詮索とお給料
「でさ。実際のところ真理は授業サボってなにしてたのよ」
購買のコロッケパンを噛みしめていると、早苗が唐突に聞いてきた。人がせっかく頑張ってふさごうとしている傷をわざわざスプーンで掘り返そうとしてくる。
なにを勘違いしているのか、目の前に並ぶ三人は楽しそうに笑っている。本当に、なにを勘違いしているのか!
心を落ち着かせてコロッケパンをゆっくりと噛みしめる。食べることに集中していれば悲しくはならないはずだ。頭の中をコロッケ一色に染める努力をする。
「うわー。おすまし顔ですよ。『子供には関係ありません』って顔ですよ。どうしましょう、由香先生」
「そうね。大人の階段をひとつ上ったっていうなら、まずはこの由香先生に話すべきじゃないかしら?」
コロッケパンに集中していると、おかしな寸劇が始まる。
「せんせー! 大人の階段ってなんですか?」
幸がわざとらしく手を挙げる。
「子供はまだ知らなくていいのよ」
由香のどや顔にイラッとするが、ここは我慢。こいつらはこうやってわたしを籠絡させようとするのだ。その手には乗るものか。
わたしは必死に口の中のコロッケパンに集中する。
最後の一口を飲み込んでから、大きく息をついて口を開いた。
「だから病欠だって。何度言えば分かってもらえる?」
「走って出て行ったじゃん」
と、幸。全く、何度同じやりとりをすれば気が済むのだろう。
「ああ! もう、まどろっこしい!」
いう気のないわたしに由香が声を荒げる。
「例の彼とはどうなってんのよ? 報告しろって言ったでしょ!」
「報告の義務はありません」
揚げ足を取ると、今にも怒り出しそうな由香が机を叩いた。それに習って幸と早苗も机を叩きだす。
「うるさいよ」
次第に騒がしくなる教室内では、ため息しか出ない。
「わかった。わかった」
三人を落ち着かせようと手を上げると幸が「よし来た!」と飛び上がった。
「手を握られたよ」
そう言うと声にならない悲鳴が上がった。
「マジか!」
色めきだつ幸と早苗をよそに、由香は納得できないという表情を浮かべている。
「なにその顔」
「あり得ない!」
「なにが?」
「大体、付き合ってるのに手を握ったとか普通じゃん!」
由香の言葉にわたしの思考が一瞬止まった。
「……いや、待て待て。付き合ってるわけじゃないからね」
「はあ?」
ますます由香の顔が険しくなっていく。
「付き合ってないで図書館でいちゃついてんの? おかしくない、それ?」
「え?」
「自覚してないだけ? あんたたちは確実に両思いでしょ」
さらりと言い放つ。
「ちょ……待って。思考が追いつかない」
「だから! あのメガネは真理のこと好きでしょって、言ってんの!」
う、そ……。
固まるわたしをよそに、幸と早苗が騒ぎ立てる。
「あんた、ほんとーにバカ! 絶対に玉砕なんてしないから告ってみな」
え? え? 巧さんがわたしを好き? あり得なくない? 巧さんは優しいからわたしを慰めてくれただけで……。え?
考えれば考えるほど混乱していくわたしの肩を由香が叩く。
「あたしの目に狂いはない!」
自信満々に胸を張る由香に戸惑うばかりだった。
十二月分の給料の精算が完了としたと加藤さんから連絡が入ったのはその日の夕方だった。浮き足立つようなどこか現実感のない感覚のまま合同庁舎へ向かうと、特別健康福祉課は珍しく雑然としていた。
「年度末が近いから書類の整理をしていたの。直前になって慌てるのも嫌じゃない」
そう言う加藤さんは晴れ晴れとした顔でにこりと笑った。クリスマス以来、吹っ切れた顔をしている。おそらくずっと引っかかっていた父親のことが晴れたからなのかもしれない。つられるようにわたしもにこりと笑みを返す。
「わざわざ来てもらってごめんね。本当は口座振込みにしたいんだけど試用期間のうちは出来ないの。ここにサインか印鑑をちょうだい」
教えられた場所に受領サインを書き込むと、わたしは顔を上げた。
「師匠は、最近来ましたか?」
その問いかけに加藤さんは首を振った。
「いいえ。奥様を看取った際の手続きや報告書は全部郵送だったのよ。お身内を亡くされたら他の手続きもあるし……。真理ちゃんも会っていないの?」
「はい。連絡も何もなくて……。一度訪ねたんですけど、取り込み中だったみたいで……」
取り込み中。ようは声をかけられない状態だったということだ。
寿子さんの葬儀から数日経ったころ、師匠の様子が気になって様子を見に行ったことがあった。
あまりにも静か過ぎる家の前で呼び鈴を鳴らす勇気がなかったわたしは、玄関から庭を横切ってそっと家の中をのぞいた。
