産声
結構に長いこと、泣いていなかったのだ、と感じた桐軍鶏は、ここぞと言わんばかりに涙を流していた。その瞳から溢れるそれは、間もなく凍ってゆくのを感じる。
高町には既に冬の春が訪れており、山間部に根を張った桐軍鶏も、もうその内すぐに雪に埋まってしまう。考えてみれば、彼のこの一年間はひたすら雪女を待つだけの、惰性の日々だった。もしも人間のように本などを読めるのであったならば、体感的にはもっと早く時間は過ぎていただろう。しかし如何せん彼はその土地から移動することはおろか、クケケと声を上げることしか出来なかったのだった。
何百回、朝の鳴き声を上げただろうか。そうするしかなかった。朝とはその一日の自分が生まれる瞬間であると信じている彼は、そうすることでやっと自分を自分たらしめる要素をこの世に示していた。これを繰り返せば繰り返すほど、彼女への想いはより高みへ導かれてゆく。抑圧からの解放はその誓約が厳格な程、快感を増幅させるのだ。事実彼の羽根は去年よりも一回りは大きくなり、今では彼の羽根で雨宿りをする連中などもいるほどである。彼は我慢した。より良い彼女に、再び出会うために。
旅鼠はこれを哀れだと笑った。秋の夏の朝だった。
――それはそれは、大層ご立派なことで。ですがネェ、君よ、そんな生き方をして息苦しくはないかしらん? イヤ失言を許して頂きたい。僕から言わせて頂くと、「君は頑張っているネェ」なんて褒められようとしているようにしか見えないのだよ。僕の事は恨んでくれても、憎んでくれても結構だ。旅人なんてそんなものさよ。ウーン、イヤ、僕の話はまたの機会に致そう、今は君の話だ。君のような立派な鶏は、僕の故郷にはいないものでネ。アハハハハ……アハアハアハ……。
彼らのそんな会話を偶然に見聞きした狐の僧正は憤慨し、旅人を諭すのだ。
――あな嘆かわしや旅の人。徳を積む者のなんと美しきこと、清きこと。彼の羽根を見よ、おお、正に清世の産声ぞ。今昔に渡り広がり続くこの羽根こそ、真の空である。さあ、世は君を歓迎しよう、色即是空、空即是色、ウーン、ムニャムニャ……。
桐軍鶏は泣き続く。それが彼女への道標になり、メッセージにもなる。彼は明日に迫った雪女の来訪に備えて、ひたすら涙を流し続ける。こんなにも我慢をしたのだ、明日にはとびっきりの白無垢に身を包んだ彼女が私を愛してくれるだろう。一年間の涙を流す、枯れた涙腺を搾って涙を流し続ける。
翌朝彼の幹は完全に凍てついており、何年ぶりであろうか、ついぞ日課であった鳴き声を欠いた。その日初めて彼は産声を上げなかった。