少年は大航海へ、旅立たない
波の調子は大分良かった。
さざ波が海岸に優しく押し寄せては、再び大海へと帰っていく。
(今日しかない……)
少年は決意を新たにすると、家の方向に走った。
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少年が次に海に現れたとき、少年は何か大きなものをズルズルと必死に引きづっていた。
それは"船"だった。
縦に4m、幅が2m程。高さが5mくらいのマストに、ヤードが左右に2本ずつ伸びていた。
船の上には白い帆が何重にも畳まれて置いてある。
少年はその船を引きずりつつ、重たい一歩を積み重ねて、ジリジリと海へ向かっていく。
そして遂には、浜辺へと辿り着いた。
少年はそこからマストに帆を括り付け始めた。
帆を括り付け終えると、少年は船に積まれた装備を確認していく。
魚を取るための銛、釣り竿。3日分の食糧と飲料水。応急処置用の布や消毒に使う薬。夜間用の携帯ライトとそのバッテリー。
航路を描いた自作の地図に、コンパス。航路を記録するための羊皮紙と、ペン。そして、連絡用の無線機。遠くを覗く為の望遠鏡。
少年が大好きなハチミツの大瓶と、お父さんの部屋から持ち出したえっちな本。あと、家族の写真。
少年は一つ一つ丁寧に確認を終えると、仁王立ちになって海へ向かって腕を突き出した。
(待ってろ、海よ)
少年は、武者震いを感じた。目前の海はさざ波だが、震えたつ少年の心は荒波そのものだった。
(さあ、冒険の始まりだ!)
少年はさて船を海に浮かべようとしたところで、誰かが彼のことを呼んだ。
少年が後ろを振り返ると小さな人影が見えたので、望遠鏡を使ってその人影を覗いてみることにした。
お母さんだった
「おーい、タクヤー」
お母さんの口元の動きで、お母さんが自分を呼んでいることに気づいた。
少年は望遠鏡を顔から降ろすと、はぁとため息をつく。
(せっかく行く気満々だったのに……)
少年は仕方なく、船を少し海から遠ざけると、お母さんに大声で呼びかけた。
「どうしたのーーー!」
お母さんは何かを喋っているが、遠すぎて全然何を言っているか分からなかった。
(これは近づかないと駄目そうだな)
見るとお母さんは歩き疲れたのか一歩もそこから動かず、何かをタクヤに伝えようとしていた。
(仕方ないな)
少年の方が船を3km近く引っ張って歩いてきたので、正直へとへとだったが、仕方なく”とぼとぼ”とお母さんに向かって歩を進めた。
お母さんとの距離がおおよそ80mくらいとなったところで、ようやく何を言ってるのか分かるようになった。
「今日は晩御飯いるのー?」
少年は無性に腹が立った。
今にも旅立とうとする少年の大事な瞬間を邪魔したのが、そんなにも大したことのない用事だったとは。
「いらないって……というか今日から旅に出るからしばらくは戻れないって昨日の夜言っただろ?」
タクヤは苛ついた声で母に叫んだ。
「あれ?そうだったっけ?」
「そうだよ」
少年はお母さんの惚けた様子に呆れた。
「とにかく、今日も明日も明後日もご飯はいらないからさ。……他に用事がないならもう行くよ」
「何よ、せっかちな子ね」
お母さんは両腕を腰に当てて怒ったポーズを取る。
「じゃあね、もう行くから」
タクヤはお母さんに背を向けて、軽く右手を上げた。
別れの挨拶はそっけなく。未練を残さぬように。
タクヤが幼少の頃、夢中になって読んでいた有名な海賊の航海記にそう書いてあった。
少年は大海へ向けて、歩き出した。
燦々と輝く朝日は、少年の旅立ちを祝福しているかのように見えた……
「あっちょっと待って」
お母さんから呼び止められ、少年は立ち止まった。
「今日のご飯はカレーよ」
「……!?」
少年は思わず膝を砂浜に着いてしまうところだった。
(カレー……だと……?)
