172:僕と
思い切り振り返った勇生の目は、”田中”の姿を捉えるやいなや、見開かれた。
ーまずい。完全に逃げるタイミングを失った。
目線を逸らすことも出来ず田中が固まっていると、先に声を発したのは勇生の方だった。
『田中か…?』
『え・・・?いや、うん?』
勇生は今まで見たこともないような凍りついた表情を浮かべていた。
田中は、ただ驚いてその顔を見返した。どうやら勇生には自分が元の”田中”の姿に見えているようだが、それはそれで、不都合では無いことに気付いた。
”田中”と、”メルル”を結び付けるものは無い。
しかし、こんな真顔を向けられると戸惑う。
『ごめん。』
勇生の口から出てきた謝罪の言葉に、ただ驚くしか出来ない田中に向かって、勇生は苦しそうに告げた。
『お前が死ぬことなかった。俺だけ死ねば良かったのに。』
ー死ねば良かった?
『え・・・。』
田中は少し首を傾げ、悩みながら慎重に言葉を返す。
ー俺だけ死ねば、かぁ。
『あの時、2人とも死ななかったら、どうなってたかな・・・?多分、こうして話すことは一生、無かったよね。』
しかし勇生は固く口を閉じ俯いて、田中の言葉が聞こえている様子は無い。
ー君は、謝っているようで結局、僕の気持ちなんて気にしてないんだ。本当に、失礼だよな。
ーだけど僕は、もう決めたんだ。
田中は、ムッとした顔を浮かべたものの、黙ってその手を伸ばし、勇生の腕を取った。
突然触れられた勇生は何かに弾かれたようにビクッと身を怯ませ顔を上げた。
田中は勇生と真っ直ぐ目線を合わせたまま、口を開いた。
『僕は、”次に生まれた時は”すごい美少女になるから。』
『だから僕を、被害者扱いしないでよ。』
勇生は、驚いて田中を見た。
田中の発言の意味は良くわからなかったが、田中は、初めて見る表情で満足げに微笑んでいた。その口が、もう一度ゆっくりと動いて、勇生の耳元で囁く。
『君を、ギャフンと言わせるのが今から楽しみだ。』
耳元から、不思議な感覚がざわりと身体を伝って勇生は小さく身震いした。
しかしその次の瞬間、田中の気配はまるで消えていた。
『被害者扱いしないでよ、か。』
残された勇生はポツリと田中の言葉を繰り返したが、取り返しのつかないことをした、という事実が薄れるわけではない。
ごめん。ではなく、何を言えば良かったんだろうか?
答えはわからないが、最後の田中の表情を思い出すと、何故か少し気持ちが軽くなった。
ーメルルは、やり残したことが出来たんだろうか。
勇生は、目的も無くただぼんやりとそんなことを考えながら、辺りが暗くなるまで桜の樹を見上げていた。




