静かな夜に
時計の針がカチカチと時を刻む。宣告をするようなその音を頭の中から追い払う。
ひんやりと冷たい空気が足元から這い上がってくる。暖まる気配のない部屋の中に一人きり。こんなに強く孤独を感じるのは久しぶりのような気がした。ほんの数ヶ月前までは当たり前のことだったのに。
師匠に出会ったことで、わたしの生活は変わってきていたんだろう。誰かに寄り添うことを知って、誰かがそばにいてくれることの温かさを知った。例えそのぬくもりが消えてしまうものだとしても……。
わたしを温かく迎えてくれたぬくもりを、失おうとしている。
きっとこの先、たくさんの出会いがあってたくさんの別れがある。その多くは永遠の別れになるのだろう。失ってしまう悲しみを数えるより、出会うことで生まれた笑顔の数を数えていたい。
だから、わたしに出来る精一杯のことをやろうと決めたのだ。
いつか、わたしにも終わりの時が来るだろう。そのときにこの世界に笑顔でさよならを言えるように。後悔しないように。
きっと、正しい答えはわたしには見つけられない。それは神様だけが知っていることだから。それでも良い。間違っているかもしれないけれど、わたしは自分の信じる道を進むしかないんだ。
毛糸の玉がどんどん小さくなっていく。それに比例して机の上のコースターは増えていった。色を変えていくつも同じものを編み続けた。
病室は相変わらず煌々と明かりが点いていた。そのせいでどこか現実感がない。……違う。その逆だ。全てを照らし出してこれが現実なんだと見せつけている。
静かにドアを閉めると師匠がぴくりと肩を震わせた。あのときとまったく同じ服のままで。
「帰っていないんですか?」
背中に問いかけても答えは返ってこない。
言いたいことは分かっている。「お前に出来ることはなにもない」でしょ?
わたしは黙ってベッドの脇に立った。けれど師匠は表情のない顔で一点を見つめるだけだった。じっとなにかを待っているのだろう。
わたしはその光景を脳裏に焼き付けようと、見つめた。覚えていないといけないような気がしたから。
「お前に初めて会ったとき」
突然、しわがれた声が話し出した。張りのない声はわたしの記憶している師匠のものとは全くの別人のように聞こえた。
「俺は、お前の最期を看取ることになるとすぐに分かった。あのときのことは今でも忘れられない。淡い萌葱の振り袖を着たお前は、眩しいくらいにきれいだった」
ハッとして師匠を見た。その話は知っている。
淡々と語り出す昔話は、寿子さんに聞かせているのだろう。
「臆病だった俺がいつか来るときのことを恐れて見合いを断ったというのに、お前はわざわざ俺のところにやって来てどうして見合いを断ったのかと聞いてきた。顔を真っ赤にしたお前を見たとき、俺がどんな気持ちだったか分かるか? 嬉しいのと、苦しいのと、いろんなものが一緒になって俺の中で戦っているんだ。あんな想いは後にも先にもあれっきりだった」
言葉を切って大きく息をつく。かすかに肩が震えていた。
「お前はいつだって俺よりも強かった。死神だと言ったときも、お前は信じようとはしなかったな。それにどれだけ救われたことか。お前は知らないだろう?」
師匠が寿子さんの手をそっと取って、愛おしそうに撫でた。その様子に思わず涙があふれる。まつげをなぞるようにぽたりと滴が落ちる。
「ずっとな、ずっと、願っていたんだよ。このときか来なければ良いと。だが、とうとう来てしまった。運命はいつでも向こうからやって来ては、勝手に去って行く。俺を置いて」
流れる涙をそのままにして、わたしはじっと二人を見つめた。
「寿子。お前と一緒になって良かった。最期まで俺がしっかり看てやれる」
「真理」
師匠がゆっくりと振り向いた。
「お前には辛い思いをさせたな。寿子には最期まで笑っていて欲しかったんだ。巻き込んで悪かったな」
その言葉に、わたしは首を振る。
「そんなこと言わないでください」
しゃくり上げるように声を上げた。
「わたしも、楽しかったから。寿子さんに会えて、本当に良かったと思ってますから。だから……」
絶対に忘れません。
そう続けるつもりだった。
けれど、突然病室のドアが開いた。
「お袋!」
その声と一緒に中年の男性が駆け込んでくる。わたしは突然のことに後ずさりながらそっと部屋を出た。一度だけ振り返ると、師匠がなにかを探すように視線を漂わせているのが見えた。