死神の弟子
そのノラ猫に出会ったのはいつもと変わらない下校途中だった。
足元に違和感を覚えて見下ろすと、そこには真っ白でふかふかの毛並みをした猫がいた。どこからやってきたのか、その猫は人懐こい声を上げながらわたしの足に体を擦りつけてくる。
「まっしろ!」
わたしはその白さに驚いて思わずしゃがみこんだ。犬派か猫派かと聞かれたら断然猫派だ。どこが好きなのかと聞かれると細かく答えることはできないが、なんと言ってもその自由気ままな振る舞いには憧れてしまう。
撫でると毛足の長い毛並みが心地いい。
すると、
「ヤだ!」
隣にいた由香が飛びのいた。
「あたし、猫アレルギー!」
恐ろしそうに猫を見やっている。
「それは初耳だ」
おびえる由香のことなど気にもせずに気持ちのいい毛並みを思う存分堪能する。猫は人になれているのか抗いもせずにされるがままだ。
「君はこんなにもきれいな色をしてノラなのかい?」
話せるはずもない猫に向かって話しかけた。ひと鳴きする猫に「肯定なの? 否定なの?」などと問いかける。
ふと喉元をなでていた指先に何かが当たった。長い毛に隠れて見えなかったが首輪が付けられている。
「なんだ、飼い猫なんだ。どこから来たの?」
首輪をよく見ようと猫を抱き上げる。水色の首輪には、銀色のプレートがぷら下がっていた。四文字のアルファベットが刻み込まれている。
「ユ、キ。ユキっていう名前なの?」
それが真っ白な猫、ユキとの出会いだった。
「来てしまった……」
神社の長い階段を見上げて呟いた。陽はすでに暮れていてあたりは薄暗い、ユキのことを考えていたら足が自然と神社に向かっていた。朝のように一気に駆け上がることはせずに、一段ずつのんびりと上っていく。よくよく考えてみると学校帰りにユキのところへ寄るのははじめてのことだった。曲がりなりにも『仕事』というものを普段の日常から切り離して捉えようとしていたのかもしれない。境界が曖昧になってしまってはどちらも中途半端になってしまうような気がしていたからだ。
そんなことを考えながらユキの元へ向かっていると、林の奥にはすでに先客がいた。
「師匠?」
見覚えのある黒い背中が木の根元を覗き込むようにうずくまっているのを見つけて、思わず声を上げた。師匠は億劫そうに振り向くと「来たのか」と呟く。
それを聞いてムッとした。わたしにはあれほど情を移すなと言っていたのに自分はこれかよ。一体どういうつもりなのかと問い詰めたくなる。
「いつからいたんですか?」
「お前には関係ない」
「ずいぶんかわいがっているようですけど?」
だんだん腹が立ってきて声が低くなる。
「そういうわけじゃない」
じゃあどういうわけだ。と問い返したいのを必死でこらえる。
体中の毒素を全て吐き出すように深く息を吐き出す。気を取り直して師匠の肩越しに木の根元を覗き込むとユキは眠っていた。タオルに包まりながら時々足をピクリと動かしている。夢でも見ているんだろうか。
「寝てるんですね」
うなずく師匠の向かい側にかがみこんで、起こさないようにそっと柔らかな毛並みを撫でる。かわいらしい寝顔に癒される。こうしていると師匠に腹を立てていたことなんてすぐに忘れられる。
「かわいいなあ、ユキちゃん」
思わずこぼした言葉にハッとする。また苦言が飛んでくるかと思ったがそんなことはなかった。代わりに淡々とした声が告げた。
「そろそろだな」
師匠の言葉に顔を上げる。その厳しい顔つきにわたしは息を飲んだ。
使い始めたばかりのノートに最後の言葉を書き入れる。
師匠の予告からすでに二日が経っていた。
相変わらず四時前に起きて神社まで餌やりに行くという生活を送っている。わたしの目にユキの姿は何も変わらないように見えているが、師匠はそうではないらしい。日に日に不機嫌になっていく彼の態度に気疲れする。
憂鬱な思いでノートに目を落とす。
五日前の日付から始まるノートの内容は日記というべきだろうか。師匠に命じられるまま書き始めたものだ。なにが起こって、なにを思ったのかを端的に記すだけでいいと言われた。提出の義務はないということなので、思うままに書き留めている。
読み返してみるとバカの一つ覚えのように「かわいい」の単語が連なっている。語彙力のなさにため息が出る。万が一読まれるようなことになったらと思うと背筋が冷える。
