嬉しいけど怖い
彼は人ごみの中で何かを探している。いや、誰か、なのだろうか。わたしは少し離れたところでぼんやりとそれを見つめている。耳の奥で激しく鳴る鼓動に打ちのめされながら。
なんで? どうして巧さんなの? わたしは予感をときめきと勘違いしていただけだったの? この気持ちは偽物だったの? ……違う。違う。見習いになる前からずっと好きだったもの。それは本当のこと。偽物なんかじゃない。
必死でそう思っても警鐘のように鳴り響く鼓動は収まらない。
止まれ。止まれ。
何度も唱えながら固く目を閉じる。けれど、いくら拒もうとも何かが変わるわけではないのだ。
絶望に羽交い絞めにされてうつろに目を上げる。
瞬間。
どくんっ。
鼓動が一際大きく脈打った。
狭い電車内の中で吸い寄せられるように彼と目が会う。すると彼は嬉しそうに笑みを漏らした。その視界の中ではチカチカと光の粒が瞬く。その本当の意味を知ってしまったわたしに、彼の顔を見つめることなど出来はしなかった。
すぐに視線をそらして気付かないふりをするけれど、そんなことは何の意味もない。自分でもわかっているのだ。けれどわたしにはそれ以外にどうしたらいいのかがわからなかった。
人波に押し出されてホームに出たわたしは、そのまま周りに紛れるようにして歩いた。ゆらゆらと揺れる背中の群れをじっと見つめる。目不足で乾いた目がキシキシと音を立てるように痛んだ。
学校へたどり着けば、変わらない日常が待っているはずだ。だから、早く向かおう。一刻も早く。
必死に頭の中を別のことに摩り替えようと試みる。
ずしりとしたカバンの重み。目の前を歩く会社員のスーツの色。近くを歩くハイヒール。無数の靴音に混じって彼の会い音が聞こえたような気がした。毎日のように聞き耳を立てていたせいで、勝手にその音を拾い集めてくるのだ。
近づいてくる。逃げたい。けれど、逃げ場所なんてどこにもない。
「真理ちゃん」
彼の声が聞こえた。恐怖で足が止まる。背筋に緊張が走った。
振り向きたい。でも、振り向きたくない。両極の想いがわたしの内側で戦っている。
「真理ちゃん」
呼ぶ声が繰り返し聞こえてきて、肩にそっと手が置かれた。
途端に鼓動が跳ね上がる。鐘の音に似たそれは耳の奥で打ち鳴らされている。
いやだ。そんなもの、聞きたくない。
けれど、いくら拒否したところでその音は鳴り止まなかった。
制服の袖を握り締める。
数秒か、数分か、時間の感覚が麻痺してどれだけのあいだそうしていたのかわからなかった。
今にも逃げだしそうな足を押さえつけて、ブリキのおもちゃのようにゆっくりと振り返った。はじめに見えたのはシャツの衿元。さまよう視線が行き着いたのは、穏やかな笑みを浮かべてわたしを見つめる巧みさんの顔だった。
愛おしさと悲しさと苦しさが一気にあふれ出してくる。
苦しい。
胸の奥が握りつぶされているように痛い。それでも、じわりと染みるように広がる心地よい温かさに戸惑う。
ああ、やっぱりこの人のことが好きなんだ……。
その顔を見て再認識した。
「おはよう、ございます」
声が震えた。今までどんな風に彼に向き合っていたのかわからなかった。わたしはちゃんと笑えているだろうか。
彼はそんなわたしを見て何かを察したようだった。
「そうか」
小さく、彼が呟いた。震える視線が彼を見上げる。そこにはいつも見せてくれていた笑顔はなかった。あるのは射るように真剣な眼差し。
「今更、遅いのかもしれないけれど、ずっと伝えたかったことがあるんだ」
ホームのざわめきの中にあっても、その声は鮮明に聞こえた。
「君が、好きだ。これが運命だとしても、どんな残酷な結末が待っていたとしても、それでも俺は君が好きだ」
嬉しかった。言葉にできないくらいに嬉しかった。それと同時に怖かった。
わたしは耳の奥で鳴り止まない警鐘から逃れるように、彼に背を向けて逃げ出した。
一体どうしたらいいのだろう。
その答えがわからなかった。
「真理っ」
人波を避けて走るわたしを由香の声が呼び止めた。軽い靴音が追ってくる。
「どうしたの?」
強い力で腕を掴まれる。
「あんた、おかしいよ」
うなだれるわたしを見て由香が言った。
「……どうしたらいいのかなんて、わからないよ」
震える声を押し付けて腕を振り払った。
日常に辿り着くことの出来なかったわたしは、突きつけられた現実を受け入れることが出来ずに電車に飛び乗った。逃げるように部屋に帰ってきてベッドに顔を埋めている。ずっと堪えていたものがあふれて止まらなかった。何度かスマホが震えたけれど、平静を装って応答する自信がなかった。今は放っておいて欲しかった。
頭の中で巧さんの声が何度も繰り返されている。それと一緒に師匠の宣告も。いろいろな感情が混ざり合ってどす黒い闇を生んでいく。わたしはその中に囚われていた。
うるさく鳴り響いていた鼓動は落ち着きを取り戻していたけれど、今度は嗚咽が部屋の中に響いていた。
どうしたらいいのかが分からない。いくら考えても正しい答えが見つからなかった。もしかしたらはじめからそんなものは存在しないのかもしれない。
巧さんの言葉は純粋に嬉しかった。それだけは確かだった。
どうして今なの? 今じゃなければわたしは逃げ出したりなどしなかった。きっと自分の想いを伝えていただろう。今じゃ、なければ。
どうして師匠はわたしに残酷な事実を伝えたのだろうか。知らなければ、そうだと自覚しなければ、ほんの少しのあいだだけでも幸福な時間の中にいられたかもしれないのに。
「運命はいつも向こうからやってくる」
師匠の声がよみがえった。
運命? これが運命だというの?
否定しようとして気がついた。巧さんと出会ったことを運命だといったのは他ならないわたし自身だ。そして、彼もまたそれを運命だと知っているのだろう。
「なんでっ!」
叫んだ。この感情をどう吐き出せばいいのかさえ分からない。苦しさにもだえて泣くしか出来なかった。
「……どうしてみんな、わたしだけを置いていくの?」
決して答えが返ってくるはずのない問いだった。伏せたままのフォトフレームは黙り込んだままなにも言ってはくれなかった。