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君がここにいるうちに  作者: ましの
朝にとける、ゆき
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林の奥の『彼女』

 境内の奥。林の中に隠れるようにして『彼女』は居る。だがこの暗がりの中でそこにたどり着くのは一苦労だ。

 暗闇に沈む林の中を木の根に躓きながら進む。師匠の注意も空しくすでに二回転んだ。早朝ランニングのせいで足はガタガタだ。

「うぎゃあ」

 霜が降りて凍った地面に顔面を打ち付ける。たまらずに悲鳴を上げた。決して高いはといえない鼻が更に低くなったんじゃないかと思うほどの痛みが走った。どうやら今日は厄日らしい。

 よろよろと体を起こしながら血が出ていないかと鼻をさすった。なんとか無事なようだったが低くなっていないとは言い難い。

 顔をしかめながら慎重に進んでいくと、唐突に師匠の気配が静かになった。目を凝らすと師匠は木の根に腰を下ろして、根本に丸まる塊をゆっくりと撫でている。

 わたしは『彼女』を刺激しないように足音をひそめて近づくと、師匠に習って静かに腰を下ろした。

 暗がりのせいで黒っぽく見える布をそっと覗き込む。

「待たせてごめんね、ユキちゃん」

 声をひそめて『彼女』に問いかけた。わたしの声に反応して布がごそごそとうごめく。

「にゃあ」という鳴き声とともに姿を現したのは真っ白な猫だ。

「全くだな」

 師匠が呟いたが聞こえない振りをして猫の頭をふわりとひと撫でする。温かいふかふかの毛並みに思わずにんまりと頬を緩めてしまう。真っ白な色が暗闇の中でわずかな光を吸収してほのかに光を放っているようだ。

 ひとしきりユキを撫で回してから、わたしは持ってきたキャットフードの蓋を開けた。「早くしろ」とでも言いたげに師匠が咳払いをするからだ。

 ご飯の気配を察知したユキは、先ほどから人懐こい声を上げている。

「はいはい。今あげるからね」

 今にも腕の中に飛び込んできそうなユキを制して、キャットフードを缶ごと地面に置いた。すかさず飛びつく真っ白な猫を見て、思わず「かわいいねえ」と呟く。だが、それを聞いた師匠は厳しい声で「情を移すなよ」と言い放った。その後に続く沈黙に言い知れぬ圧力を感じる。けれどその圧力に反するようにわたしは顔を上げた。

「無理です。情は移そうと思って移るものじゃないですよね。いつの間にか移っちゃうものなんですよ。それが自然なことなんです。わたしよりもずっと長生きしているのにそんなこともわからないんですか?」

 一気にまくし立ててハッとした。

 マズイ。「情を移すな」と散々聞かされた言葉についに反論してしまった。表情がはっきりと見えないことをいいことについ調子に乗ってしまった。

 またどやされるのかとビクつきながら師匠の言葉を待ったが、それはやってこなかった。

 ため息交じりの沈黙の後に「お前のために言っているんだぞ」と一際低い声で言って押し黙った。

 だが、そんなことを言う師匠の手は食事に夢中になっているユキの体をゆるゆると撫でている。暗くて見えないとでも思っているんだろうか。日の出が迫って白んできた空のおかげで、師匠の手元ははっきりと見て取れる。わたしは膝を抱えて「自分だって同じじゃん」と小さくふてくされた。その声は師匠には届かなかったのか、それとも聞こえない振りをしているのか、相変わらずユキを撫でていた。

 ユキが食事を終える頃には太陽が山際から顔を出していた。

 時間は大体六時半ごろだろう。

 この餌やりのおかげで日の出の時間がわかるようなった。デジタル時計で生きる現代人にとってはあまり必要なスキルではないけれど。

 朝日が林の闇を吹き飛ばして鋭く差し込んでくる。眩しいとわかっていても思わず手のひらをかざしながら顔を上げた。案の定、殺人的な日差しが目を直撃して眼底がチクチクと痛む。

 チカチカする視界のままユキを見下ろせば、再び布の中に潜っていた。

 黒っぽく見えていた布はチョコレート色の大きなバスタオルだ。二日前に寒くないようにとユキのために買ってきたものだった。そんなわたしの行為は、師匠に言わせれば「情が移った」からだという。

 しかし、ユキはバスタオルを気に入ってくれたらしく、すでにクタクタになったそれを見てわたしは満足だった。けれど、そんな充実感が増せば増すほど胸の奥が痛んだ。

「仕方のないことだ」とはじめに師匠に言われたけれど、どうしても納得し切れなかった。どうにか助けて上げることが出来るんじゃないかと思ってしまう。

 ぼんやりとユキを見つめるわたしが何を考えているのか師匠にはお見通しなんだろう。けれど何を言っても無駄だと思ったようで、咳払いをして立ち上がった。

「そろそろ還るぞ」

「はーい」

 師匠の言葉にわたしは気のない返事をする。

「またね、ユキちゃん」

 ぽんぽんとバスタオルを軽くたたくと、ユキが一度だけ鳴いた。

 林を抜けて長い石段を師匠の後に続いていく。

 師匠は御年七五という年齢のわりに背筋をピンと伸ばしていて貫禄がある。こんな関係じゃなければ小粋な老紳士に見えただろうに。

 身にまとった黒いコートは着古しているようにも見えるが、手入れが行き届いているのか埃ひとつついていない。そのコートを自分で手入れをしているのか、それとも別の誰かがやっているのかわたしはまだ知らない。

 師匠という人物は、未だ謎だらけだ。

「お疲れさまでした」

 神社の入り口で声をかけると、答えるように師匠は軽く手を上げてそのまま住宅街の中に消えた。


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