予感
「渡したいものがあるから来い」と師匠に呼び出されたのは給料を受け取りに行った数日後のことだった。
寿子さんを失った大庭家はしんと静まり返っていた。師匠の出すお茶はやけに濃くて苦い。熱い緑茶をすすりながら明らかに何かが欠けてしまった茶の間を見渡した。一人いないだけでこんなに雰囲気が変わるのだろうかと驚いてしまう。家事は全て寿子さんに任せていたようなので、さぞかし生活が困窮しているだろうと思い問いかける。
「不便をしていませんか?」
「大して苦じゃないさ」
しかめっ面で言い放つ。どうやら死神業に関してだけ優秀なのではなく、なんでもそつなくこなすことが出来るのだろう。苦労せずに一人で生きていくことも可能なのかもしれない。
「ひとつ言うなら、息子が家を売れとうるさいことぐらいだな」
「家を売る?」
「同居しないか、だと」
「売っちゃうんですか?」
「売るわけないだろう。俺はまだこの家を手放す気はない。ここにはいろんなものが詰まりすぎていて簡単には手放せない」
最期の方は呟くような声だった。
「すまなかったな」
唐突に師匠が言った。
「利用するような真似をして悪かった」
「加藤さんから聞きました。気にしないでください。わたしは、寿子さんに会えてよかったと思っていますから」
笑顔を向けると師匠はわずかに表情を和らげた。
「あいつも喜ぶだろう」
そういってコタツの脇に置かれた紙袋を差し出した。
「形見分けだ。といってもこんなものしかやれないが」
紙袋の中には毛糸と何本もの針が入っていた。中には編みかけのものまである。
「わたしなんかに、良いんですか?」
得意としていたものを他人に譲ってしまっていいのだろうか。
「俺が大事にとっておいても意味がないだろう。使ってくれる人の手に渡るほうがあいつも喜ぶ」
そういって湯飲みに口をつけた。その下にはわたしが作ったコースターがちゃんと置かれている。寿子さんが座っていた場所にもお茶が注がれた状態で湯飲みが置かれていた。こうしてみると三人が揃っているようにも見える。師匠のそんな心遣いが嬉しかった。利用されていたのかもしれないけれど、あの時間の中は本当に幸せだった。それをわたしたちは忘れずにいようとしているのだろう。
「ありがたく頂戴します」
頭を下げると、師匠はうなずいた。
「さて。お給料が入ったので、夕ごはんご馳走します」
そういうと一瞬呆気にとられた師匠が「叔母さんを誘えばいいだろう」と返してきた。
「そんなことしたら、どんな仕事してるのか探られちゃいますよ。ばれるのは嫌でしょう?」
そんなやり取りをして、すっかり腰が重くなった師匠を駅前に連れ出した。
「なにが食べたいですか? 懐は暖かいので今ならドンと来いです!」
「じゃあ鰻だな」
「うなぎ!?」
驚いて振り返るわたしの肩越しに、師匠が鰻屋の看板を指差している。想像していなかった高級食材の名前に戦々恐々していると「冗談だ」と師匠は定食屋の暖簾をくぐった。
「いいんですか? 頑張れば鰻でもいけそうですけど……」
「腹を満たして懐が寒くなったんじゃ元も子もないだろう。それに俺は鰻よりも美味い肉じゃがが食べたいんだ」
きっと寿子さんの手料理が恋しいのだろう。「じゃあわたしも肉じゃがにします」そういって食券を買った。
「本屋に寄ろう」と言い出したのは師匠だった。その提案にどきりとして振り返る。
「いつもの、ですか?」
「せっかくここまで来たんだ。嫌なら俺一人で行くが」
巧さんとは手を繋いだ夜から気恥ずかしくて顔を合わせていなかった。由香に両想いだと言われたらなおさら恥ずかしくて顔を見られない。通学電車の時間をずらしたりとなんとなく避けてしまっていたが、それもそろそろ限界に来ていたようだ。ここで行かなければこの先もずっと避けてしまうような気がしてわたしは胸の前で拳を握った。
「行きます!」
とは言ったもののどんな顔をして会ったらいいのかがわからない。と、そこまで考えて気がついた。
今日シフトに入ってるかどうかなんてわからないじゃん。
意を決したつもりが空振りに終わってしまうのかもと思うとなんだか切ない。「まあいいか」と開き直るしかなかった。
そんなことを思っているうちに経済学コーナーのあるフロアに到着した。
いたらどうしよう、でもいないのも嫌だ。
わがままな感情ばかりがあふれてきて気が変になりそうだ。緊張のあまり鼓動も次第に大きくなっていく。フロア内を下手に歩き回ると鉢合わせしたときにそっけない態度を取りそうだったので、師匠の横に立って興味もない経済書をパラパラとめくった。
「珍しいな。今日はどうした?」
「なにがです?」
そっけなくページをめくっていると、師匠はそんなわたしを見て怪しむように横目で視線を送ってきた。
「いつもの落ち着きのなさはどこへ行った?」
とがめるような言い方にわたしは口を尖らせる。
「その言い方、まるで落ち着きがないほうが正常みたいですよ」
「お前の場合は正常だろうが」
「わたしもたまには、しおらしいときがあるんです」
ページに目を落としたまま膨れていると、師匠は理解できないとでも言うように肩を小さくすくませている。「まあいい」と呟くと、書籍を片手にレジに向かっていく。
「あ、待ってください」
ここで一人にされると非常に心もとないので、持っていた本を平積みの上に戻すと慌てて師匠の後を追った。何食わぬ顔でレジカウンターに並んでいる師匠に近づこうとして足を止める。巧さんがそこにいたのだ。
「お次のお客さま」
心地よい声とともに、師匠が巧さんの前に立った。師匠の顔を見た巧さんは一瞬表情をこわばらせると、視線だけで会釈をする。清算処理をするほんの一瞬の出来事だった。
どうしてそんな顔をするんだろう。
小さな疑問が頭をかすめた瞬間。
どくんっ。
心臓が大きく脈打った。おつりを返そうと顔を上げた巧さんを一瞬目が合う。彼の目がぎこちなく笑う。
それを見て言い知れない違和感が生まれた。
なんだろう、これ。
清算を終えた師匠が神妙な面持ちで戻ってくる。それを横目で見ながら巧さんに視線を向けると、今度はにっこりと笑って軽くうなずいた。
「彼がお前の言っていた店員か?」
「え?」
「以前に素敵な店員がいたと言っていただろう」
わたしの前に立った師匠が硬い表情をしている。それを無視するようにわたしは明るく言った。
「そうですよ。素敵な方なんですよ」
なんだろう。違和感がだんだん大きくなっていく。