1:この世界
朝から降り続いている雨のせいか、毎日見上げる中学校の校舎は暗く沈んで見えた。いつもはグラウンドに響く部活動の掛け声も無く辺りは静まりかえっている。勇生は閉じた裏門の前で立ち止まり、スマートフォンを取り出し画面を開いた。
『来た』『臭え』『やるぞ』『おもしろ』『鬼』
『臭すぎ』『汚な』『転がしとけ』
『ゆうき、アレよろしく』
止めどなく言葉が綴られ、無機質な画面の中は仲間達の熱で盛り上がっていたが勇生の心はいつもと変わらず冷えていた。日頃から刺激に飢えている皆の発想はどんどんエスカレートしていく。今がもし異常なのだとしても、それを警告する心が自分には無い。
手に持ったロープはしっかりと丈夫で、そこら辺のカッターやハサミでは切れないものだった。長さも十分。人を縛り付けるのに不足しないよう、長めのものを持ってきた。
『大丈夫。』
それだけ打つと屋上へ向かった。
屋上には6人いた。勇生の参加するグループの5人と、標的の1人。田中はいつも通り何の抵抗もせず転がっていた。髪も服も濡れて、洗濯洗剤の泡にまみれている。その眼がじっとこちらを見ていた。目が合った勇生は黙ってロープを持った手を伸ばした。
『縛っといたらいんじゃね。』
昨日そう言ったのは誰だったか。ともかくその時、勇生は思い出したのだ。
『ロープ。うちにあるから持っていく。』
勇生の家には沢山ロープがあった。誰かが死にたくて買ったのかもしれない。ともかくロープには不自由しないのだ。ロープをほどいて、5人がかりで田中が動けないよう、ぐるぐる巻きに縛り上げた。雨は止まず、体が濡れて気持ちが悪いが誰も文句はいわない。
『わざわざ洗ってやってんのに何で制服じゃねぇんだよ。』
昨日の計画では、制服を着てくるよう指示するはずだった。そう言った1人に対し、
『いや、無理だろ。』
そう答えたのは縛られ蹴られている田中本人だった。その身に纏っているのは随分伸びた薄い白Tシャツによれた長ズボンで、全てがボロボロで、痩せこけた体に張り付いて泡と泥でぐちゃぐちゃだった。それを見下ろし、勇生は考えた。
『そうか。どうでもいい服を着てきたのか。』
ふとそう思いついて言葉にすると、田中は驚いて顔を上げた。
『違う。』
その声に込められた怒りは、田中が滅多に見せないものだった。口答えしたと言ってまた蹴られ、攻撃を避けてはまた蹴られ、それでも田中は生きていた。最終的に濯ぎ(すすぎ)のためと言い雨の中放置され、横たわってじっとしてそれでも、見張りのため屋上に残った勇生を恨めしい顔で眺めながら、生きていた。
自分よりもよっぽど生きている。勇生にはそう見えた。
雨は一向に止まず、撒き散らされた洗剤も徐々に洗い流してゆく。その間も田中の眼は閉じること無く周りを見たり、勇生の方を見たり忙しそうに動いている。屋上へ降りる階段に座った勇生は、遠くで雷鳴が鳴り始めたのに気づいて眉をひそめた。
『帰るわ。』
誰にともなくそう言って勇生が立ち上がろうとしたその瞬間、信じられないことに田中が全身のバネを使って地面に飛び起きた。勇生は思わず身構える。どこからそんな力が出たのか、田中は必死だった。いつもは天然パーマでうねった黒髪が、雨を吸いやたらと伸びて顔を隠し、余計に気持ちが悪い。
『この紐ほどいて。』
勇生を真っ直ぐに見るその眼は、くっきりとした二重で、田中の妹が汚可愛いと評判な理由がわかる。
『そもそも、何で今日来た。』
呼ばれてその通り来るのは馬鹿だと勇生は思っていた。やられるとわかってて来る方が悪い。
『うちに乗り込むとか言うから。』
田中は勇生が返事をしたことに安心した顔で、急いでそう答えた。稲光が空を走り、束の間、不気味に2人を照らす。その途端田中はその場にしゃがみ込んだ。
『雷怖いのか。』
雷に怯えるなんて滑稽だと思った。その質問に田中は不思議と嬉しそうに答えた。
『コレ、雷ポーズっていうんだ。近くで雷が落ちても最小限のダメージで済むんだ。』
勇生はあきれた顔で田中を見て、そのまま屋上を出ようとドアノブを摑みかけた手を止めた。
『‥‥コレが、何。』
その場で踵を付けてしゃがみ込み、同じポーズを取ると、田中はロープでぐるぐる巻きのまま、破顔して続けた。
『雷が落ちても、足の裏しかダメージを…』
その瞬間、辺りは真っ白な光に覆われ何も見えなくなった。
空気の収縮音、焼け付く痛みを感じる間もなく、
僕らの心臓は止まり、その場に倒れた。