運命の女神
「気を使わなくていいのに」
叔母さんが困ったように苦笑した。けれどわたしはその言葉に首を振る。
「いいえ。家賃の面倒を見てもらっているだけでも十分なのに、これ以上迷惑はかけられません」
「迷惑だなんて思ってないのよ。それより、ごはんちゃんと食べてるの? ぜんぜん食べにこないから心配してたのよ。遠慮なんてしなくていいんだからね。姉さんに怒られちゃうわ」
『姉さんに怒られる』それは叔母さんの口癖だった。なにかあるごとにわたしに向かってその言葉を吐くのだ。叔母さんなりの優しさのつもりなんだろう。それはわかっているけれど、その言葉がまるで言い訳のように聞こえてしまって嫌だった。
「大丈夫です。ちゃんと食べてますから」
口早に言うと持っていた封筒を叔母さんに押し付けた。そのまま大きく一歩後ろに下がると視線も合わさずに頭を下げる。
「学校があるので失礼します」
それだけ言ってわたしは駆け出した。
「身内なんだから一緒に暮らしましょ」そう言って引き取ってくれた叔母さんには感謝しているけれど、優しさを押し付けがましく感じてしまう自分にも嫌気が差して無理を言って高校進学を期に家を出た。いざという時のために両親が貯めていたお金がいくらかあったから一人でもなんとか自立して行けると思っていたけれど、さすがに高校に通っている身では無理な話だった。
「家賃は私が出すから」と譲らなかった叔母さんに甘えてしまったのも今となっては後ろめたい。けれどその優しさが邪魔な存在を追い出すための口実に思えて仕方ないのも、わたしが少なからずひねくれているからなのだろう。
どちらにせよ、甘えたままではいられないので出来る限り家賃を払うようにしている。そのためにも働くことはわたしにとって重要なことだった。まさか死神になるとは思いもしていなかったけれど。
駅に走りつくと大きく息を整えながら改札を通る。ホームにたどり着く頃にはなんとか呼吸も落ち着いてきた。
しかし、なんともいえない憂鬱な朝だ。
わたしはまだ、なにも出来ずにユキを看取ったことを気に病んでいた。あれから一週間が経とうとしているけれど、後ろめたさで押しつぶされそうになる。「そんなことでどうする」と、師匠には怒られたが、どんなに小さな命でも喪うことはやっぱり苦しい。久しぶりによみがえってきた感情に押しつぶされそうになる。思わず重いため息をついた。
しかし、そんな鬱々とした気分で電車に揺られていたのが良くなかったようだ。
終着駅でカバンのポケットを探ってゾッとした。
パスケースがない!
気づいたと同時にあたりを見回すが、如何せん人波に飲まれた状態では手から滑り落ちたパスケースなど探しようがない。いや待てよ。そもそもどこにしまったっけ? スカートのポケット? には無いようだし。ブレザーは? 待て待て、ここに落ちている可能性はどのくらいある? 前の駅で落としていたら戻らないといけないじゃないか! くっそう。ついてない!
定期券の行方がわからずに右往左往する。
すると、
「落としましたよ」
突然振ってきた声に、ハッとして振り返る。
「これ、君のだよね?」
その声と一緒に見慣れたパスケースが差し出される。わたしは慌ててブレザーのポケットの中に突っ込んでいた手を乱暴に引き抜いた。
「あ、ありがとうございます!」
神だ。神がいた! 絶望しかけたわたしに神様が希望を与えてくださった!
神様の使いの顔を拝もうとそっと顔を上げた……、瞬間。
「あ!」
小さく悲鳴を上げて固まった。
う、そ……。本物、だよね……。このメガネの形は……、間違いない!
そこに立っていたのは『横顔の君』だった。はじめて正面から見る顔は横から見るよりもずっと整っているように見える。
呆然とするわたしを彼は不思議そうに見つめている。見つめている!
