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60.口付け

『軽い貧血だな、今日は休んでおいた方がいい』

 さっきの神経質そうな人は、お医者さんだったらしい。別室の診察室に連れていかれて、血の付いた手をしっかり洗い流してから、念の為簡単に診てもらった。

 眼鏡をかけている人はこっちではあんまり見たことがないのだが、目の前の彼は銀縁の眼鏡をかけている。少し長めの真っ黒な髪を真ん中で分けた、多分30代くらいの人。右耳に小さなピアスのようなものをつけていて、それが少し意外な感じがする。

 普通のお医者さんだと思っていたのだが、彼は血塗れの上衣の下に騎士服を着ていた。どうやら聖騎士だったらしい。ただ、服の色は黒でも白でもない紺色で、ちょっと特殊な感じがする。腕には赤い腕章をつけていた。

 彼は私の腕にびっしり走る傷痕を見て少し眉を顰めると、かなり強力な治癒術式をかけた。ヴェルよりもずっと強い術式の気配に、少し驚く。

『…話には聞いていたが、本当に効きづらいというか、殆ど効かんな。ここまでのものは初めて見る』

『…効きづらい人って、居るんですか』

『ああ、多少個人差はあるな。…この傷が全身にあるのか?よく生きてるな』

 お医者さんはそう言うと、ちらりと背後のヴェルに視線を向ける。

『部屋に送って、寝かせてやれ。ここでは気が休まらんだろう』

 ヴェルが頷いて、私の身体をゆっくり抱き上げる。

『今日は1日横になっていろ。暫くは激しく動くなよ。食事もきちんと摂れ。ああ、ただし食後の茶は控えろ』

 その言葉にこくりと頷くと、お医者さんは軽く追い払うように手を振った。

『俺も色々事後処理がある、比較的健康体はさっさと出て行け』

『…はあ』

 ヴェルは私を抱え直すと、アレクシスさんと部屋から出る。扉が閉まる前に、お医者さんがこちらに向かって『ああ、それと――』と声を掛けた。

『血液の提供、助かった。大きな一歩になったよ。礼を言う』

 眼鏡を軽く上げる手で、表情はよく見えない。ぺこりと頭を下げて笑って見せたが、彼は何も言わなかった。

 ヴェルはそのまま部屋から出て、ゆっくりと扉を閉めた。



 部屋に戻ると、ヴェルはそのまま私をベッドに下ろして、布団を掛けた。

『午後の感知訓練は中止だ。戦闘訓練も2、3日はやめておく』

『…うん』

『身体の調子は?』

『ちょっとふらつくだけ、大丈夫。そんなに血は抜いてないから』

『…そうか』

 ヴェルは小さく呟いて、ベッドの横に膝をついた。その後ろからアレクシスさんがヴェルの背中を見下ろす。

『何か、飲み物でも運ばせましょうか?』

『いや、私が用意しよう。少しの間見ていてやってくれ』

『そうですか、わかりました』

 ヴェルは立ち上がって、キッチンのある扉の方へと向かう。アレクシスさんはベッドの横に置かれている椅子に腰掛けて、こちらに微笑みを向けた。

『…ああやって、死んでいく聖騎士を沢山見てきました。貴方が現れてくれて、本当によかった。…しかし、血液とは…難儀なものですね』

 アレクシスさんは静かな視線を私の手に落とす。腕には、元々あった傷痕と、血を採取する際についた小さな針の跡がいくつか残っている。その周りは僅かに鬱血していた。

『治してあげられたらと思うのですが、まず私には治癒ができませんし…先生が治せないなら、この国で治せる人間はいないでしょう』

『あの人は、凄い人、なんですか?』

『ええ、凄い人ですよ。彼は聖騎士団第10部隊の隊長です。第10部隊は言うなれば衛生兵、治療専門の部隊。治癒術式では彼の右に出るものはいませんよ』

『へえ…』

『治癒術式が使える人間は少ないんです。理論の構築がかなり専門的なので、医学的知識をきちんと身につけないといけなくて。だからといって、医者全てが治癒術式を使えるとは限りません。…ヴェルは変わり者ですよ』