けれど、あの予言からわたしの心は停止寸前だった。やりきれない思いが日々募っていく。その証拠に二日前の記録からやけに味気なくなっている。次第に重くなっていく心のもやは、もう『横顔の君』を眺めるだけでは晴れなくなっていた。それとも気が重いのは寝不足のせいだからなのか。別の理由をつけようとしたところで無駄な足掻きのように思えて余計に空しくなっていく。
わたしにはこれからやってくる運命をなにひとつ変えることはできない。
以前に師匠についていたという人も、同じように悩んでいたのだろうか。ノートの文字をなぞりながら大きくため息をついた。
テーブルライトだけが灯る薄暗い部屋の外にはなにもなくて、たった独りこの世界に取り残されているような気分だ。机の上に伏せられたフォトフレームがなにか語りかけてこないだろうかと期待してみるが、それがしゃべりだすことがないことをわたしは知っている。そんな期待を持つことはずっと昔にやめていたんだ。
毎朝の早朝ランニングのせいで疲れているはずなのに、なぜかそわそわして眠れない。
カーテンの隙間からこぼれてくる街灯の明かりがやけに眩しく感じる。壁にかかる時計の秒針がカチカチと気に障る。些細なことの一つ一つが妙に心を騒ぎ立てた。
「あー……。眠れない」
呟いた言葉が壁に反響した。落ち着きなく寝返りを打つたびに聞こえる衣擦れにまで神経が逆撫でられる。
一体どうしたというのだろう。
枕もとのスマホを手に取ると、ディスプレイから放たれる明かりで部屋の中がぼんやりと照らされる。
「はあ」
時間を確認して息を漏らす。
まだ三時前だ。アラームが鳴り出すまでいくらか時間がある。けれど、どう考えてもそれまでの時間安眠できそうにはない。かといって時間が来るまで一人でそわそわしているのも嫌だった。
うだうだとベッドの中で考えながら、のそりと起き上がる。
ユキのところへ行こう。
キャットフードとスマホをウィンドブレーカーのポケットに突っ込んで神社の階段を上る。
上りきったところでふと振り返る。鳥居の下から眺める下界はまだ夜の中で眠っていた。いびつに欠けた月が暗い空の上で煌々と輝いている。静かで冷たい風が髪を乱しながら吹き抜ける。
ここは見慣れた日常ではない。薄い紙で仕切られた向こう側の世界だ。
不意に一抹の予感がよぎった。
足早に境内の奥の林へと向かう。
「ユキ」
木の根元に向かってそっと呼びかけるが反応はない。まだ眠っているんだろうか。
そっとタオルをよけると、ユキはそこにいた。けれど眠っているわけではなかった。苦しそうに浅い呼吸を繰り返している。
そのときがやって来たのだ。
覚悟していなかったわけじゃない。けれど受け入れがたかった事実。
「情を移すな」
師匠の声が聞こえたような気がした。どうしてそんなことを言うのかわかっていたはずなのに。
わたしは苦しむユキの隣にへたり込むように膝を抱えて座り込んだ。
ポケットに入れたキャットフードとスマホがぶつかってカチリと音を立てた。その音が空しく響く。
ユキの汗ばんで乱れた毛並みを整えるようにそっと撫でた。静かな夜の世界にユキは確かに存在している。
「大丈夫だよ。ちゃんとそばにいるからね」
自分に言い聞かせるようにささやいた。
夜空の藍が薄まってオレンジ色の光が混じる頃、ユキは静かに息を引き取った。
夜明けの冷たい空気が急速にユキのぬくもりを奪っていく。それでもわたしはその小さな体を撫で続けた。
「頑張ったね、ユキ」
驚くくらい熱い涙が、一筋頬を伝った。それを皮切りにぽろぽろと雫が零れ落ちていく。涙は湧き出る泉のように後から後からあふれて止まらない。涙を拭うたびにユキのぬくもりがよみがえってくる。ほんの数日一緒にいただけなのに、こんなにも悲しいなんて。
ひとしきり泣いたのを見計らったようにして朝日の中に人影が現れた。
「師匠」
重い瞼を上げて、光を背負う影に呼びかける。
「逝ったのか」
静かに問いかける。
「……はい」
わたしはうなずいた。泣き腫らした目は朝日に暴かれて隠しようがない。それを見た師匠が大きく息を吐き出した。
「だから情を移すなと言ったんだ。わかりきったことだったはずだ」
その言葉にまた涙がこみ上げてくる。
「なにも、出来ませんでした。わたしは、なにもしてあげられなかった」
言葉が嗚咽にかすむ。
「それでいい。それが死神の仕事だ」
突き刺さってくる声に、わたしは唇をかんだ。
そう。師匠は死神。そして、わたしはその弟子。