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君がここにいるうちに  作者: ましの
糸が紡ぐ想い
27/40

迷いと決意

 どこをどうやって歩いてきたのかよく覚えていない。何度か流れていく人に肩をぶつけながら、気がつくと駅前の書店にいた。通い慣れた経済学コーナーは相変わらず人がまばらだ。静かに流れるBGMと緩やかな人の気配が、現実に戻ってきたことを教えてくれる。まるで今まで悪い夢でも見ていたのではないかと思うほど、感覚が曖昧だった。けれど、耳の奥で聞こえる鼓動は相変わらずうるさく響いている。その事実に打ちのめされて、きつく胸を押さえながら顔をしかめた。

 泣きたくはなかった。それは突きつけられたものが事実だと認めることになるから。どうしても涙だけは流すわけにはいかなかった。

 自分が、運命に抗おうとしているのではないかと思った。近い未来にやってくる現実をどうしても受け入れられないでいるのだから仕方が無い。

 死神が死を拒絶しようとしているなんて……。けれど、わたしが死神であるのもまた運命なのだろうか。

 ほんの数日前までは寿子さんは優しく微笑んでいて、わたしもその笑顔の横で笑っていたというのに……。あの時間があまりにも遠い過去のように思えた。もう手には届かない、掴むことの出来ない遠い過去。

 わたしは経済書のタイトルを目を凝らして見つめた。読みたいわけではないしなにかを探しているわけではないけれど、そうやって気を紛らわしていないと不意を突いて視界がぼやけてくるから。

「真理ちゃん?」

 聞き慣れた声がわたしを呼んだ。そして気がつく。

 そうだ、わたしはこの声を待っていた。だからここへ来たんだ。

 振り向いたわたしのしかめっ面を見て、巧さんは驚いているようだった。

「大丈夫?」

 慌てて近づいてくる彼を見上げてうなずくが、それが強がりだと言うことを彼は気付いていた。

「どうしたの?」

 落ち着かそうとそっと背中に回された手に安らぎを覚える。

 瞬間、気が緩んだせいで視界が曇った。慌てて袖で目元を拭う。

「ごめんなさい、わたしっ」

 震える声に驚いて息を止める。

 だめだ、こんなんじゃ……。

 くるりと彼に背を向けて立ち去ろうとするわたしの腕が掴まれる。

「少しだけ待っていられる? もうすぐ上がりなんだ。いいね?」

 語尾を強めて言うと、巧さんは足早にカウンターの中に消えた。


 コーヒーの香りは思いのほか気分を落ち着かせてくれた。熱い液体がゆっくりと喉を滑り落ちていく。

「落ち着いた?」

 柔らかな声にわたしはようやく顔を上げる。

「ありがとうございます」

 向かい合って座った巧さんは優しい笑顔を向けてくれる。この人はいつだって優しい。

「急にごめんなさい。どうしても巧さんの顔を見たくて……」

 ああ、わたしはなにを言っているんだろう。まるで好きだと言っているようなものじゃないか。

「謝らないで。こうやってコーヒーを飲めるなら大歓迎だから」

 小さく笑って彼はカップに口を付ける。そうやって気を使ってくれるところが嬉しい。

「なにか、あったの?」

 しばらくして、巧さんが静かに聞いた。真摯な眼差しがメガネ越しにわたしを見つめる。

 わたしはその視線に耐えられずに再びうなずく。脳裏には病室の光景が焼き付いてた。

「どうしたらいいのか、分からなくて」

 ぽつりぽつりと話すわたしの言葉を遮ることなく、巧さんは黙って聞いてくれた。途中、何度も涙があふれそうになってくるのを必死で堪えてテーブルの下で拳をきつく握った。その度に「焦らなくていいよ」と優しく言葉をかけてくれる。けれど、心は言うことを聞いてはくれなかった。臨界点を超えてあふれてきた涙が頬を伝って拳の上に落ちた。慌てて拭うも、それは止めどなくあふれ出てきてただ袖を濡らすだけだった。その涙がこれからやってくる事実を肯定しているようで、余計に悲しかった。わたしは結局、運命を受け入れるしかないのだろうか。

「辛かったね」

 涙と一緒に苦しい思いをはき出し終えると、巧さんはわたしの頭をそっと撫でた。

「でも、どんなに苦しくてもちゃんと向き合わないと、きっと後悔するよ。時間が限られているなら、尚更だ」

 その言葉に、わたしの肩が震えた。

「ごめん。時間が限られてるなんて、言っちゃいけないんだろうけど……。後悔したくないなら、向き合わないとダメなんだ」

 その言葉はまるで自分に言い聞かせるようにも聞こえた。

 涙に濡れた頬を拭って視線を上げると、真剣な眼差しがわたし射貫く。

「出来ることをやるんじゃない。きっと出来ることなんていくらもないから。だから、自分がやりたいと思うことをやればいいんだよ。そういう選択肢だってあるんだ。何かしなきゃいられない気持ちはよくわかるよ。俺もそうだったから。たとえ可能性がゼロでも足掻きたくなるのが人間なんだ。だから、決して絶望しちゃいけない。誰かに決められた枠にはまっちゃダメだ。君は君なんだから」

 そう言って表情を和らげる。

「そんなんで良いんですか?」

「良いんだよ、それで」

 惑うわたしに巧さんは確信を持って言う。

「誰かのために来出ることなんていくら探したって見つからないよ。自分がしてあげたいと思うことをやらないと、後悔するのはいつだって自分なんだ」

 その言葉がことりと音を立てて胸の中に落ちた。目の前に横たわっていた真っ暗な道に一筋の光が差し込んでいる。

 その光を見るようにわたしはそっと目を閉じた。鼓動の中に埋もれるようにして確かに存在していたそれは、小さく丸まるようにして姿を隠している。今までたくさんのものに阻まれて見えなかったけれど、ようやく自らの中心で光を放っていたそれに気付くことが出来た。それはきっと運命に抗いながらもそれを受け入れようとする自分の心なんだろう。

 目を開けると、少しだけ視界の広くなった世界が広がっていた。その中心で巧さんは優しく微笑んでいる。

「ありがとうございます。どうしたいのか、少しだけ分かった気がします」


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