覚えのない再会
社会福祉体験は、毎年二年生が二学期の期末テストを終えた頃に行う課外授業だ。要するに強制参加のボランティアということになる。市内に点在する老人介護施設が主な活動場所だ。
といっても、そこで介護の手伝いをするのかといわれればそうでもない。掃除や洗濯に老人の話し相手といったところだ。
わたしが振り分けられた施設は、学校から電車で十五分と徒歩十分の場所にあった。徒歩十分の内訳は九分くらいが坂道だった。電車を降りたジャージの集団が、施設に続く坂道をのろのろと登っていく。
やがて見えてきた青い看板には『星の丘』と書かれていた。
玄関前で出迎えてくれたのは介護士の小川さんだ。恰幅のいい頼りがいのありそうなおばさんだ。彼女に連れられて施設内を案内される。ぞろぞろと移動する見慣れない集団に、入居者の老人たちは好奇の目を向ける。
控え室代わりの狭い休憩室に押し込められると、引率の教員が声を上げた。
「静かに!」
小学生とは言わずとも、なかなかに騒々しい生徒たちを一喝する。
「みなさんにはスタッフの指導の下、実際に仕事を体験してもらいます」
よく通る小川さんの声が狭い室内にびりびりと響いた。
「四名ほどに分かれてそれぞれ控えているスタッフについてください」
壁際に立っていた若い職員たちを指差すと、隣にいた由香が「イケメン見っけ」と小さく叫んだ。
「速やかに行動しましょう」
小川さんがパンッと手をたたくと、それを合図に生徒たちが動き出した。
「ほら由香、かっこいいスタッフ取られちゃうよ」
いまいちやる気のなさそうな由香の腕を引っ張って言うと、俄然目を輝かす。
「それは大変だ」
確かに大変だ。掃除なんて楽なものだと舐めてかかっていたら痛い目を見た。
「腕が限界」
モップを持つ手がギシギシと痛む。
わたしたちに与えられた仕事は入居者の居室と廊下のモップがけ。入居者がぬれた床で転ばないようにと、水拭きと乾拭きをこまめに繰り返す。この二度がけがなんとも辛い。
施設側は毎年行われるこの課外授業を当てにいているようで、この日のために年末の大掃除は全て据え置きしていたらしい。
由香は先ほどから律儀にモップを動かしながら「間違った」「騙された」とぶつぶつ呟いている。彼女のおめがねにかなった男性スタッフはバリバリの肉体労働担当だったようだ。彼の元に集まってきたのはみんな女子だというのに……。
ため息をつきながら、悲鳴を上げる腕を無理やりに動かす。
これは確実に筋肉痛決定だ。
泣きそうになったところでスタッフが声を上げた。
「そろそろ昼だからいったん終了。掃除用具は一度片つけるから出しっぱなしにするなよ」
「終わったあ!」
「また午後もよろしくな」
歓声を上げる由香に男性スタッフが爽やかな笑顔を向ける。
「あいつは鬼だ」
恨めしそうに呟く由香を引っ張りながら廊下を進んだ。控え室に戻ろうと食堂の脇を横切る。
そのとき、
「里子!」
突然悲鳴に近い声が中から響いてきた。何事かと由香と顔を見合わせる。
「里子!」
再び聞こえてくる声。その声に続いて車椅子のおばあさんが食堂から出てきた。
「里子、どこに行っていたの? ずっと探していたのよ?」
おばあさんはわたしのところにやってきて迷わず言った。
「え?」
由香があんぐりと口を開けている。
おばあさんは嬉しそうに私の手を取って撫でている。
わたしにはなにが起こっているのか状況が把握できなかった。
森下カヨ。それがおばあさんの名前だ。
「カヨさん、この子は里子さんじゃないのよ」
騒ぎを聞きつけてきた小川さんがカヨさんの隣に屈みこむ。
「里子だよ。間違いないよ、里子だよ」
「違いますよ、カヨさん。この子はボランティアで来た高校生ですよ。里子さんじゃないのよ。ほら、離してあげて」
「違うよ、里子だよ。ねえ里子」
頑なに言うことを聞かないカヨさんは相変わらずわたしの手を嬉しそうに撫でている。その様子を見て根気よく話しかけていた小川さんがあきらめたようにため息をついた。わたしはわたしで、優しい声で語りかけてくるカヨさんに「嫌だ」なんて言えようもなくだんだんと居たたまれなくなってくる。
食堂の前には突然の再会劇を見物しようと人だかりが出来始めていた。
弱り果てたわたしは小川さんに視線で助けを求めるしかなかった。
「わかりました」
小川さんはそういって立ち上がると、わたしの肩を軽くたたいた。
「カヨさん、里子さんと一緒にごはんにしましょう?」
そう言って車椅子を押すと、決して手を離そうとしないカヨさんに半ば引きずられるようにして食堂に入った。
好奇の目を向けられながら、肩身狭く持参したおにぎりにかじりつく。萎縮するわたしとは対照的に、カヨさんは嬉々として語りかけてくる。わたしの態度がどんなに挙動不審でも、彼女はそれをまったく気にすることなく笑顔を向けてきた。
食事が終わろうとした頃、小川さんがすまなそうな顔でやってきた。
「ごめんね、尾上さん。午後もカヨさんの話し相手になってくれないかな? もしも何かあったらスタッフに声をかけてくれればいいから」
それだけ言うと忙しそうに食堂から出て行った。
近くで食事の介助をしていた職員が固まるわたしに笑いかける。
「大丈夫だから。そんなに緊張しないで」
まったく大丈夫だと思わないのはわたしだけなのだろうか?
