傷の名前
わたしは駅のホームに立って近づいてくる電車を見つめた。鮮やかな夕暮れの中を電車は巧君を乗せて走ってくる。
今日はようやく迎えた一ヶ月記念日だ。
本当は朝から会いに行きたかったけれど、プレゼントを作るのに手間取ってしまってこんな時間になってしまった。マフラーは計画的に編んでいたから間に合ったものの、それだけでは足りないような気がして、急遽クッキーの制作に乗り出したのだ。思いついたのは前日の夕方。慌てて材料を揃えたはいいけれど、一人で作るのは初めてだったせいもあってなかなかうまく行かず、結局当日の昼までかかってしまった。もう自分の不器用さには嘆くしかない。アイシングを施したクッキーをきれいにラッピングしてマフラーと一緒に、手に持った紙袋の中に入れてある。どんな反応が返ってくるかは渡してみないと分からない。
そんなことを考えているうちに電車がホームに滑り込んでくる。停車したドアの向こうに巧君の姿が見える。彼はドアが開くといつものようにホームに降りてきた。
「一ヶ月記念日おめでとう」
開口一番そう言って、わたしの手を握る。わたしも彼の顔を見上げて「おめでとう」と返す。
そのまま電車に乗り込むと、わたしたちは終着駅を目指す。
デートの場所なんてどこでもよかった。どちらかの部屋でもよかったし、その辺りの公園でもよかった。けれど巧君は「記念日なんだからちゃんと祝おう」と言って、いつだったか二人で逃げ込んだ喫茶店に連れてきてくれた。
予約済みだったらしく用意された席に通されると、程なくして小さなデコレーションケーキが登場した。大ぶりなイチゴがたっぷりのったケーキだ。思わずわたしが「高そう」と呟くと、「今日はそういうの無し」と軽く小突かれる。
「それならわたしも」と持っていた紙袋からプレゼントを取りだした。「気が早いな」と笑う彼に、「だってタイミングとかわかんないんだもん」とふくれる。
マフラーを手に取った巧君に手編みだと伝えると、「すごい。嬉しすぎる」と感動していた。棒針編みには苦戦したけれど、寿子さんに教わったアイロンテクニックを駆使してなんとか形に仕上げた。嬉しそうにマフラーを早速首元に巻く彼を見て、わたしは大満足だった。毛糸の色も手触りもこだわって選んだ甲斐があったというものだ。
お店に断ってクッキーにかじりつく巧君の顔をこっそりスマホのカメラで隠し撮りする。
なんて幸せそうに笑うんだろう。ハート型のクッキーを頬張る彼を見て思った。
デコレーションケーキは二人で食べあいっこ。なんだか結婚式みたいだと思ったのは、わたしだけなのかな?
ケーキを食べ終えてコーヒーを飲んでいると、おもむろに巧君が「手を出して」と言ってきた。わたしは首をかしげて手のひらを上に差し出す。すると彼は小さく笑ってわたしの右手を取ると、そっと小指に指輪をはめた。
「左手じゃなくてごめん」と断る彼に、わたしは驚いて右手の小指を眺めた。
「いいの?」
金色の台座についた小さな半透明の石は照明に当たるとキラキラと光った。
「安物だけどね」彼は苦笑する。
「ムーンストーンっていう石だよ。恋人に贈る石なんだ。光って見えるのは石の中に出来た傷」
巧君の言葉を聞きながら、わたしは指輪を光に当てながら眺める。
「傷なんだね」呟くと、彼はうなずいた。
「そう、本当は品質が悪くて宝石としての価値があまりないんだ。でも俺はその傷に意味を見つけた」
「意味?」
「うん。永遠に続く愛の中に閉じ込められた傷は、きっと永遠そのもの。刻みつけられた永遠がその傷を作るんだ」
そう言うと彼は照れくさそうに鼻を掻いた。
「まあこじつけだけどね」
「嬉しい」わたしは首を振る。
「こじつけだっていいよ。安くたって関係ない。この傷の意味を知っているのはわたしたちだけだから」
わたしは彼の手を強く握った。
「この傷の数だけ永遠を持っているんだよね」
それはあなたが、わたしにくれたものだ。
喫茶店を出て駅前をぶらぶらと歩く。
繋いだ手が温かくて、それだけで幸せだった。
目的地なんてなくたっていい。隣にあなたがいればどんなに長い距離だって、きっと歩ける。
不意に視界がにじんだ。切なさがあふれて胸が締め付けられる。彼はそれに気付くとわたしを抱き寄せて額に口づけた。優しく微笑む彼の笑顔をわたしは心に刻む。
「忘れないよ、絶対に」
「わかってる。心は置いていくから」
歩道の信号が青に変わる。先に歩き出した彼の手がゆっくりと解けて離れていく。
待って。まだいかないで。
つなぎなおそうと手を伸ばすけれど、わずかに振り向いた彼は小さく微笑んで手を引いた。
その瞬間、世界を切り裂くようなクラクションが鳴り響く。
スローモーション。
どこかで見た白い乗用車が迫ってくる。デジャヴのような奇妙な感覚に襲われる。
目の前をテールランプが横切った。
ドンッ。
鈍い音がしてそこにいたはずの彼が視界から消えた。
つんざくようなブレーキ音のあとに、衝撃が走る。
耳の奥で警鐘が鳴り響いている。それに混じって荒い自分の息づかいが聞こえた。
運命が過ぎ去ろうとしていた。
病院へ救急搬送されると彼は手術室へ連れて行かれた。取り残されたわたしはその部屋のランプを呆然と見上げる。
彼のぬくもりが残っている手は、今は彼の血で染まっていた。
「逝ってしまうの?」
呟くと熱い涙があふれた。
まだここにいて。側にいて。どこにも行かないで。
膝をついて泣きじゃくった。でも、どんなに叫んでも彼にはきっと届かない。
ふと、声降ってきた。
「後悔、しないで済みそうか?」
師匠だった。その言葉にわたしは首を振る。
「まだです。……まだ、終わってない」
警鐘は続いていた。わたしにはまだ、立ちのぼる光の中に彼の姿が見えていた。
無数の光の中に彼は立っている。いつものように微笑んで。
『真理』
声が聞こえた。
『必要としてくれる限り、ずっとここにいる。姿が見えなくても、声が聞こえ中くても、絶対にだ。だから、真理は一人じゃない』
そう言ってわたしの手を取った。指輪にそっと口づけて、
『だから、一人で悲しまないでくれ』
光の中に消えていこうとする彼が、今度はわたしに口づける。
『愛してる』
その言葉を最後に、彼は消えた。
静まり返った病院に、わたしの嗚咽が響いている。師匠の手が慰めるようにわたしの肩に置かれた。
遠くから慌ただしく足音が近づいてくる。
「叔母さんが迎えに来たぞ」
短く言って師匠の手が離れた。
血相を変えた叔母さんが泣きながらわたしをきつく抱きしめる。「よかった」と何度も呟きながら。
運命は去って行った。
永遠という名の傷を付けて。




