オタク、運命の少女に出会う
グレニスタ・アカデミア。
貴族階級の子息令嬢が厳しい試験をくぐり抜け、入学を許される、国有数の教育機関である。
冬へ向かう初秋のある日、モナ・エミリー・クライヴは、その門を初めてくぐり抜けた。
紺色のロングワンピースには同じく紺色の生地に、白い線が2本入ったセーラーカラー。上品な真紅のスカーフはつけていれば許されるため、学生は各々気に入った結び方で胸元を飾っている。モナは少し大きめのスカーフをネクタイのように結んでいた。
黒いタイツに、しっかりと磨かれた黒の革靴。大人しく上品な装いは、気品を感じるセンスの良さだと、モナは感じていた。何よりも、モナは思う。
「腹回りが楽で最高……」
噛みしめるようにモナは呟いた。
貴族が着る服はいちいちコルセットをつけなければいけないのが面倒極まりない。体型なんか気にしない、誰も私の服装なんか見ていない、少しでも手が抜きたい、といくら訴えようとも、「ドレスコードだから」「しきたりだから」「家名を背負っていることを忘れるな」と小言が飛んできて、結局コルセットの紐は緩まなかった。
それに比べてこのワンピースは良い。所謂Aラインのワンピースは、腰まわりを気にする必要もなく、学業にきちんと意識を向けられるよう、体調に配慮されている。
淑女がみだらに肌を見せるのははしたないと、様々な配慮はなされているが、こんな軽装で外を歩けるのは本当に久しぶりだった。
これから6年はこれが許される。なんて素晴らしいことだろう。
校章で蜜蝋がされた封筒を出し、その中から招待状を開き、門前に控えた燕尾服の紳士に手渡す。紳士はそれを確認すると、「ご入学おめでとうございます」と講堂への道をあけて入室を促してくれた。反対側に立っている紳士からは、今年の入学者一覧であろう、縦長のリーフレットを渡される。校歌が裏に印字されていたが、生憎とモナは旋律すら覚えていない。
広い講堂はずらりと長椅子が敷き詰められ、その中にはちらほらと学生の姿が見える。
談笑している少女、退屈そうに座って明後日の方向を見ている少年、そわそわと周りを見回す子。反応は様々だ。
ぱっと見た感じでは、モナが親しくしている令嬢は居ないらしい。
ならば、とモナは講堂の奥、下座側の誰も座っていない長椅子の最も端に腰を下ろした。
モナは小さな領地を治めている子爵家の令嬢だ。いくら学問の名のもとに階級を気にせず暮らせと言われていても、気になるものは気になる。上座に座るのだけは避けたくて、早めに登校したのだ。大して高い身分ではないのだから、目立たないところでちんまりと眺めているくらいがちょうどいいだろう。
腰を落ち着けたところで、モナはリーフレットを開いた。
確か夕食の席で、父上が「今年はすごい年になるな」とか言っていたような気がする。
入学者のリストを目で追って、その意味を再確認した。
「公爵家の長男、同じく公爵家のご令嬢。宰相のご子息、騎士団長のご子息――なるほど、確かに錚々たるメンバーね」
元々霞みきっている子爵令嬢としては雲の上の存在の人物が山程名前を連ねている。
「なんでまた、今年に集中しているのかしら。すごい偶然もあったものね」
これで優秀な男爵令嬢が居れば完璧なんだが。
モナは、内心でそんなことを考え、男爵位と思しき女学生の名前を追った。
□
モナ・エミリー・クライヴには、この世界とは全く異なる記憶がある。
その記憶の中で、彼女は御影環という女性だった。また、彼女の持つ記憶の最も最新の記憶は、28歳で途切れていた。
そこで死んでしまったのか、それ以降の記憶を忘れてしまったのか、モナにはわからない。
よく似た別の世界、とモナには感じられる。
食生活には共通するものがあるし、仕事はちょうど役所が行っているようなものに似ている気がする。そして、その世界のモナ――御影環は、何にも代えがたい趣味を持っていた。
それこそ、乙女ゲームである。
