君がトイレに籠る訳
『お願い。私を探さないで』
8畳フローリングのワンルーム。シングルベッドと小さな丸いガラステーブル。壁際には小さめのテレビ。殺風景な部屋のそのテーブルの上には、そんな事が書いてある1枚の小さな紙が置かれていた。
昨晩は夕食を兼ね、居酒屋のカウンター席で以って1人で飲んでいた。そのカウンターの1つ空けた横の席にその女はいた。細めに見えるその女の何処にそれが入るのだろうかと思う程に、女の前には食べ終わった皿が積まれていた。
「ねえカレシぃ、1人で飲んでるの?」
ビールジョッキを片手に、女は俺に話しかけてきた。
「お姉さんだって1人じゃないすかぁ」
手入れしているのが傍からも分かる長い漆黒の髪。安くはなさそうなベージュのスーツ。肌色とほぼ同じストッキングに低めのヒール。俺よりも少し年上、三十路手前に見えるその女は既に赤ら顔だった。
「カレシは今幾つ?」
「26っす」
「へぇ、てっきり大学生かと思った」
ニヤニヤしながら女は言った。俺はスーツ姿の社会人であったが、その女からすれば子供に見えたのだろう。まあ、俺の顔が童顔であるのは自他共に認める事でもあり、同僚からもよく言われる事だ。故に今更不快にも思わない。そして女は「ちょっと聞いてよ」と、愚痴といった話を勝手に始めた。
「若い女の子に群がって皆チヤホヤするのよねぇ。馬鹿じゃないのかしら」
「三十路近くになると皆焦るのよねぇ。私は気にしてないけどさ」
「じじいの上司がエロい目で見てくんのよ。セクハラって言葉知らないのかしら」
俺はただただ相槌を以って聞いていた。女は頬杖を突きながら飲んでいたが、時折肘がガクっと滑って転げ落ちそうになっていた。それを見て『この状況なら行けるかな?』と、俺の下心に火が付いた。目の前の女は3つ程上なだけで気にする程の年齢差でも無く、ちょっと化粧が濃すぎる気もしたが綺麗と言える部類に入る。付き合いたいと迄は思わないが、一晩ならお付き合いしたい。
「お姉さん、俺んちここから近いけど行かない?」
「うーん。別にいいよぉ」
酒が入っているとはいえ随分あっさりしてるなと、一瞬不安が過りはしたものの、俺も酒が入っている状況でもあり、燃え上がった俺の下心を鎮火する要素は何も無い。そして俺はめでたくテイクアウトした。
そして翌朝。カーテンから射し込む朝の陽射しが目に染みた。それと共に便意を催しパチリと目が覚めた。横を見ると、そこで寝ていたはずの女の姿は既に無かった。いわゆるワンナイトラブ。中々にして理想的な夜だった。流石はお姉さんという感じだった。さてさてトイレに行くかなと、ベッドからもそもそ這い出ると、テーブルの上に置かれたそのメモに気が付いた。
しかし「探さないで」という言葉の意味が全く分からない。名前も知らない昨晩初めて会った三十路手前のその女。探すも何も、こちらとしては「帰ってくれてありがとう」と御礼を言いたい位なのに。恋愛ドラマを見過ぎて恋愛脳にでもなっているのだろうかと、ふと三十路手前の女のイタさを垣間見た気がした。とりあえずは僥倖と、気を良くしたままトイレへと向かった。
ガチャガチャと、独り暮らしのワンルームのトイレには鍵がかかりドアノブが回らない。直ぐに『ひょっとしてあの女がいるのか?』という事が脳裏を過り、ブルブルっと悪寒が走った。とはいえこんな事で警察を呼ぶ訳にも行かず、まずは自分で確かめようとドアをコンコンと叩いてみた。
「探さないでって言ったでしょっ!」
トイレからはそんな意味不明な言葉が返ってきた。
