01.痛み
柔らかく、温かいものに包まれている。それはまるで上質な毛皮のようだった。毛足は長く、1本1本がきめ細かい。
(あったかい…こんな毛皮、うちに置いてたっけ…)
とても幸せな気分だった。
毛皮はわずかに上下しているように感じる。まるで呼吸しているように。
昔飼っていた犬を思い出す。夢を見ているのだと思った。だってもう、あの子はいないから。
(あったかい)
夢に追いすがるように、その毛並みに頬を寄せる。
「っ!」
とたん、身体に激痛が走る。
いたい、いたい、いたい!
痛みというより衝撃だった。頭が真っ白になる。
呼吸がうまくできない。ひゅうひゅうと喉を空気が抜ける音がする。
大丈夫かと、問われたような気がした。
それに応えられるような余裕はなかった。
ぼろぼろ、本能的に涙がこぼれる。ひどい吐き気がした。身体を硬直させて、浅い呼吸を繰り返す。
わけがわからず、そのままじっとしていると、僅かだが痛みが治まってきた。
また、大丈夫かと問われた。
誰に問われたのか分からず目を開ける。その問いかけは、空気を震わせることなく自分の中に落ちて来たようだった。
最初にうるんだ視界に飛び込んできたのは、大きな月だった。
何故こんなところにいるのだろうか。明らかに外である。今日はやっと休みだと思って、いろいろやりたかったこと消化しようと思って、ゆっくりしようと思ってたけど目が覚めちゃって、そのあと運動しようと思って外に出て、…そこから先の記憶がない。朝だったはずなのに夜になっている。
首を動かさずに目を動かすと、大きな木の葉、枝が見え、そのあと僅かに真っ白な毛皮が見えた。自分がもたれているのが大きな白い毛皮の塊で、それに大きな尾がついているのが見えた。つまりは大きな獣のようだった。
ああ、食われる。自分はこの巨大な獣の餌にされるところだったに違いない。首が動かないので正確な大きさなど分からないが、見える範囲だけでも、それがかなり大きいということが分かる。
ああ、最悪なタイミングで目が覚めた。肉体の痛みは尋常ではない。きっと食われかけだったんだ。本当最悪だ。いっそずっと気を失っていたら安らかに死ねたのに。死ぬのは嫌だけど、身体は動かせないし、もうこのまま食われるしか無いんだったら、せめて痛みなく死にたい。目を閉じて力を抜く。自分の意志で気を失えたら良かったのに…激痛で眠気も襲ってこない。
大丈夫かと、また問われた気がした。意識を取り戻してから、おそらく3度目だった。
閉じていた目をまた開ける。目の端から、溜まっていた涙がこぼれた。
周囲は暗いが、月明かりで微かに明るい。目を動かして見える範囲に人影は無かった。というか、こんな状況を見て「大丈夫か」は無いだろう。大丈夫なわけないじゃないか。このままだと食べられて終わりである、そんな冷静に聞いてくる余裕があるなら助けてほしい。
食わぬ。そう言われた気がした。やはり、それは「音」であるようには感じられなかった。鼓膜を震わすことなく、そのまま頭の中に落ちてくるような。不思議な感覚だった。
…食わぬといわれても、いや、それはこの獣の気分次第なんじゃないか。食べたくなったらペロッといかれるんじゃないだろうか。
――だから、食わぬといっているだろうが。
ええ~、絶対嘘だもん。だって体痛いし、絶対かじられてるもん。怖くて見れないけど。
――くどいぞ、食わぬ!
少しばかり強い口調のように感じられた。微かに頭の芯にビリっと衝撃が走る。
そういえば、さっきからなんか、自分の思考に割り込まれているように感じる。だって声出していないのに、会話してるみたいだ。
はは、テレパシーかな。死にかけて超能力にでも目覚めたかな。
――今度は現実逃避か、小娘。
うるさいな、なんだこいつ。さっきから頭の中に割り込みやがって、激おこだぞ。
頭は混乱し続けている。意味が分からないことが多すぎる。
さっきまで、どんなに気絶したいと望んでもできなかったのに、混乱の極致で脳がおかしくなってきたせいなのか、徐々に意識が混濁してきた。もしかしたら、「食べない」と再三言われたので、どこか安心していたのかもしれない。
――おい、小娘。
呼び止められたような気がしたが、なんだかどうでもよくなってきてしまった。
きっとこれは夢で、まだ金曜日の深夜に違いない。目が覚めて外にジョギングに行ったのも、身体が凄く痛いのも、よくわからないテレパシー体験も、きっと全部夢なんだ。ああ、それならいいや。
痛みは全く収まる気配はないが、少しずつ感覚は鈍くなっていく。また呼び止める声が聞こえたような気がしたが、ゆっくりと意識は闇に落ちていった。