その事実はパニックを起こすには十分すぎる衝撃だった。沸騰寸前の脳はパスケースを受け取ろうとしたまま空中で止まっている手のことなどお構いなしに、『緊急退避』のアラームを連打している。ダメだ、ショックが強すぎる。
固まっているわたしに彼は首をかしげた。
「あれ、違ったかな?」
その言葉にわたしは慌てて首を振った。
「違いません! わたしのです!」
音量調節機能がイカレて飛び出してきたのは自分でも驚くほどのボリュームの声。けれどありがたいことに、その声はアナウンスにかき消されて周囲の人は気にもしなかった。『横顔の君』以外は。
彼は苦笑すると、パスケースをそっとわたしの手のひらの上に置く。
「今度からは落とさないように気をつけて」
痺れるような低くて優しい声に体が震えそうになる。
彼は石像のように固まったままのわたしに笑いかけると、流れる人の波の中に消えた。
その背中が見えなくなるのを待ってその場にへたり込む。今まで固まっていたのが不思議なくらいに体に力が入らない。
彼を遣わしてくれた神様は、きっと鬱々としたわたしを元気づけようとしてくれた運命の女神様に違いない。
わたしは彼が拾ってくれたパスケースをぎゅっと胸に抱えて、女神様に深く感謝した。
「見てこれ! これここ! よく見て!」
教室に入るなり由香の元に駆け寄って四角いそれをどこぞの時代劇のように掲げた。
「あんたのパスケースじゃん。それが?」
「わからないの?」
「はあ?」
わたしの興奮の理由が由香にはわからないらしい。それは『WS』も同じようだ。朝から女子トークで盛り上がったいたところを邪魔されて二人は機嫌を損ねている。
「真理がとうとうおかしくなった」と文句を言っているが、今のわたしには気にしている余裕はない。
「『横顔の君』が!」
構わずに続けるわたしに「ほう」「どうした」と変わり身の早さを発揮して合いの手を入れてくる。
「『横顔の君』が、これ拾ってくれた!」
「それが?」
「触ったんだよ! 『横顔の君』が!」
「それで?」
「すっごくいい声だった!」
興奮するわたしはと裏腹に、由香は机に肘をついて頭を抱えている。不思議に思って声をかけた。
「由香? どうし……」
「とうとう行動に出たのね真理! あたしは嬉しいわ!」
具合でも悪いのかと覗き込んだわたしの肩をつかんで、由香が言い放った。
「冴えない女のまま高校生活を終えるのかと思ってたけど、違った! あんたにはちゃんと勇気があった! さすがあたしの友達だわ!」
由香が鋭い眼光でわたしの目を覗き込んでくる。
「謀ったのね!」
……測った? なにを?
その言葉の意味がわからず、ぽかりと口を開けたまま問い返すように首をかしげる。
「どういう意味?」
「違うの?」
「は?」
由香は信じられないというように大きな目を見開いた。眼球がこぼれ落ちるかとかと思うほどに開くものだから、思わず両手を差し出した。
「落としたパスケースをたまたま『横顔の君』が拾ってくれた……」
「たまたま?」
それを聞いて、由香が愕然とうなだれる。
「たまたまって、あんた。それって偶然ってこと?」
「そう、だけど……」
「まさか、その偶然は運命! とか思ってるんじゃないでしょうね!」
キッとにらみつけてくる両目に恐れをなして思わず縮こまる。
「そうだけ……」
「運命ってやつは、偶然じゃないの! 自分で切り拓くものなの!」
熱く語ってくる由香に「そうだけど」とは言えず、「そうだね」と言い直すのが精一杯だ。
「まあいいわ。それで? 連絡先は聞いたんだよね」
さも当たり前のように言ってくる。しかしわたしはその言葉にきょとんとした。
「まさか聞いてないの? 百万回に一度あるかないかのチャンスをあんたは棒に振ったってこと?」
百万回に一度って、そんな大袈裟な。
「ホームで邪魔になるし、周りに人がたくさんいたし、向こうも急いでるかもしれなかったし……」
言い訳を連ねてみるが、次第に由香の視線が突き刺さってくる。
「すみませんでした」
眼光の鋭さに負けて謝るしかない。『WS』が楽しそうにわたしたちのやり取りを見ている。
「だからあんたは『夢見る乙女ちゃん』止まりなのよ!」
とどめの一撃に肩を落とすしかない。
「見ているだけでいい」と言っていたはずなのに、声をかけられただけで有頂天になるなんて……。自分が全然わからない。
「……ところで」
ふと気づいて、おずおずと声を上げる。
「なんでみんなジャージなの?」
教室中どこを見渡しても、学校指定の紺色のジャージで染まっている。
「なにボケてんの。今日は社会福祉体験でしょ!」
早苗が呆れ顔で言った。
そうだった! 完全に忘れていた。わたしはロッカーに入れっぱなしのジャージを掴んで更衣室に直行した。