「いや、探さないでって意味分からないし……。っていうか、お姉さん帰ったんじゃないんすか?」
「……」
返事が無い。まあそれはそれで良いとして、俺の便意もヤバくなってきた。
「とりあえず早く出てくれませんかね? 俺もトイレに入りたいんですけど」
「……」
返事が無い。俺はドンドンとドアを叩いた。
「ちょっとマジで出てくれません?」
「……」
少しきつめのトーンで言ったが返事は無い。
「もう良いから早く出ろよっ!」
「……」
トイレに籠る年上女性に対し、Tシャツとボクサーパンツ姿の俺は言葉で以って怒りを示したが、それでも何らの反応は無かった。そもそも「探すな」と書いたメモを残し、人の家のトイレに籠るって何なんだろう。そういえば昨晩、女は居酒屋で以って驚く程に食べていた。それ故に女も大変な事になっているのだろうか。とはいえ、俺にも人の事を心配している余裕は無い。それが小であれば家のすぐ外で以って、周囲の白い目を気にしなければ何とかなりそうではあるが、事もあろうに大である。白い目で見られるだけで済むなら大歓迎。実際には通報されるかネットで以って世間に晒される可能性が高い。公衆トイレも考えたが、それがあるのは家から10分程歩いた公園。歩いているうちに出てしまう事は必然。いっそ風呂場でもと思ったが、俺の家はバストイレが一体式のユニットバス。
ふと、フランス革命という歴史を思い出す。かつてのフランス王政は大群と言える民衆に滅ぼされた。1人1人の力は無力であっても、それが大群であれば軍隊を擁した王政と言えども滅ぼせるというその歴史。俺の腸内では民衆が王国から出ようと1か所に殺到している。王様とも言える俺は息を止めて歯を食いしばり、拳を握りしめながら最大限の力を臀部へと注ぎ、出口をこじ開けようとする民衆を力で以って抑え込んでいたが……
ブリ……
隙を突いて1人の民が飛びだした。俺は精一杯努力をしたが、フランス革命の王政側同様に、力で以って抑えつける事が出来ない事もある。それは力で抑えつけてはいけないという歴史である。だから俺は民衆の意思を尊重して抗う事を止め、自然の流れに身を任せた……
ブリブリブリブリブリリリリリ……
それは王政打倒を叫ぶ民衆の声だろうか。そんな音と共に、腸内に留まっていた民衆は堰を切ったようにして、一斉に外へと出始めた。そんな民衆を尻目に、俺は解放感を感じる共に尻が暖かくなるのを感じていた。そして俺の為にあつらえたのかと思う程に、ピッタリとしていたボクサーパンツが徐々にキツイ履き心地になっていく。その量たるや、通常の量を遥かに凌駕する事が見なくても分かる。それと共にパンツが重くなり、重力に抗えずに自然と下に落ちそうになる。そして仄かに立ち昇る、独特の臭気が部屋の中へと充満し始める。俺は全てが終わったという不思議な感覚に囚われ、口を半開きに天井を仰いだ。
それを見計らったようにしてガチャリとドアが開いた。トイレからは水を流した音は聞こえなかったが、女はスッキリとした表情で以って出てきた。女は俺の目を黙ったままにみつめ、ほんの少し微笑んだ。その目は『タダで良い思い出来たでしょ?』と言っているような気がした。そして女は何も言わず、そのまま家から出て行った。
独特の臭気漂うその部屋で、1人残された俺は天井を仰ぎ見ながら考える。今履いてる俺のパンツは燃えないゴミだろうか、燃えるゴミだろうか、それとも生ゴミだろうかと。瞬間、頬を何かが伝わった。
私はそんな内容のブログを見ていた。何気なく見つけたその匿名ブログ。本当の話か創作かは分からない。問題はブログに出てくる女と酷似する女が私の隣で寝てる事。