 アレクシスさんはそう言うと、ふふっと笑う。…そういえば、ヴェルの他に治癒術式が使える人には今まで会ったことがない。

 扉の開く音とともに、ヴェルが手にお盆を持って現れた。ガラスのコップと、水差しのようなもの。中には薄く黄色い色がついた透明な液体が入っている。

 ちらりとそれを見て、アレクシスさんが立ち上がる。入れ替わりでヴェルが座って、サイドテーブルにお盆を置いた。

『…1人で、大丈夫ですか?』

『問題ない』

『それでは、自分は外の見張りに戻ります。何かあれば呼んでくださいね』

 アレクシスさんはこちらに笑いかけて、部屋から出て行った。

 …あの、怪我をしていた人、身体は大丈夫だろうか。酷い傷だったし、身体に受けていた魔獣の血液も相当な量だった。ニルさんが見ていたから大丈夫だとは思うが、ちゃんと全て、魔獣の血を消せているといいのだが。ぼんやりする頭でぐるぐる考え込んでいると、不安になってくる。

『…どうした』

 黙りこくっていたのを不審に思ったのか、ヴェルが小さく問いかけた。

『…大丈夫かなって』

『大丈夫だろう、何かあれば誰かが来る。それに私も助かっただろう』

『…うん』

 ヴェルの手が、優しく私の髪を撫でた。

『いいから、休め。眠れそうなら眠っておけ』

『…ん』

 頭を撫でる手が心地いい。甘やかされているみたいで、子供の頃に戻ったような気分にさせられる。

『ヴェルは、優しいね…』

『は?』

 ぴたりと手が止まる。視線を上げると、ヴェルはきょとんとした顔で固まっていた。

『……?』

『……』

『…ヴェル?』

『…優しい…?』

 困惑した表情で聞き返されて、こちらも少し困る。

『優しいよ…?』

『…どこがだ』

『…え』

 どこが、と言われると…言うのはちょっと恥ずかしいのだが。

『…いつも、助けてくれるし、怪我治してくれるし、言葉も教えてくれたし、美味しいお茶、淹れてくれるし、歩く時、私に合わせてくれるし、眠れない時一緒に居てくれるし、手、繋いでてくれ…む』

『……もういい』

 ヴェルは複雑そうな顔になって、私の口を手で塞ぐ。まだあるんだけど、と不満な視線を向けると、ヴェルは眉間の皺を一気に3本くらい増やした。

『黙ってろ、いいな』

『……』

 こく、と頷くと、ヴェルの手が離れた。そんなに嫌か、と思ってじいっと彼の顔を見上げると、すっと目が逸らされる。…凄く分かりにくいのだが、もしかして、照れている、のだろうか。

『…っふふ』

 可愛いなあと思ってしまって、ちょっと笑ってしまう。彼の顔面には可愛い要素なんて全く無いのだが。

『笑うな』

 また口を塞がれた。む、むう、鼻ごと塞ぐので呼吸が出来ない。ばしばし腕を叩くと、鼻で笑われてから手が外れた。時々思うのだが、ヴェルはけっこう意地悪では無いだろうか!