少年はカレーをこよなく愛しており、特にお母さんの作るカレーには目が無かった。
(しかし、カレーは先週食べたはず……我が家のルールから言って、月に2回以上カレーが出るなんてあり得ない)
(これはつまり……お母さんの嘘……!)
そうと分かれば、怖いものはない
少年は崩してしまったペースを取り戻そうと、すーはーと深呼吸をした。
そして、お母さんの方へと振り返り、ニヤリと不敵に笑って見せた。
「お母さん……寂しいんだね?」
「へ……?」
「いやー、分かるよ。お母さんの気持ちはね」
少年はコクコクと首を縦に振った。
「一人息子が今日から旅に出ようって言うんだ……うんうん。そりゃあ寂しくもなるだろうね……」
きょとんとした表情を浮かべるお母さんを尻目に、少年は独り言ちに浸っている。
「家はお父さんもなかなか帰って来ないからね……お母さんにはこれから寂しい思いをさせると思う。でも、大事な一人息子が夢を追って今たった一人で、旅立とうとしているんだ。母親なら、黙って送り出してくれよ……必ず帰ってくる……約束するよ……!」
少年はそう言うと、お母さんに向けて親指を立てた右手を突き出した。
少年にとっては、”イカす”別れの挨拶のつもりらしい。
だが、お母さんは一切動じた様子はなく、ニヤニヤと余裕の表情を浮かべて少年を見つめていた。
「いいのかなぁ?まあ、あんたが今日の晩御飯いらないってならまあそれはそれでいいんだけどね」
母の余裕たっぷりな表情に、少年は不安を覚えた。
(まさか本当に今日の晩御飯はカレーだというのか...?)
少年は、自分がカレーを美味しそうに頬張る姿を想像して、涎が口いっぱいに広がるのを感じた。
少年はその想像を振り切る様に、頭を左右に振った。
(だめだ、だめだ。考えるな。気持ちを強く持て)
少年は深く深呼吸をすると、後ろを振り返り、大海を見た。
――海鳥たちが優雅に、自由に空を飛び回っていた。
――休むことなく打ち寄せるさざ波は穏やかに、また海風は涼やかに聞き心地の良いメロディを刻む。
――空は晴れ渡り、遠くにある島々までも、はっきりとした輪郭を見ることが出来た。
(今日しかない)
少年は決意した。
(カレーは……諦めよう)
航海に出れば、幾度となくこのような辛い選択を迫られることになるだろうと少年は考えた。
(今日のこれが……僕のこれから始まる冒険の最初の苦難なんだ……!)
少年は歯をグッと噛み締め、再びお母さんの方へ向き直る。
そして、真っすぐにお母さんの目を見つめた。
「お母さん……僕は今日……例え晩御飯がお母さんの作るカレーだったとしても……晩御飯はいらないよ」
そう――ハッキリと告げた。
「そう、残念ね」
お母さんが寂しそうに笑った様に見えた。
「ごめんね、お母さん」
「いいのよ――でも、本当に残念ね。ミナミちゃんがせっかくカレーを持ってきてくれたのに」
「ミナ……ミちゃん?」
ミナミちゃんは、少年の家の近所に住む、少年が”世界一可愛い”と思っている少女のことだった。
「そうよ。ミナミちゃんが初めて自分でカレーを作ったら、作りすぎちゃったって言ってお裾分けしてくれたのよ」
お母さんは続ける。
「でも、残念ね。タクヤが今日から旅立っちゃうなら、仕方ないからお母さんだけで食べちゃいましょう」
「食べます」
「ん……何て言ったの?」
「僕は今日、晩御飯を食べます!!!」
少年は高らかに、そう宣言した。
帰り路。お母さんは少年の船の上に乗りながら"ファイトー!もう一息よー!"と少年を応援した。
少年は汗だくになりながら、”行き”よりも大分重たくなった船を引きずった。
(今日も旅立てなかったか……)
少年が旅立ちの機会を逃したのは、今日が初めてのことではなかった。
(しかし、未来のお嫁さんの作ったカレーとあっては、味を確かめずにはいられない)
こうして少年は、ミナミちゃんの作ったカレーへ向けて、旅立ったのであった。
少年は大航海へ、旅立たない -終-