濃い目の化粧を施した、三十路前後と思しき長い漆黒の髪の女。どちらかと言えば綺麗な部類のその女。居酒屋で以って一人で飲んでいた時に話しかけてきたその女。やたらと大食いのその女。ほぼブログと同じ状況で出会ったその女が、私の隣でスヤスヤと寝ている。
今は午前3時。ふと目が覚め、何気なく手にした携帯電話で以ってだらだらとネットを見ていた。そして見つけたそのブログ。とはいえこれは創作だろう。さてさて起きる時間にはまだ早すぎる。女もグッスリと寝ている事だし、俺ももう一眠りするとしよう。
次に目を覚ますと朝になっていた。すぐに横を見るも女はいなかった。瞬間、私の脳裏にはブログの内容が駆け巡り、部屋の中央に置かれた小さなテーブルに目をやった。寝ぼけ眼で見たテーブルの上には1枚の紙切れが見えた。瞬間的に目がパチッと覚めた私は布団を蹴飛ばし起き上がり、その紙きれを手に取った。
『お願い。私を探さないで』
私はすぐにトイレへと向かった。すると案の定、ガチャガチャとトイレのドアノブを回すもカギが掛かって開かなかった。
コンコンとドアを叩き「入ってますかあ」と声をかけると、「探さないでって書いてあったでしょ?」と、中からはくぐもった声で返事が返ってきた。探すも何も私の家のトイレ。というかブログと同じ状況。私はブログと同じ女であると確信した。あのブログは創作で無く、事実が書いてあると確信した。
「あの、ここ私の家ですし……」
「……」
すると急に便意を催した。正しくブログと同じ状況。私はブログの中に書かれていた内容を思い出し、その最悪とも言える状況を回避する為、今何を成すべきかを考えた。
近くに公衆トイレは? いや、少なくとも数分で行ける場所には無い。
ならば野グソするか? いや、人目につかない場所が思いつかない。
バケツにでもするか? いや、バケツその物が家には無い。
ビニール袋の中とか? いや、上手く入れられる自信が無い。
風呂場でしてみるか? いや、この家はバストイレ一体のユニットバス!
ベランダから外へは? いや、ここは2階で目の前は人通りの多い道路っす!
私は悔んだ。こんな状況に陥る事を想定した準備をしていなかった事を。
「ちょ、マジで出てください! 私も限界なんですっ!」
その急激な便意は信じられない程の勢いで以って襲ってくる。私は哀願の気持ちを以って女に懇願するも、トイレの中の女は何ら反応しない。女とのそんな朝のやりとりは、実際には30秒程の物であったが、精神的には1時間に感じた。
ここで私は思い至る。ブログの内容と現状から考察するに、女は男の下半身が破綻するのを待っている。下半身が破綻するのひたすらに願い、それをじっと待っているのだと。偶然訪れるであろうその便意という不確かな状況をひらすらに待ち、破綻する事を待ち望んでいるのだ。トイレに籠るその女は、今頃ほくそ笑んでいるのであろう。
私は先のブログを書いた者の気持ちが手に取る様に分かった。いや、完全にその人と同期しているといっても過言では無いだろう。私は最善の努力をしたが一歩及ばず、既に破綻していると言っていい状況だ。いや、少しはみ出ている状況だ。であれば、これ以上抵抗するのは無意味という物であろう。
ブリ……ブリブリ……ブリブリブリブリブリリリリ……
そうして私は泣きながらに天井を仰ぎ見て、三十路女のバカな願いを叶えてやった。
なあ、これで満足だろ? だからもう……出て行ってくれっ! クゥーッ!
