32:桜良(さくら)
勇生が産まれた時、桜良は既に15歳でつまり今の勇生よりも年上だった。写真でしか見たことのない中学生の桜良は、セーラー服を来て長い黒髪をポニーテールに結び、集合写真の端で微笑んでいた。笑顔の写真がほとんど無い中で、その写真だけが不思議とアルバムの中で目立っていた。
成績は優秀な方だったのだと思う。だからこそプライドも高かったのだ。第一志望に落ちた後、滑り止めの高校に通うことを受け入れられなかった。
もっとも、姉がどうして不登校になったのか実のところ勇生は知らない。単に人付き合いが下手で馴染めなかっただけかもしれない。
メルルは少しも面白く無い自分と姉の話を、時折相槌を打ちながら興味深そうに聞いていた。勇生はその様子に少し安心して、柄にもなくこれまでのことを話し続けた。
桜良が引きこもりだして数年が経った頃も、勇生はまだ何もわからない子どもだった。姉もまだ10代で、たまにフラッと部屋から出てきてはどこかへ出掛けることもあった。ある日、幼稚園からの帰りに、何気なく通り沿いのマンションを見上げると太陽を背に、屋上からこちらを見下ろす女性の影が見えた。
『ーお姉ちゃん?』
逆光で良く見えないその人物は黒く揺れてどこか不安定な姉のように見えた。手を引く母にそう問いかけると、母はつないでいた手を突然離して慌ててマンションに入っていった。そしてそのシルエットと睨み合うこと数分。
母が屋上に現れ、姉の腰を抱き抱え、崩れるように手すりから引き剥がした。
取り残された勇生は訳も分からず、ただ暑くて暑くて、早く家に帰りたいと願っていた。
それから更に数年すると勇生は小学生になったが相変わらず姉と話すことはなかった。話し掛けるなと言われたせいもあるが、目が合うだけで殺気立つ姉に話し掛けたいとは思わなかった。
ーメルルはまだ起きて勇生の話を聞いていた。
『引きこもり・・・って、そっか・・・えと、全然上手く言えないけど、大変だよね・・。』
『変なこと聞くけど、ごはんとかってお姉さんどうしてるの?』
メルルの、不器用ながらも出してくれる相槌が嬉しくて、素朴な質問に勇生はわかる範囲で答えた。
『誰もいない時、勝手に食べてると思う。』
『いつも食べるものがあるんだ・・・。』
メルルは不思議そうに呟いた。そうか、それは普通のことではないのか。勇生は少し驚かされながらそこに気が付いた。
『・・・母さんが、いつも何か置いてたな。』
『そっか。』
メルルは、いいなあ。と呟いた。
『部屋の中って楽しいのかな。』
メルルがあまりに自然に聞くので勇生は少し笑ってしまった。
『わかんないけど、いつもゲームしてるみたいだった。たまには喋ってる声も聞こえたし。』
今思えば、部屋から出ることが桜良には苦行だったのかもしれない。苦しくて苦しくて、周りに怒りをぶちまけていたのだ。ぶちまけられる方はたまったもんじゃないが。
その姉にも生きられる”世界”があったのだろうか。部屋の中ではどんな日々を過ごしていたのだろう。勇生は初めて、自分を憎んでいない姉のことを想像してみた。
それは難しい想像だったが、意外と悪くない気分になり勇生はそのまま、メルルの寝息と共にすんなりと眠りに落ちた。
更新、1日空きました!桜良の話。