ひとりの女性が、様々な男性を心の交流をはかり、段々と愛情を深めていく。困難に二人で立ち向かい、やがて二人は結ばれる――そんな、ラブストーリーが主題のゲーム。
環の部屋には、驚くほど多くのゲームが並んでいた。どれもこれも同じジャンルのゲームである。学園モノが多かったが、中にはオフィスラブや、冒険譚、時代物まで様々な作品ジャンルがあった。
どれもこれも、環にとっては大切な作品だ。
環が重きを置くのはストーリーで、特定の男性キャラクターを好ましいと思ったことはあまりない。むしろ環が好んでいたのはヒロインだった。デフォルト名が設定されている作品はすべてデフォルト名でプレイした。デフォルト名がない場合は自分ではない誰か別の女性の名前を考えて入力した。
ヒロインを自分の分身と思うことは環にはどうしてもできなかったのだ。環は第三者目線でヒロインの恋を見守っており、時にひどい扱いをする男性キャラクターに憤った。
ヒロインを誰よりも守りたい。叶うならヒロインを攻略したい……。
そんな気持ちをいつも抱えながら、環はゲームをプレイしていた。
ならばギャルゲーをすればいいのではと思い、正反対のジャンルである男性向けギャルゲーに手を伸ばしたこともあるが、微妙だった。なんか、違うのだ。
モナは、その環の葛藤や拗らせた情熱をそのまま抱えて生きている。
両親の目を盗んで大衆小説をお忍びで買いに行ったり、自分で物語を書こうとしたりと、モナとして生まれ落ちてからも少しでもその高揚感を味わおうと試行錯誤してきたが、乙女ゲームを超えるものには出会えない。
そもそも、なぜだか今の大衆小説は悲劇が多すぎる。
恐らくシェイクスピア的な劇作家が影響を及ぼしているのだろう。母に連れられてオペラを鑑賞したモナは、冷静にそんな考察をしたことがある。とにかく悲劇はドラマティックだから、仕方ない。
「ここが乙女ゲームの世界だったなら……」
と貴族名鑑を毎日眺めていたこともある。残念ながら前世と思しき御影環の知識の中に、条件が一致した貴族はひとりも居なかった。貴族学園ストーリー、タイトルを挙げるだけでも結構な数があったと思うだが。
だがまあ、物心ついた頃からあがいた結果として、ただ、見知らぬ世界に生まれただけで、特にゲームの中というわけではないようだった。
ついでに、自分がヒロインになった可能性についても考えたが、すぐに見切りをつけた。勉学も人並みならマナーも人並み。天才的発想力もない。ついでに心は神聖で美しいヒロインと比べるまでもないほど俗物である。無理だ、という結論に達するまでに時間はかからなかった。
せめて、と一縷の望みを託し、必死に勉強をして有力貴族の集まる貴族学院に入学したが、期待の通り行くかどうかに関しては正直微妙だと、モナは思う。
入学者リストを見て、少し期待は高まった。乙女ゲーの攻略対象として美味しそうな人物が結構居る。来年になれば後輩キャラ、今はわからないが先輩にも面白い人は居るかもしれない。
ただし、現状最も重要なヒロインをモナは見つけられていないのだ。
攻略対象キャラがどれだけ多くなろうとも、ヒロインが居なければ物語は始まらない。
身分は決して高くない、聖女のごとき清らかな性格の、美しい才女。
そんなよくばりセットな淑女が見つかる可能性なんてほぼない。しかも、基本的にヒロインになるような女性はノーマーク状態から突然脚光を浴びることになるのだ。
身分が低くなればなるほど情報は少ない。
目を皿のようにしてリストを見ていても、皆目見当がつかなかった。
「お隣、お邪魔してよろしいですか?」
「ええ、どうぞ」
隣から掛けられた声に、モナは顔を上げる。
少し体を隅に寄せようとすると、失礼しますね、と柔らかな声の少女が、隣に腰を下ろした。
淡い茶髪を2つに分けて、細かなみつあみを肩から垂らせている少女は、品行方正なのだろう、ぴんと背筋の伸びた座り姿で、慎ましやかな微笑みを湛えていた。
ふわりと、花のような甘やかな香りがモナの鼻を掠める。
「はじめまして。私、アリス・ケイト・ターナーと申します」