◇
20歳の時に同棲していた男はロクな奴じゃかった。私は小食な方だったが、大柄でもあり大食いのその男は、私にも同じ量を食べろと無理を言うような男だった。無理に食べては便意を誘発させる為に夜な夜な街を歩き、トイレに籠ってそれを出す。そんな意味不明な生活が続いた。
そしてある日、私は泣きながらにトイレに籠っていた。もうこんな生活は嫌だと。けれど逃げたりしたら何をされるか分からない。誰も相談相手はいない。そしてトイレの外からは「おいっ! 早く出ろ! 俺も入りてぇんだからよっ!」と、ドンドンと乱暴にドアを叩かれる。誰の所為でこんな目にあっているんだと言いたかったが、そんな事を口にすれば何をされるか分からない。
『いっそアンタに私のうんこが移ればいいのに……』
ふと、私の便意が無くなった。あんなに張ってたお腹も引っ込んだ。トイレの外では「テメェ早く出ろっ!」と、先程よりも強い口調で男が騒ぎ始め、私は怖くなり余計にトイレから出られなくなった。そんな状態が30秒程続いた後、「あ……あぁ……」と、嘆きとも取れる声が聞こえ、先程迄の怒号が突如止んだ。ドアに聞き耳を立てたが何も聞こえない。そして恐る恐るドアを開けた。するとそこには、ペタンと床に座り込む男の姿があった。その表情には悲しみと絶望、それと恍惚が浮かんでいた。そんな表情で以って口を半開きに天井を見つめていた。男の目からはピチャン、ピチャンと、涙が床に零れ落ちていた。その目が「何で早くトイレから出てきてくれなかったんだよぉ」と、無言で私に訴えていた。その場には独特の臭気が漂っていた事からも、私は直ぐに状況を察した。その瞬間、私と男の立場が逆転した。それまで怯えていたのが嘘のように、私は男を見下ろすかのようにして見つめ、「私、出て行くから」と、自分の荷物をまとめて男の家を出て行った。
どうやら私には男を見る目は無いらしい。次に付き合った男もロクな男では無かった。居場所がトイレしかない私はトイレに籠っていた。そして男に「早く出ろ」と、ドアをドンドンと叩かれながらに急かされる。
『もう嫌だ、いっそ男にうんこが移ればいいのに』
私はそう強く願った。すると私の便意が消え去ると共に男が激高しだし、「早く出ろっ!」と、先よりも激しくドアを叩きはじめた。
私は怖くてトイレから出れなかった。するとドアの外では「あ……あぁ……」と、前の男同様に嘆きの言葉が聞こえた。私が恐る恐るドアを開けると、そこには恍惚の表情で以って天井を仰ぎ見る男の姿があった。前の男同様に悲しみと絶望、それと恍惚。そんな表情で以って、口を半開きに天井を見つめる男の姿があった。私は再び立場が逆転した事で、その男の下から立ち去り、実家へと戻って行った。
「ひょっとして私には『うんこテレポート』の能力があるのではないか?」
実家に帰った私はふとそんな事を思った。丁度便意を感じていた私は早速テストした。「私の中のうんこをそのままトイレに」と強く願った。だがそれは叶わず、とりあえず自分の足で以ってトイレに向かった。その後も母親に試してみたが出来なかった。会社で以って可愛い新人の女の子にも試したが、それも上手くいかなかった。ひょっとして男に対してだけ移動させられるんだろうかと仮説を立てて、上司に移そうと願ったがそれも出来なかった。父親に試してみても出来なかった。2人の男に移せた状況と何が違うのかと考えると、親密になった人だけに移せるのではという仮説が成り立った。
私は居酒屋に1人で行ってはイケてる1人飲みの男を探した。それを見つけると私の方から声をかけては男の家へと着いて行った。その際、うんこを溜める為に吐きそうになる程沢山食べた。
親密になる事で腸内が繋がる。どんな理屈でそうなるのかは分からないが、結果、うんこのテレポートが出来た。その後に見た男の顔が忘れられない。それは愛おしいと言っても良い位だ。
悲しみと絶望、それと恍惚。そんな表情で以って口を半開きに、私を見つめる男の顔が忘れられない。苦悶に満ちた表情も見たいが、それを見る為にはトイレから出なければならず、それでは恍惚と絶望の表情を見る事は出来ない。最近では遊び心で以って「探さないで」なんて紙も用意する事にした。そしてトイレに籠ってうんこテレポート。
夜の扱いが乱暴だったりぞんざいな男であれば下剤を飲む事もある。その時の男は恍惚どころか、捨てられた子犬の如くと云った表情で以って私を見つめる。当然足元は悲惨な状態となっている。そんな様子に「昨晩の乱暴な振る舞いは何処へやら?」という感じで何とも可愛く見える。
男はタダで良い事が出来て、私も男達のそんな姿や表情を見れて大満足。明日への英気を養わせてもらっている。これは一種のトレードオフといって良い物だ。
私の腸内から親密になった相手の腸内へとうんこを移動させる能力。不意に神様に貰った『うんこテレポート』という能力。とはいえ試した相手は男だけ。未だ女には試していない。今度会社に入ってきた可愛らしい新人の女の子。その子を酔わせて試してみようかしら? どんな表情を見せてくれるのか楽しみだわ。
2020年04月22日 2版誤字訂正
2020年03月07日 初版