どちらかというと話すより聞くほうが得意だと思っていたが、とりとめのない昔話に付き合うのは少々苦労した。あっちにとびこっちにとび、同じところを何度も行ったりきたり。だんだん自分がどこにいるのかわからなくなってくる。
「その時よ。里子ったら川に落ちてびしょ濡れ。もう十一月だって言うのにね。寒いって大泣きして。家に帰ったら今度は私がお母さんに怒られて、二人してわんわん」
近くの小川で魚を捕ろうとしたときの話だ。この話はこれで三度目。
「それは寒かったでしょうね」
「そうよ。その日はとっても寒い日だったの。だって雪がちらほら降っていたんですもの」
不思議なことに、話が繰り返されるうちに少しずつ内容が変わってきている。さっき聞いた話では雪は降っていなかった。記憶が鮮明になってくるのか、それとも盛っているだけなのかは、カヨさんにしかわからない。
「十一月に雪なんて珍しいですね」
「そうかしら? あの頃は冬が早くに来ていたのよ。覚えていない? 里子ったら初雪が降るたびに犬と一緒になって大騒ぎしていたじゃないの」
そう言われてわたしはうなずいた。
「確かに、そうでしたね」
話を合わせることにも少しずつなれてきた。それでも自分の笑顔がぎこちないことは自覚している。未だにこの状況が理解できないせいだ。どうしてわたしなのか……。
カヨさんの話から推測するに、『里子』というのは彼女の妹のようだった。昔話の中では小学生くらいの女の子だ。年齢から推測するに、おそらく戦前の話をしているのではないだろうか。
現代のようになんでも手に入る時代ではない。春は田んぼのあぜ道で鬼ごっこ。夏は川で水遊び。秋は山で栗を拾って、雪が降ればかまくらを作る。そうやって自然の中ではしゃぐ子供たちを想像するのは難しいことではなかった。何もないけれど、満ち足りた時代の話だ。カヨさんの話を聞いていると、どこか別の世界の話のように聞こえてくる。
そうしているうちに、次第に夢中で耳を傾けるようになっていた。あちこちに飛んでいく物語のかけらを拾い集めていく。
けれど、ふと疑問が沸き起こった。
いつもカヨさんの後ろをついて回っていた実際の『里子』は一体どこにいるのだろうか。かなりの高齢になっていることは確かで、たかだか十七年しか生きていないわたしをどうして妹と間違えたのだろう。それだけが不思議だった。
「ありがとう」
突然振ってきた声に、わたしの思考が現実に引き戻される。ハッとして顔を上げると小川さんがいた。
「時間よ。みんな帰る用意をしているから尾上さんも遅れないようにして」
時計を見るとすでに午後四時を回っていた。
いつの間に? よほど夢中になって聞いていたことに驚く。
「カヨさん、そろそろ帰る時間なの。いいかしら?」
小川さんがカヨさんの肩を優しく叩く。
すると、
「私も帰る」
カヨさんが言った。小川さんが困ったように眉根を寄せている。
「里子と帰る」と言い張るカヨさんを優しく諭す。
「今日はおしまい。ね?」
小川さんの根気強い説得にカヨさんは寂しそうにうなずいた。わたしは小川さんに背中を押されるようにしてその場から去った。カヨさんの視線が追いかけてくるのがわかる。
「今日はありがとう」
廊下に出たところで小川さんが言った。
「いえ。こちらこそすみませんでした、モップがけが途中で」
「いいのよ。みんなが代わりに頑張ってくれたから」と笑顔を向ける。けれどそこの言葉にわたしは苦笑した。後で由香に文句を言われそうだ。
「あの、カヨさんて……」
おずおずと問いかけるわたしに今度は小川さんが苦笑する。
「もうわかってると思うけど、痴呆症なの。昔の話しかしないのよ。ここに入所してからほとんどお友達も出来なくてね」
「こらあ、真理!」
唐突に小川さんの話を声がさえぎった。由香だ。
バフッと音を立ててカバンが投げつけられる。
「わわっ! ちょっと! 人もの投げないでよ!」
危うく取り損ねるのをぎりぎりでキャッチ。が、カバンのポケットからスマホが滑り落ちて、音を立てる。
「なにすんの!」
「天罰よ! あんたのせいでどれだけ大変だったかわかる?」
由香が怒りの声を上げる。
「こっちはねえ、こき使われてボロボロ! 見てよこれ、爪割れちゃったじゃない! どうしてくれんのよ!」
と、凶器になりそうなくらいに伸ばされた爪を目の前にかざしてくるが、あまりに近すぎて焦点が合わない。
「別にいいじゃん。そのうち生えてくるんだから」
「そういう問題じゃない! あんただけ楽な仕事だったのが腹立つの!」
要するに八つ当たりというわけだ。
わめき散らす由香に小川さんが声をかける。
「あら、尾上さんの方が気疲れする仕事だと思うけど? お年寄りの相手って意外と大変なのよ。それに考えようによっちゃ、モップがけの方がいい運動になって痩せられるかも」
女子高生にっては魅惑的なワードを心得ていらっしゃる。それを聞いた由香はあっさりと考えを変えたようで「ふんっ。まあいいわ」と納得してさっさと行ってしまった。そんな由香を見て小川さんは笑っている。
「ねえ、尾上さん。もしよければまた来てくれないかしら? カヨさん、きっと喜ぶと思うの」
「え」
「無理にとは言わないわ。尾上さんさえよければだけど」
そんなことを突然言われても困る。断るにも気が引けてしまう。
「……時間が、あれば」
悩んだ末に曖昧に答えた。