4:気配
アレは獣の声だろうか。勇生は何か聞こえるのに気付いてその声の方に目を向けた。勇生と少女が今いるのは丘の中腹の小さな茂みで、身を隠せるほどのものは無い。『声』は丘の頂上付近から聞こえてくるようだ。
勇生は目を凝らしてみたが暗闇の中何かが動く様子もなく、確かめる術もない。しかしその声がする度勇生の肌はぞわぞわと粟立ち、危険を知らせる。
『おい。』
小さく少女を呼んで肩を叩くと、少女はスッと目を開けた。
『何だろうね。』
少女も気付いていたようで、そのまま身を伏せ2人で丘の上を見上げる。向こうはまだ気付いていないのか。それならこのままじっとしているべきか。
考えを巡らす勇生をちらりと見て、少女は何故か冷ややかに微笑した。
『ー君も逃げる側だ。』
どういう意味だ。勇生はその言葉にムッとしながらも返した。
『ああ、逃げるなら下だな。』
丘の下には街らしきものがあったが、その手前には森が広がっていた。果たしてそちらが正解なのか。
『うん、真っ直ぐ下りよう。這っていけば見つかりにくい。』
勇生は走って丘を下りたかったが、少女はそう言って譲らない。確かに、立ち上がればすぐ獣に見つかるかもしれない。見つかったら終わりだ。速さでは負けるに違いない。勇生はため息を付いて木の実をくるんだ布を背中に背負うように巻き付け、少女と同じように身を伏せた。
そうは決めたものの、身体を伏せて進むのは容易なことではなかった。鋭い草や棘のある葉で手や顔が切れる。石ころでもあれば痛いし、ゴツゴツした岩の間では服が破れ、枯れ枝があればその折れる音で心臓が跳ねた。それにいちいち苛立ちながらも、少しでも目立たないよう、避けたり払いのけたりは出来なかった。少女はただ黙々と隣や後方を這っていた。
時折聞こえる獣の声に、走り出しそうになる衝動を抑えながらじりじり、じりじりと2人は丘を下った。進むにつれ辺りの闇は更に深まり、声はより一層不気味さを増す。
ー時には低く、時には甲高く、叫ぶような声。
聞こえているというよりも、直接頭に響くような声。
かろうじて救いは、腿を使って這うことで足の裏の痛みがあまりないということだけだった。気の遠くなるような時間の中で、勇生はぼんやりと『喰われて』全て終わってしまった方が楽かもしれないと考えていた。逃げることに何の意味がある。こんな格好で必死になって馬鹿みたいだ。もう、恐怖も薄れてきた‥。
そこで勇生は止まった。
少女が先に行きかけて、横目で勇生を見た。
勇生は、迷いながら言った。
『声が遠くなってる。』
黙って顔を見合わせると、何も言っていないのに2人は立ち上がり、せーので走り出した。森まであと五分ほどだった。まだ五分しか進めていなかった。今の内に逃げ切らないと。息が切れて、体はもうフラフラだったが必死で走った。勇生はさほど速い方では無いが、少女は勇生に遅れを取らず走っていた。その白い額から頬へ汗が伝い、止めどなく首筋へ流れ落ちる。着ていたワンピースは勇生の服と同じようにボロボロになり、更に露出した腕や脚は傷だらけだった。
少しずつ周囲が暗闇から薄明るくなってきた頃、かろうじて2人は転がるように森へと駆け込み、その場で崩れ落ちた。森の中は湿っていてまだ暗く、落ち葉が柔らかく積もっていた。
『はぁ』
勇生は倒れ込んだまま動かなかった。体は重く、腕も脚も、頭ですら動かせなかった。少し離れたところに少女もまた倒れていた。
『はぁ』
少女は、荒い呼吸をしながら勇生を見ていた。勇生はその眼差しをどこかで見たことがある気がしたが、思い出せなかった。ただ、あの『声』から離れられたことに安心して、勇生は目を閉じた。
『よかった。』
それは自分の声だったのか少女の声だったのか、はたまた誰か別のものの声だったのかはわからないが、体力を使い果たして、勇生は眠りに落ちた。
夜明けの森の中では複数の生き物達が活動を始め、その音にいつしか2人の小さな寝息が混ざり始めた。
2023.11---
細かいところを修正中です。