24-Ⅶ 史子叔母さんの告白【挫折と疑念】
銃殺された兄は、交通事故死として処理され、傷跡は、銃で撃たれた痕とは分からないよう、手が施された。
兄は殺されたのに、新聞には兄の名も、パーカー司令官の名も何も掲載されなかった。
兄の遺体は、ひっそりと飛行機に積まれ、私と共に日本へ帰国した。
兄を遺体となった姿で帰国させてしまった私の責任は重く、両親はもちろん、由美と麻紀に会わせる顔がなかった。
麻紀はまだ1歳だった。
父親の死を理解できない麻紀が、無邪気に笑い、はしゃぐ姿を見ているのは、とても辛かった。
兄はどんなに麻紀に会いたかった事か。
大きくなるのを、どれだけ楽しみにしていた事か。
日本にいるのは辛く、告別式が終ると、私はすぐにA国へ帰国した。
パーカー司令官の処遇をどうするつもりなのか、訊ねようと大統領に接触を試みるも、CIAから次から次へと仕事が舞い込み、これまでにない忙しさとなった。
しかし私自身、何もかも忘れたい気持ちが強く、正直、忙しい間は仕事に集中できて、気持ちが楽だった。
そうしていくうちにCIAからの依頼は増え、ますます身動きが取れない状況になり、峰准教授と青木君とも接触できなくなっていた。
もともと、パーカー司令官の監視は、CIAからの仕事ではなく、あくまで、ケリー大統領の私的な「おつかい」だ。
本来私は、CIAの仕事を優先しなければならない。
そう自分に言い聞かせながら、私はCIAの仕事に打ち込んだ。
私は仕事であちこち飛び回りながら、少しずつ落ち着きを取り戻し、色々と考えた。
パーカー司令官を罪を問うのは難しい、というのは本当だろうか。
パーカー司令官を守る為に、大統領自らが、兄の死の始末に、関わったのではないだろうか。
CIAの仕事がどんどん舞い込むのも、私の動きを封じ込もうする、大統領の策略ではないのか。
私は、ますます、大統領に疑念を抱くようになった。