そこで見たのは、仏壇の前でうなだれる師匠だった。肩が大きく揺れて顔を手で覆っている。泣いているのだとすぐにわかった。閉ざされた窓の隙間から震える声が聞こえた。
「今まで、ありがとう」
それを聞いてわたしも一緒になって泣いていた。
寿子さんが倒れてからずっと死神として振舞っていた師匠は、ようやくただの大庭与一郎に戻れたのかもしれない。そう思うと苦しくて仕方がなかった。
大切な人の死を受け入れて、一人で残されることの辛さを思い出すだけで胸がズキズキと痛む。死神でいるということは、あんな思いを繰り返して生きていかないといけないのか。
結局わたしは師匠に声をかけられずにそのまま立ち去った。それ以来何日も経つというのに一度も師匠の姿を見ていない。
「ずっと連れ添った奥様を看取るのは辛かったでしょうね。それより、真理ちゃんは大丈夫なの?」
「え?」
あまりにも唐突な問いかけで、なにを聞かれているのかわからなかった。
「大場さんがね、電話口で言っていたのよ。真理ちゃんを利用するようなことをしてしまったって」
そう言われて師匠が「巻き込んで悪かった」といっていた意味がようやくわかった。師匠は最後に寿子さんの望みを叶えようとしていたのだ。最期の日々を少しでも幸せな記憶で彩ろうとしていたのだろう。だからクリスマスもお正月も大庭家に入り浸っても何も文句を言わなかったのだ。
「わたしは大丈夫です。確かに辛かったけど、それ以上に教わったこともあったと思うので。たとえ利用されていたんだとしても、わたしも楽しんでいたので文句は言えません」
「そう」加藤さんはうなずいて視線を落とした。
「真理ちゃん。死神をこのまま続けていくつもりでいるの? きっとこの先もこんなことがたくさん起こるわ。辛くて苦しいだけならいつか晴れるときが来るけれど、全部が自分にのしかかってくるのよ」
「そんなこと言わないでください。せっかくのお給料日だっていうのに」
暗くなりそうなので無理に笑顔を作った。辛いのは十分承知している。でも、その全てを誰とも分かち合うこともなく一人で抱えていかなければならないのはあまりにも苦しすぎる。だからといって拒否することが最善の道ではないような気がしていた。結局、わたしはまだ答えを決められないでいるのだ。
ふと、気になったことが口をついて出た。
「前の人……。もしかしてわたしの前に師匠の見習いをしていた人も、自分で……?」
ずっと忘れていたけれど、確か師匠は「散々だった」と言っていた。それはもしかして加藤さんの父親のように自ら死を選んだということなのだろうか。
すると加藤さんは首を振った。
「いいえ。ちゃんと生きているわよ。まだ、と言うべきなのかもしれないけれど……」
「まだ?」。
問い返すと加藤さんは苦笑した。
「もう真理ちゃんには隠す必要はないものね」
そう言うと悲しそうにペンダントに触れた。
「その子の場合は少し特殊だったの。本来、死神は自分の終わりは見えないのだけれど、その子は違った。自分の終わりが見えていたのよ。それも、死神になるずっと以前から」
「自分の終わりが見える?」
「ええ。その子は年の割りに妙に達観していたのよ。大庭さんが連れてきたときも、初めて人を看取ったときも。真理ちゃんのように感情をまっすぐに表すような子じゃなかった。でも、だからこそ、死神としての才能を大庭さんは買っていたのよ」
「でも、自分の終わりが見えたって、ずっと先のことだったら……」
わたしが言い終える前に、加藤さんは首を振った。
「いいえ。先のことじゃなかったの。それを大庭さんはわかった上でその子を死神にしたようなのよ。でもあるとき、その子が言ったのよ。自分はもう長くはないと。だからこれからは自分の人生を生きると。そういって辞めたの」
「師匠が教えたってわけじゃ……?」
「違うわ。大庭さんは決して本人に宣告したりしない。いつもただ見守るだけだもの」
「じゃあ本当に自分の終わりが見えていたってこと、ですか? そんなことって」
「ごく稀にあるそうなのよ。死神でなくても、なんとなく自分がいつ死ぬのかわかっている人が。その子もそんな人間の一人だったみたい」
「師匠はその人を看取るつもりでいるんでしょうか?」
「恐らくは……。でもまだ申請は出されていないわ。それが私にとっては唯一の救い」
「なぜです?」
「本当にいい子だったから。まだどこかで生きていてくれているんだって、そう思えるでしょ」
加藤さんが悲しそうな笑みを向けた。
関わった人がどこかで生きていて欲しいと思うのは当然のことだ。こんな仕事をしていればなおさらそう思うに違いない。