 掛け布団を鼻のあたりまで引き上げて、取り敢えず口を防御する。ちらりと彼の顔を見上げると、腕を組んで床に視線を落としていた。表情はいつもの静かなものに戻っている。

『…他の人、にも、そう…?』

 思わず小さく問いかけてしまっていた。ヴェルは一度瞬きして、こちらに視線だけ向けた。

『そう、とは』

『…優しい?』

『…お前にも、優しくしているつもりは無いんだが』

『え』

『だが、まあ……他の者には…しないな』

『……ほんとう?』

『嘘をついてどうする』

 なんだかそれは、自分が特別な存在になったみたいな気がして、どうにも照れ臭い。

『…カトリーナに、してたのは…?』

『カトリーナ…?』

 ヴェルは眉間に皺を寄せて視線を彷徨わせた。わ、忘れているのか。

『…船の上の…』

『…ああ、あの女か』

 ヴェルはぱちぱち瞬きして、こちらに視線を戻した。

『ヴェル、だって、にこにこしてたし、手に…』

 口付けを意味するこちらの言葉は知らない。言葉に詰まって押し黙ると、ヴェルは顎に手を当てて少し険しい顔になった。

『…見ていたのか。あの時はやむを得なかったのでな』

『…やむを得ない』

『船を下ろされるわけにはいかなかった。一応は雇い主だ、やれと言われればあまり断れん』

『…ふうん』

『やりたくてやった訳じゃない、かなり苛ついていた。正直もう二度とあのような真似はしたくない』

『へえ…』

『…おい、なんだ』

『別に』

 ふいっと顔を背ける。なんか、ちょっと嫉妬してしまった。好意はないと以前言ってはいたけど、それでもやっぱりどうしても、忘れられなくて。

『…あれは、船を下りた後も自分の下に仕えろと言われて、断るためにやった』

 ヴェルの手が伸びて、私の左手が掬い上げられる。

『あの時は不快感が込み上げて、苛立ちを抑えるのに必死だったが――』

 左手がヴェルの口元まで上げられて、ふわりと唇が手の甲を掠めた。思いの外柔らかい唇と、熱い吐息に、身体がびしりと硬直する。

『お前なら、別にいいな』

『…っ』

 微かに笑う気配がする。頭に血が上って、顔がどんどん熱くなる。

『…は、照れているのか』

 め、珍しくヴェルが鈍くない!!自分でも真っ赤なのがわかる。恥ずかしくなって布団を頭まで引き上げた。

『て、照れてない!』

 あまりに見え透いた嘘だと自覚はある。左手をぐいぐい引っ張るが、ヴェルの手は外れなかった。

『そうか?』

 くすりと笑う気配とともに、もう一度唇が落とされた。今度はさっきよりも強く押し当てられて、微かに濡れたものが触れる感触。小さく音を立てて唇が離れて、意識が飛びそうになる。

『あ、あう、う』

 意味を成さない声が口から勝手に出てくる。な、なな、なんだこれ、どうしてこんなことになっているのだ!

『は、は、離して』

『嫌か』

『い、嫌じゃ、ないけどっ、たぶん!』

『っふ』

 わ、笑った!笑いやがった!布団を引き下げて目だけ出して睨みつけると、手を口元に寄せたままで微かに悪戯っぽく笑う顔が見えた。

『…意地悪だ…!』

『優しいんだろう?』

『優しくない!』

『そうか、残念だ』

 全然残念じゃ無さそうに笑って、ヴェルは私の手を離した。慌てて布団の中に手を納めると、彼はふっと笑う。

『お前は、面白いな』

『面白い…?』

『…悪い意味ではない』

 また優しく髪を撫でられて、何が何だかわからない。ヴェルは時々意地悪で、優しくて、厳しくて、穏やかで、…色んな一面があって。きっとまだ、私に見せていない一面だってあるんだろう。

『こんな風に笑うことも、昔はあまり無かった』

『…アレクシスさんも、言ってた。無愛想だったって』

『…否定はしないが』

『今もそうだけど』

『…それも、否定できないな』

 ヴェルは苦笑して、頭を撫でていた手を膝に戻した。

『あまり愛想を振りまくのは好きじゃない』

『…できてたよ』

 船ではちゃんとにこにこできていた。まあ若干いつもより嘘っぽい感じではあったけど。

『できないわけじゃない、必要ならやるが…疲れる』

 彼は組んだ脚に肘をついて、小さく息を吐き出す。

『こればかりは性分だな。誰に似たのか』

『お父さんや、お母さん…?』

『いや、…産まれてすぐ捨てられていたからな、分からん』

 さらりと口にされた言葉に、一瞬理解が追いつかなくて、思考が止まる。ヴェルはこちらを見下ろして、ふっと笑った。

『悪い、暗い話になった。別に気にしていない。…果実水を用意したが、飲むか』

『…うん』

 渡されたコップに口を付けて一口飲む。ほんのり柑橘系の香りが鼻に抜けた。ヴェルの顔をちらりと見上げるが、彼はいつもの静かな表情で、組んだ足の先に鋭い視線を落としたまま、それ以上は話さなかった。

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