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09追憶の夜を超えて

 カーテンの隙間から差し込む日差しが痛いほどに眩しい。まだ、もう少しだけ夢の中にいたいと願ってしまう。

「ねぇ。ちょっと千秋。千秋ってば、しっかりしなさい」

 誰かが僕の肩を揺さぶる。肩に指がめり込むくらいの力強さだ。痛いほど強く揺さぶられたせいで、二日酔いの頭がひどく鈍く痛んだ。

「ちょっと、死んでないわよね? 私救急車読んだ方がいいのかしら、ねぇ。千秋? 起きないと本当に呼んじゃうわよ」

……母さん。

 もう随分と長い間、電話越しでしか聞くことのなかった母の声が頭に響く。ぶつぶつと心配事と不満を口にする母さんは、ついにスマートフォンを探し始めた。さすがに救急車を呼ばれてはまずいと思い、小さく唸り声をあげて返事を返す。すると、母さんは再び強く揺さぶり始めてしまった。母さんは「倒れている人間をむやみに揺さぶってはいけません」と習ったことがないのだろうか。少なくとも、僕は小中の授業の間に学んだ。

「ちょっと、千秋。大丈夫?」

「母さん、生きているから。二日酔いの頭に響くから、少し静かにして」

 ひどく鈍く痛む頭。慌てて起き上がったことで誘発される吐き気。机に突っ伏して寝ていたことで体中の節々がきしみ、しびれていた。

 時刻は朝の八時三十分。カーテンから覗く空は、眩暈がするほどの快晴だ。

分かってはいるが、今日も彼女は帰ってきてはくれない。

「母さん。今日はどうしてこっちに来たの。連絡もなしで珍しいね」

「だって、あんた……」

 母さんは言葉を濁す。慎重に言葉を探し出しているようにも見えた。実の息子にそこまで気を使わなくてもいいのに。そう思うが、それが母の優しさというものなのだろう。

「母さん。もう大丈夫。いや、大丈夫ではないんだけど、うん」

「だって、あんた。混乱で記憶が……」

 言葉にすると急に現実味が増してしまうような気がして怖かった。

ずっと僕は彼女の死から目を逸らし続けていた。出て行ってしまったけど、いつか帰ってくるかもしれない。そう思い込むことで、自分を保とうとしたのだ。それがどれだけ重い罪かも知らずに。

「星那は死んだんだ。ちゃんと分かってるよ」 

 母さんが息をのむのが分かった。視線はいまだ宙を彷徨ったままだ。しかし、いくら探したとしても、その答えが見つかることはない。

 だけど、やっと僕は自分の罪と向き合える。

 

 僕の罪は、全てを無かったことにしたこと。彼女が連絡を返さない理由を、彼女が家を出た理由を、彼女と過ごした三年記念日の思い出そのものを。全てを記憶の奥にしまい込むことで、僕は彼女の死から目を逸らした。

 母さんは行き場を失った手をこちらに伸ばしていいか模索している。家族のぬくもりをありがたく感じ、その手を掴んでしまいたいと思った。けど、それはもう少し自分の罪と向き合ってからにしたいと思う。

「母さん。ごめん。少しだけでいいから、一人にして欲しいんだ」

「わかった。朝ごはん買ってくるわね」

 遠方からわざわざ訪ねてきてくれた母さんを追い出すことには気が引けたけど、今はもう少しだけこの記憶と向き合う時間が欲しかった。

 母さんが手荷物だけを腕に下げて、玄関を後にする。古びた階段をきしませながら下っていくことを確認して、僕は深く息を吐きだした。母さんが明けた窓から、二月の凍えるような風が室内に吹き込む。僕は小さく身を震わせた。ひどく冷たく、寒い。十月のあの日とは違う。今は素足で浜辺を走るなんてできそうもない。

 おもむろに取り上げたスマートフォンを起動させ、カメラロールを辿る。探し物は彼女が撮影して送信してくれた動画だ。僕に写真を撮影する習慣がないことが幸いして、目当ての動画はすぐに発見された。震える手で動画を再生する。半年ほど前の僕が画面いっぱいに映し出されて、カメラを構える彼女の声が響いた。懐かしく、聞きなれていたはずの声。ただ、それは機械を通した彼女の声らしきものであり、本当の彼女の声がこんな風だったかは正確に思い出せない。

 動画を停止させ、立ち上がる。置き去りにされていた香水の瓶に手を伸ばした。彼女の愛用のシングルノート、いちごの香りがする僕のお気に入り。天井に向けて噴射させ、香りを吸い込む。甘酸っぱい春の香りが広がり、懐かしさを感じることができた。しかし、それは彼女の香りではない。香水はつける人の体温や体臭でわずかに香りを変化させる。僕が今吸い込んだ香りは、彼女のものではない。もう彼女の香りを思い出すことは叶わぬ夢だ。

 僅かな寂しさを抱えて、彼女の愛機のミラーレスカメラを起動させる。充電は意外と長く持つようで、赤ランプが点滅していたが起動することができた。彼女が構えるカメラだったので、フォルダの中は僕ばかりだ。僕は探す、僕が取ったはずの彼女の写真を。思い出を遡り、懐かしい記憶があふれ出す。僕も彼女のように、もっと自分の携帯で写真に残すべきだったのだ。

 ようやく見つけた二人の写真。ミラーレスカメラで無理やりに取られたツーショット写真のため、画角は非情に悪かった。もちろんピントもいまいち合っていない。ただ、ぼやけて滲んだ僕らの顔が幸せに満ちていることは十分に分かった。それだけでよかった。

 どうせ、写真の中の彼女を見たって、それは僕の肉眼が映し出していた彼女とは異なるものだ。カメラを通して見た彼女は、本当の彼女ではない。

 僕はもう思い出すことが出来なくなっていたのだ。彼女の声も、顔も、匂いでさえも。きっとそれは仕方のないことで、人間の記憶の限界なのだろう。どれだけ忘れたくないと願っても、零れ落ちてしまうものだ。

 僕は静かに瞳を閉じて、追憶する。

 彼女の顔を、表情を。優しい声を、訳の分からない鼻歌を。甘酸っぱい春を香らせる幸福の香りを。

それはもう、正確には思い出すことのできない記憶だった。少しずつ歪んで、いつかきっと完璧に思い出せなくなる日がやって来る。

 その代わり、僕は忘れることのない記憶を持っている。

 出会ったあの日。バレーボールをした記憶。僕が告白をしたこと。同棲を始めたあの日のこと。そして幸福な三年記念日。

 思い出は――思い出だけは、確かな記憶としてここにある。

 大丈夫。まだちゃんと覚えている。

「思い出して、受け止めて、そして『忘れて』」

 彼女は確かにそう言った。

 だけど、忘れてなんてやるもんか。僕は全部を抱えて生きていく。もう記憶の奥底にしまい込んだりはしない。思い出だけは、地獄の底にまで持って行ってやる。

 

 追憶の夜を超えて、僕は君を「思い出」にして見せよう。




公募に落選してしまった供養にお付き合いいただきありがとうございます。

良ければ評価、感想をいただけますと幸せです

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