横顔の君
寝不足の人間にとって電車の揺れは心地いい。通勤通学のラッシュがなければなおさらだ。でもそれは贅沢な願い。どうしたって叶いそうにはない。
サラリーマンの背中に寄りかかって、というより押しつぶされるようにして必死にあくびをかみ殺した。
「やっぱり四時起きはつらいよなあ……」
口の中で呟く。
まあ今日は四時半起きだけれども。そこで三十分は誤差の範囲だ。
下を向いて目を閉じようものならすぐにでも睡魔が襲ってきそうだ。わずかな通学時間を睡眠にあてるのも悪くはない。でも今はそれ以上にもっと大切なことがあった。
ゆらゆらと揺れる人ごみの中でつま先だって狭い車内をどうにか見渡す。あっちもこっちも眠そうで浮かない顔ばかりだ。
人波に身を任せること数十秒。
ようやくその人物を見つけた。
サラリーマンの頭が邪魔でよく見えないが、間違いなくその人物だ。
黒いフレームのメガネをかけた横顔がチラリと見える。
物憂げで伏目がちの瞳は手元に持った本に視線を落としているためだろう。短めに切りそろえられた髪が電車が揺れるたびにかすかに動く。
パッとしない群衆の中で彼の顔だけが凛々しく輝いて見えた。
通学電車で必ず見かける彼のことを『横顔の君』とわたしは密かに呼んでいた。
文字を追う真剣な眼差しに見とれていると、いつも間にか強烈だったはずの睡魔がどこかに消えてしまう。このわずかな時間が至福の時間だった。
けれど、幸せな時間というものはそう長くは続かない。電車は早くも終着駅のホームに滑り込んでいた。
ドアが開くと同時に流れ出す人、人、人。わたしも勢いに押されてホームに放り出される。それでも視線は『横顔の君』の姿を捉えようと右往左往している。
「いたっ!」
残念ながら彼を見つけたわけではなかった。突然足を踏まれて電撃のような痛みが走ったのだ。それも今朝ぶつけたばかりの小指。
「おはよう」の声と一緒に飛んできた拳をお腹で受け止めて、体がくの字に曲がる。
「ぐえっ! お、おはよう。……痛いんですが、由香さん」
わたしは隣で足を踏み続ける女子高生に向かって文句をつけた。
「あんた、いつまで見てるつもり? そんなんじゃいつか捕られちゃうわよ。あたしとか、あたしとか、あたしとか?」
「なに言ってるの? 彼氏いるんだよね? そういうこというのやめてよ」
するととぼけるように首をかしげる。
彼女は同級生の下村由香。細いあごとパッチリとした大きな瞳が色素の薄い茶色の髪の緩やかなウェーブに縁取られている。スタイルが抜群にいいせいか、同じ制服を着ているとは思えないくらい彼女の制服姿には見惚れてしまう。同性のわたしから見てもかわいいとしか言わざるをえない。
「って言うか、あんた。もう病気だよ。完全に落ちてるよ。あたしずっと近くで呼んでたのに、ぜんっぜん気づかないんだもん。決定的だね、もう」
意地の悪い笑みを浮かべながら更にぐりぐりと足を踏みつけてくる。
「痛い! 痛い! 痛い!」
わたしは思わず悲鳴を上げた。
「なによ、あたしが怪力みたいに言うじゃない」
決して非力ではないと思うんだけどなあ。という言葉は飲み込む。
「朝、机の角にぶつけたの。ホントに痛いからやめてください」
「ふーん。ついこの間は捻挫だったよね? 真理の足は災難続きだねえ。一回厄落としてもらったら?」
由香はそういってようやく足を離すと、すっかり人がまばらになったホースをスタスタと歩いていってしまう。
「同感」
わたしはその華奢な背中に向かって言った。
「それにしてもいつまで指くわえてみてるつもり? さっさと告っちゃいなよ」
「別に指くわえてなんていないですから。それさっきも同じこと聞いた」
「あれー? そうだっけ?」
「そうだよ」
学校までの道のりを由香と並んで歩く。電車通学のわたしたちは待ち合わせをしているわけではないけれど、なんとなく登下校は一緒になる。
「それにしてもなかなかのイケメンじゃん? 『横顔の君』はさあ。もう手遅れだったりして」
大学生の恋人を持つ由香が余裕の笑みで茶化してくる。
「いいんです。見てるだけで。玉砕したら立ち直れない自信あるし」
「もー。真理は純情だわあ。この世には略奪愛ってもんがあるんだよ。略! 奪! 愛!」
由香がやけに嬉しそうに絡んでくる。何かいいことでもあったのだろうか。機嫌がいいといつもこうだ。とにかく人をいじり倒す。
「そんな昼ドラみたいなのはヤだよ。わたしはせいぜい朝ドラだね」
「えー! いいじゃん昼ドラ! ドロッドロのぐっちゃぐちゃ。楽しいじゃん、あたしが」
そう来たか。そりゃ楽しいだろうよ。恋人を欠かしたことのない由香はれっきとしたモテ女だ。そんな彼女にわたしがなにを言ったところで無駄だ。
「わたし、恋愛系がどうもダメなんだよねえ。駆け引きとか、うじうじしてたりとか。見てるとイライラしてくる」
「あらー。自分で言っちゃった。今の真理は完全にうじうじしてるよ。そう思うならさっさと玉砕して来い! 骨ぐらいは拾ってあげるから」
「わたしのはうじうじじゃなくて達観なんですう。はじめから望みなんて持ってないんですう。それより、この話は内密にしてよね」
口を尖らせて反論してみるが全く動じる気配がない。
「意気地なしだからな! どうしよっかなあ!」
由香が突然大声を上げた。その声に周囲にいた生徒が何事かと振り返った。わたしはぎょっとして、慌てて由香の腕を掴むと引きずるように走り出す。
「やめてよ、もー!」
後ろからケタケタと笑い声が聞こえてくる。チラリと振り返ると由香がおかしそうにお腹を抱えて笑っていた。
女子高生とか昔過ぎてよくわからない。