夢とデート
初夏の花畑。
シロツメクサが一面に咲く中で、欲張ったわたしは両手に紙パックのジュースを持っている。ひとつはいちごミルクで、もうひとつはオレンジジュース。どちらが自分のものだったのかは覚えていない。ひとつだけ確かなことは、どちから片方はお母さんのジュースだということ。
燦々と照りつける太陽が、息吹いたばかりの若い木の葉の上でキラキラと踊っている。わたしははじめて見るその景色にすっかり上機嫌になって一生懸命に手足を振った。隣にいるお母さんも、わたしがジュースを横取りしたというのに朗らかに笑っている。
小さな帽子にピンク色のズボン。おもちゃのようなズックを履く足はまだ短くてずんぐりとしている。
お父さんはいつもカメラを構えて写真を撮っている。どこへ行くにもカメラを携えていたはずなのに、手元に残っている写真はごくわずかしかなかった。
歩き出したばかりの小さなわたしを、両親はいつも嬉しそうに眺めていた。
ふと、小さな蝶が視界の中に入ってくる。わたしは危うい足取りでふわふわと舞う白い蝶を追いかけた。けれどその蝶は決して捕まえることは出来ない。わたしはそれを知っていた。
頭上でふわふわと舞っているから捕まえられそうな気がしていつも手を伸ばす。「遠くへ行かないで」と声をかける両親を背中に、誘われるように夢中で追いかけた。
きっと、それが目的なのだろう。わたしを誘い出すために蝶はそんなところを飛んでいるに違いない。
ふつりとお母さんの声が聞こえなくなったのに気づいて、わたしは振り返る。
そこには誰もいない。
一面に咲くシロツメクサと大きなケヤキの木。その下に敷かれたレジャーシートには、欲張って両手に持っていたジュースが二パック残されている。それと、まだ新しいカメラ。それだけだった。それ以外は何もなかった。つい先ほどまでそこにいたはずの両親はどこにもいなかった。まるではじめからこの世界にいなかったかのように。
「かくれんぼ?」幼いわたしが言った。
転びそうな足取りで木の裏を覗くけれど、誰もいない。
小さなわたしはどんどん不安になってくる。当たり前のようにそこにいてくれた存在がないことに。
不意に、わたしは幼い自分を見下ろしていることに気がつく。子供のわたしは大きな瞳に涙をいっぱいにためて泣き出していた。
「おかあさあん。おとうさあん」泣いて叫べばすぐに着てくれると信じて何度も呼んだ。
『呼んでも来ないよ』
わたしは幼い自分に語りかけるけれど、その声は彼女には届かない。わたしたちの声は、誰にも届かないのだ。
あまりにも盛大に泣くものだから、わたしもだんだんと悲しくなってきて一緒に声を上げて泣いた。
『欲張りだったのがいけなかったの?』
どこかに消えてしまったお母さんに問いかけてみるけれど、返事が返って来ることはない。
わたしはこの世界に一人ぼっちで取り残されてしまったのだ。
初夏の太陽だけが、全てを知っているかのように遠い空の上で輝いている。
見慣れた天井が視界に広がる。カーテンからこぼれてくる光は鋭く射し込んでいる。
「あー……」
誰もいない部屋の中に声が響く。
夢だ。
荒く息をついて目を覆う。体がぐったりと重い。
夢だ。幸せで残酷な夢。
目じりから涙が一筋流れた。何度も見てきた夢だというのに、慣れることなく心はどんよりとした闇に支配される。
「最近はずっと見てなかったのに……」
目を閉じようとすると幼い自分がまだそこにいるような気がして、慌てて体を起こした。けれど自然と視線が向かうのは机の上の伏せたままのフォトフレームだ。あの花畑が収まる写真だった。
最後に見たのはいつだろう。
大切なものなのに直視するのが怖くて、長い間目を背けたままだ。フォトフレームを起こそうと手を伸ばしかけたとことでスマホがけたたましく鳴った。アラームだ。
学校は休みなのに、アラームをかけるなんて……。
不思議に思って自分で設定したはずのアラームを消そうとしたところで気がつく。
「映画だ!」
巧さんに誘われた映画の試写会があるのだ。大切なことを忘れていた自分にげんこつを食らわせて慌てて身支度を整えた。
試写会は駅前商店街の中にある小さな劇場で行われるということだった。近くにシネコンが出来たおかげで客足がすっかり少なくなったというアート系のミニシアターだ。地元出身の監督によって制作された映画は地元企業も出資しているということで、巧さんがバイトをしている書店にも試写会のチケットが回ってきたらしい。なんでも数十年前に作られた映画のリメイク版ということだ。けれど、張り出されたポスターを見て巧さんが微妙な表情を浮かべていた。
「入らないんですか?」
声をかけると「いや……。大丈夫?」と、心配そうにわたしを振り返る。
『さよなら、あなた』
と大きく書かれたポスターは悲しげな色調をしている。きっと、寿子さんが亡くなってから沈みがちなわたしを気遣っているのだろう。
「大丈夫です」と、にこやかに返す。
「せっかく巧さんが手に入れてくれたチケットを無駄には出来ません」
きっぱりと言って、わたしたちは劇場の中に入った。
映画の内容は大丈夫かといわれると、正直大丈夫ではない内容だった。中学生同士の恋愛をファンタジックにコメディーも交えて綴られていくのだけれど、ヒロインが大病を患っているというところがすでに危ない設定だ。
撮影も地元で行われていたこともあって最初のうちは感激するような想いで見ていたけれど、エンディングに向かってどんどん切ないストーリーになっていった。
『お前代わりに死んだっていい』
そう言う主人公の少年に否が応でも感情移入してしまう。
結局、ヒロインは亡くなり、残された主人公はヒロインへの想いを胸に生きていくという悲しい内容だった。
「ごめん!」
上映が終わるなり、巧さんはそう言った。
「大丈夫です」とは言いつつも、ハンカチで顔を隠したまま面を上げられなかった。喪失感に襲われて涙が止まらないのだ。まるで師匠と寿子さんを見ているような気がして余計に感情移入してしまった。師匠もあんな気持ちだったのかもしれないと思うと、涙があふれた。
わたしが落ち着くのを待って劇場を出ると、外はすっかり暗くなっていた。
鼻をぐずぐずと言わせながらいまだにハンカチを握りしめているわたしは、隣を歩く巧さんに顔を見られないようにうつむいている。泣きすぎたせいでまぶたが重い。きっと腫れているに違いない。そう思うととてもじゃないけれど顔を向けられなかった。
ああ、せっかく二人で出かけたのに。こんなんじゃ二度と誘われない。
わたしの態度がどれだけ巧さんを気まずくさせているのかと思うと、自分で落ち込むくらいだ。
とぼとぼと肩を落として歩いていると、不意に手を引かれた。驚いて顔を上げる。そっぽを向く巧さんの横顔があった。
「今は俺がいるから……。だから、そんなに泣かないで」
慰めようとしているんだ。そう思ってわたしは重なった手にすがるように握りしめた。大きくて温かな手のひらはわたしに安心感をくれた。だから、街灯の明かりに照らされた彼の顔が赤く見えたのは気のせいかもしれない。




