03.階層
獣の背に揺られながら周囲の景色を眺める。
殆どうつぶせ状態で獣にしがみついているのであまり辺りを見回すことはできないが、ここがどうやら大きな森の中だということは理解した。
植物の知識なんて高校までで習った知識以上のものはないが、針葉樹林ではなく広葉樹林だということはわかる。ジャングルっぽくもないし、普通に生まれ育った日本の山中を思わせた。ただ、あまり見たことのない花や、妙な形状のキノコがよく視界に入ったが。
獣の歩みは比較的安定していて、上下に激しく揺られることはなかった。形はどことなくオオカミとトラの中間っぽい感じがする。未だかつて見たことのない生き物だった。
さっきから長い時間――多分1時間くらい、歩き通し(獣が)だが、いったいどこに向かっているんだろう。
目を閉じて、揺られているうちにうつらうつらしてきた。まだ身体はどこもかしこも痛いし、少し動かしただけで骨が軋むような感覚がするが、多少動くようになってきた気がする。ゴワゴワと体にまとわりつく硬くなったジャージを気にしながら、目を閉じた。
――おい。
身体をゆすられる感覚で目が覚める。痛い、まだ痛いんだからもう少し優しくしてくれ。
目を開けると、夕暮れ時で赤く染まった大地が視界に入った。眩しさに目を細める。
――水場に連れてきてやった。飲むといいだろう。
「…あり、…」
ありがと、と言いたかったがどうにもままならない。かさかさの声を喉から絞り出して、軽く頭を下げる。
眼前には川が流れていた。離れた場所に小さな滝が見える。水流は急だろうかと思ったが、とてもゆるやかに流れていた。水は澄んでいて、綺麗。
丸い小石がごろごろ転がる道を這って進み、水に触れる。思ったより冷たくてびっくりした。そのまま手ですくって口につける。
…つめたくておいしい。
ごくごくと思わず喉を鳴らして飲み込む。身体の内側深くに、冷たい水が染み込むように流れていくような気がした。
ふはあ、と息が漏れた。やっとひと心地ついた気がする。
冷たいのは嫌だけど、どうしても身体を洗いたかった。欲を言えばシャワー浴びたいしシャンプーで髪洗いたいし、あったかい湯船につかりたい。
何とかなりませんか、という意思を込めてチラッと獣のほうを振り返ったが、知らんぷりされた。…どうにもならないらしい。
着替えも無いので、この時間に水浴びするのは避けたほうがいいだろう。夜を冷えた身体で過ごさないといけなくなるし、服も乾かないだろうし。
獣の元に這って戻り、腰を落ち着ける。
獣の身体は暖かい。獣のほうも特に避ける様子はなかったので、そのままありがたく暖を取らせてもらうことにした。
「あ、あー」
喉の調子を確かめる。だいぶ掠れてはいるが、何とか声は出た。
「あの、何がどうなったか教えてくれませんか」
なんとなく敬語である。その言葉に、獣はフンと鼻を鳴らした。ちょっとむかつく。
――別に声を出さずともよかろう、まだ本調子ではないのだろう?
「いや、まあそうだけど、…声に出さないと会話してる気がしないから」
――まあ、いいだろう。
獣はちらりとこちらを見やり、また目を逸らした。
――まず、ここから先の話は他言無用だ。本来、この先知る筈のないことであり、知ってはならないことなのだから。まあ…この地では他言もできぬだろうが…。
知る筈のないことで、知ってはならないこと。
真っ白な毛並みに、夕暮れ時の橙色の光が反射して、きらりと光る。獣は戸惑う私に向き直り、言葉を続けた。
――世界は、横の軸と縦の軸を持っている。横の軸は土地の広がり、大陸の広がりだ。お前もこれはわかるだろう。
頷いて続きを促す。頭の中に地球儀を思い浮かべた。横の広がりというのは地続きのものだろうか。
――これに対し、縦の軸というのは、階層のようなものだ。
「階層…」
もう少しわかりやすくならないだろうか。
――………お前に分かりやすく言うなら、そうだな、バウムクーヘンのようなものだ。
バウムクーヘン。いかつい獣の口からスイーツの名称がこぼれたことが地味に面白くて、思わずぶふ、と吹き出してしまった。
目つきが若干悪くなった獣から目を逸らし、頭の中で形を想像する。
――…階層は全部で15階層存在する。重なり合って存在しているが、この階層は基本的にはお互いに干渉しないものだ。世界としての軸が異なる為、視認することも不可能。第1階層から第7階層までは聖なるものの力が強い世界、第9階層から第15階層までは魔のものの力が強い世界だ。丁度中間にあたる第8階層はどちらの力も及ばぬ世界となる。
バウムクーヘンで例えるなら、15層重なった状態で、真ん中の層が無味、真ん中より外側は抹茶味で内側がチョコレート味みたいな感じだろうか。
――本来あってはならないことだが、お前は別の階層からこの階層に落ちてきたということだ。
「私がいたのはどこで、ここはどこなの」
――お前がいたのは丁度中間の第8階層だ。ここは第3階層になる。つまりこの地は、第1階層のモノの力が及ぶ世界だ。
「…上に落ちたってこと?」
いまいちピンとこない。
――便宜上、わかりやすくするために上から数えただけだ。どちらが上、どちらが下ということはない。どちらも上でありどちらも下である。
「…じゃああなたは、どこから来たの?」
――私は第1階層から来た。この世界の概念の知識は、本来第1階層と第15階層、両端のものしか持ってはならないものだ。禁忌とされる知識である。
「それって…」
私が知ったらまずいのではないのでは…?
――今回はやむを得ん。この階層は今、少々乱れている。階層の乱れは他の階層に影響を与え、天変地異を巻き起こすのだ。私はこの地の歪みを正しに来た。お前は、私がこの地に降りた際の歪みと、この地が本来抱えていた歪みの余波で、巻き込まれて落ちた可能性が高い。…少々目も当てられぬ様になっていたので、私が血を与えて修復した。
「んん?ちょっと待って、意味が分からないんだけど」
というか理解したくないんだが。つまりは不運にも巻き込まれてしまったということ…?少々目も当てられぬ云々あたりは、なんかすごい早口で言われたのも気にかかるが、もっと気にかかるのは、
「それって、私、家に帰れるの?」
――不明だ。
不明、不明だと。怒りというよりショックのほうが大きい。
呆然としていると、どことなく申し訳なさそうな顔をした獣と目が合った。
「…ちょっと、整理する時間、ちょうだい」
かまわない、という獣にもたれて、身体を丸める。家にも帰れない、身体もまともに動かない。目の前が真っ暗になったようで、視界がぼんやりと歪んでいく。目の前の景色は、どこにでもあるようで、しかしどこにでもない植物に満ち溢れていた。私の生まれ育った場所には存在していなかった、不思議な形の大きな獣は、こちらを見下ろして小さく息を吐く。
こんなものが現実なわけがない。ぎゅっと目を閉じて身体を抱えているうちに、また意識を失ってしまっていた。