第10話:飛び奔る危機
ラウルと小声でやりとりし、摺り足ぎみに後ろへ進んだ。
上体はブレさせず、極力立ち尽くしたままの姿勢を維持して、距離だけを稼ぐ。
騎士のような重装備の黒い異形。互いに視認できる距離感で、無防備な背中を奴に晒し逃走する気とはなれない。もっと離れてからだ。直接手が届かないところまで行って、そこから初めて一目散に脱兎する。そうでなければ喰らい殺される、そんな予感があった。
しかし人知の及ばぬ迷宮内では、こちらの思惑通りにいかないことの方が多い。
静かに離れようと苦心している最中に、騎士型の魔物は僕達に顔を向けてきた。
髑髏を象った不気味な兜が、眼窩の奥から毒々しい赤光を放つ。スケルトンが灯しているのと同種の光。
一瞬、蛇に睨まれた蛙の如く体が固まる。恐怖と無遠慮な威圧感によって、足が止まった。僕も、ラウルも。
『カオスイーター』
突然、平板な声が僕達の耳朶を打つ。
高くも低くもなく、男でも女でもない。酷く無機質で、感情の乗らない声だった。
僕達は横目だけで視線を交わす。僕ともラウルとも違う、第三者の声だ。
この状況で考えられる発声源は唯一つ、あの不気味な黒い魔物。
「魔物が喋りよったんか?」
「そうとしか考えられないね。吼え声以外を初めて聞いた」
「ワイもや。もしかして、話し合えるんとちゃうか」
「そう出来たらなによりだけど。人の言葉のような鳴き声、という可能性もある」
ヒソヒソと話している間に、黒騎士が新たな動きを見せた。
無骨な長剣と共に右腕を振り上げていく。
完全武装の状態で、武器を翳すのが魔物流の友好証明でない限り、マズイ状況だ。
僕達と相手との間には30歩以上の間合いがある。近接武器による直接攻撃は、普通に考えれば届かない。でも魔物にはどんな能力が秘められているか分からないため、まったく安心などできない。
僕の心臓は早鐘を打ち、意図せず呼吸が荒く乱れそうになる。頭の奥で、あるいは体の芯から、生存本能が激しく警鐘を鳴らしていた。
だからだろう。僕は殆ど無意識に体を外側へ捻っている。
「――痛ッ!?」
その直後、鋭い痛みが左肩を襲った。
何事かと目をやると、僕とラウルの間の床が、一直線に裂けている。
そして、赤い血液を噴き出している僕の左肩。本来あるべき腕がない。では何処にいった?
床面の上に、遺物弓を握ったまま左腕が落ちている。
即座に視線を転じれば、黒騎士の右腕が黒剣を振り下ろした形にある。僕達の距離は変わっていない。
遠投で斬撃を飛ばしたのか。
もし体を捻っていなければ、頭から股下まで斬られていたところだ。
「ふ、フユ、おま、腕……」
「走るぞラウル! アイツは遠距離攻撃できる!」
僕の切断された左肩を見て、ラウルは糸目を開き驚愕している。
その横顔へ一喝し、僕はただちに踵を返した。
反射的に右手で左腕を拾い上げ、一気に駆け出す。
ラウルも瞬間ギョっとした後、遅れないよう走り始めた。
「腕――腕、斬れとるやないかい!?」
「落ち着け。斬れてるのは僕の腕で、キミのじゃない」
「おま、おま!?」
「遺物弓を強く撃った影響か、痺れが残ってて感覚が鈍い。おかげでそんなに痛くはないよ。キミより動揺もしてないしね。早いところ、止血だけはしておきたいけど」
「どういう神経や。強心臓かい!」
「命の危険を前にしたら、戸惑うよりも動くが先だ」
冒険者として生きている以上、もしもの場合を色々と想定してきた。魔物との戦いで四肢を失うパターンは、一番ありえそうな展開でもある。イメージトレーニングというのも変な話だけど、重傷を負った際にどうすべきか、事前に心付けてきたことが今役立っていた。
人は予期せぬ事態に弱い。頭が混乱し、心が乱れ、冷静な判断ができなくなる。それで無駄な時間を浪費してしまい、手遅れになる者を何人も見てきた。彼等と同じ轍を踏まないために、最悪を想像し、心構えとして備える。
惨めな醜態を晒したくはない。そういう気持ちもあった。どんな時でも可能な限り颯爽としていたい。これは僕自身の願望でプライドだ。だからこそ、突発的な異変に呑まれないよう、自分を保つための術は意識してきた。