き込まれてしまう気がするので、なるべく座らない。三列目が程よく目立たなくて、透明な座席なのだ。僕はこの一か月で、哀しすぎる学びを深めた。
教室に少しずつ人が増えてきた。一番後ろの座席は満席で、ちらほらと前列も埋まりだしている。陽キャと呼ばれる存在たちが騒ぎはじめたことによって、より人口密度が高くなったように感じられた。
僕は存在感を消すように、窓の外を眺める。ただ無意味に外を眺めて、時間をつぶすそうと試みている。しばらくそうしていると、地響きのような音が大きく鳴った。僕の腹の虫だ。僕はいつも朝食を食べない。それは、朝起きることが苦手と言うよりも、単に朝食を用意することが面倒だからだ。特に一人暮らしをするようになってからは、朝食とる習慣を完璧に失ってしまった。それを咎めてくれる人もいないので、ずるずると自堕落な生活を謳歌している。ただ、何も取らないとお腹の虫は眠ってはくれない。僕は腹の虫を満たすためだけに、リュックサックから栄養補助食品を取り出した。
「ねぇ、君。まさかとは思うけど、朝ごはんはそれなの?」
まだあどけなさが残る少女の声が近くで聞こえた。
「ねぇ、聞いてるの? そこの君に言ってるんだよ」
声の発信源に視線を向ける。色白で柔らかい栗色の髪をした少女が、信じられないという表情をして立っていた。
僕は呆気にとられながらも「そうだよ。朝ごはん」と栄養補助食品のパッケージを開封しようとする。特別おいしいわけではないが、それほどまで悪いものでも無い。空腹を満たすためだけの食品が、僕にとっては当たり前の朝食だった。カロリーと若干のビタミンが補給されるのだから、十分な朝食と言えるだろう。
「ちょっと待って、ありえないから。ちょっと待って」
肩に掛けられた大きなカバンに手を入れて、何かを探し始める。「ほら食べて」と差し出されたのは茶色い物体。よく見ると、チョコレートが挟まれたクロワッサンのようだ。
いきなり。それも、知らない人に差し出された物を口にするわけにはいかない。何度か断りをいれるが、彼女は一向に引く気配を見せなかった。
僕は諦めて、そのクロワッサンを渋々受け取る。彼女の視線が気になりつつも、僕はクロワッサンを一口だけ齧った。嫌煙していたものの、久しぶりに口にした人間らしい朝食に「美味しい」と心の声が漏れ出る。
それを差し出した張本人は満足げに頷いていた。「さすが私でしょう」と言って、ご丁寧に珈琲牛乳のパックまで手渡してくれる。
僕は貰った珈琲牛乳を片手に、「君が作ったの?」と尋ねた。自信満々に「さすが私」と言うということは、手作りのパンだったのかもしれない。こんなに本格的なパンを自宅で作れるのかと、僕は感動すらしていた。
しかし、彼女は目を丸くして声を出して笑った。笑いすぎて、涙が零れそうになっている。徐々に小刻みな笑いに変化して、苦しそうにお腹を押さえた。笑いすぎて腹筋がよじれるとは、こういう笑い方のことをいうのだろう。
「そんなわけないじゃん。それは隣の駅に近くにあるパン屋さんで買ったやつだよ」
「だって、『さすが私でしょう』って言ったじゃないか」
「それを選んだのは私だもの。職人さんの腕がすごいのは認めるけど、選んだ私のセンスがすごいのよ」
とんだ暴論だ。美味しい朝食を提供してくれた恩人でもあるが、これ以上関わり合うのはごめんだ。面倒なことになる予感がする。「ありがとう。お金は払うから、いくらだった?」と後腐れなく、関係を断ち切るために財布を取り出した。
しかし、彼女はお金を受け取ろうとはしなかった。「いいのだよ。君の空腹を満たせたら」と正義のヒーローを気取りながら、荷物を机に置く。まだ空席はたくさん残っているというのに、僕の真横の席に腰を掛けた。
最悪だ。
今日の講義は、本当に散々だった。何が散々かと言うと、彼女は目立って仕方がない。もちろん、悪い方にだ。大きな声で中国語の発音を間違えて、教授がそれを指摘した。しばらく音読を続けると、違うところでまた発音を間違える。その度に、名前も知らないようなクラスメイトと教師の視線がこちらに向けられた。時折、隣の席の僕にまで飛び火して「そこの君。この単語を読んでみて」と指名されてしまう次第だ。
これほどまでに、名前も知らない少女のことを恨んだことはない。心の中で、何度も悲痛な叫び声をあげた。
それなのに、僕はなんだか彼女のことを嫌いになることはできなかった。発音は散々だが、彼女の教材は書き込みでボロボロになっていた。入学一か月とは思えないほどの書き込みの量で、教授の小話までメモがされている。絶対に試験には出題されないような、旅行話や中国料理についても、だ。一生懸命な子なんだな。そう思うと、たかが飛び火くらいで嫌いになることは出来なかった。
それでも、僕が散々な目に遭ったことには変わりない。たった九十分の講義で、一日の体力と生命力をすべて吸い取られたような気がする。疲労困憊。一気に老け込んだに違いない。
しかし、講義は僕の体力を考慮してくれたりはしない。予定通り十五分後には次の講義が開始する。僕は次の講義に向かおうと、重い腰を上げて荷物をまとめた。
小さく服の裾を掴まれる。小さくて柔らかな指が僕を引き留めていた。
「ねぇ、君。明日の朝は暇かい?」と少女は僕を覗き込む。髪と同じように柔らかい色をした瞳は、僕の心を掴んで離さなかった。
「うん。暇」
僕は考えるよりも先に、答えを返していた。しかし、特に問題はない。明日は土曜日なので講義は休日スケジュールだ。僕の土曜の履修科目はゼロ――全休だった。友人はいないので、プライベートな予定も特にはない。悲しいが、確認するまでもないことだった。
「それなら、明日はそのパン屋さんに行こうよ。友達の印にさ、『私直伝。おすすめのパン』を聞かせてあげよう」
僕は思わず口角をあげてしまう。何が面白かったわけでもなく、ただ純粋に心の底から笑顔が溢れた。こんなにも一生懸命で、こんなにも自信に満ちた少女に出会えた興奮に心が喜んでいるのだ。
大学生活における友人第一号は、思わぬ形でできてしまった。それも、とびきりに快活で可憐な少女。それが嬉しくて、なんだかむずがゆくて、緩む口角を引き締めることは出来なかった。