穏やかな午後の昔話
クリスマス以降、わたしは師匠とそこそこ良い関係を保っていた。と思っているのはわたしの方だけで師匠にそんなつもりはないかもしれないが。とにかく、わたしたちの間に横たわっていたわだかまりは時計台によってすっかり取り払われていた。
そんなわけでお正月休みは連日のように大庭家に入り浸っている。寿子さんがぜひにと誘うから無下にも出来ないし、それよりもコタツという暖房アイテムにすっかり囚われてしまったのだから仕方がない。最初のうちは誘われるがままおせち料理をつついていたけれど、今では率先して用意を手伝うまでになっていた。
図々しいのはわかっているけれど、寿子さんのいるこの暖かな家からどうやっても抜け出せなかった。どこにでもありそうな『家族』という型の中はあまりにも居心地が良かったのだ。
師匠は「叔母さんに新年の挨拶をしにいかなくていいのか」と言うくせに「帰れ」とは一言も言わなかった。師匠ですら少なからず心地いいと感じているのではないかと勘ぐってしまう。
コタツに入って持参した雑誌をめくりながら、緩やかに進む時間を堪能しているときだった。
「真理ちゃん、編み物してみない?」
毛糸の入った箱を持ってきて寿子さんが聞いた。
寿子さんが時折毛糸を編んでいたのを興味深く見ていたせいだろう。いっぽんの毛糸があっという間に編みあがってしまうのが見ていて飽きなかったからだ。
けれど、
「わたしに出来ますかね?」
決して器用だとは思えない自分の手を見た。
「大丈夫よ。かぎ針編みならすぐに覚えちゃうから」
そういう寿子さんの差し出した針を受け取った。
上手い下手は別として、その作業は没頭するには最適だった。リズムを刻むように針を動かして毛糸を絡め取ると、面白いほどに編み目が折り重なっていく。気がつけば練習用の毛糸がなくなっていた。
わたしは編み上げたばかりのモチーフを解きにかかる。これもまた気持ちがいい。毛糸を引っ張れば編み目がするすると解けていくのだ。
これはストレス解消になるかも。
なんて思いながら、解き終えた毛糸でまた編み始める。
無言のまま黙々と針を動かしていると、不意に寿子さんが口を開いた。
「ねえ、真理ちゃんは死神って本当にいると思う?」
指先に絡めた毛糸をすくい取ろうとして手が止まった。
「え?」
あまりにも唐突に投げかけられた問いにわたしの思考は一時停止した。ゆっくりと視線だけを上げると、寿子さんは慣れた手つきで針を操っている。答えを待っているようには見えない。
気のせいだろうか?
そう思って再び針を動かそうとしたときだった。
「本当に死神なんているのかしら?」
確かにそう言った。
寿子さんは師匠が死神だということを知らないはずだ。それなのにどうしてそんなことを聞くんだろう。
「どうしてそんなことを聞くんですか?」
すると寿子さんはわたしの顔を見て「やっぱり」と笑い出した。編み上げたばかりのモチーフで顔を隠しながらクスクスと笑い続けている。
どうして笑っているのかわからずに、ただ寿子さんを呆然と見つめた。
「昔ね。昔の話よ。あの人が言ったの。『自分は死神だ』ってね。笑っちゃうでしょう?」
「急に思い出しちゃったの」と付け加える。
「師匠がそんなことを?」
ドキッとした。この仕事は他言無用のはずなのに……。師匠は内緒で寿子さんに教えたんだろうか。けれど寿子さんは信じている感じではない。
どういうこと?
頭が軽いパニックを起こしている。
「あの人、昔からちょっと変わっていたから」
「昔っていつのことなんですか?」
平静を装って聞いてみる。
「ずっと昔のことよ。結婚する前の話なのよ」
「結婚する前」その言葉に興味をそそられる。
わたしは壁にかかった柱時計を見上げた。まだ午後二時を回ったばかりだ。師匠は新年の挨拶回りに出かけていて留守だ。夕食もいらないようなことを言っていたから、時間ならたっぷりとある。
「ぜひ聞かせてください」
目を輝かせるわたしを見て、寿子さんは嬉しそうにうなずいた。
「あの人に始めて会ったのはお見合いの席だったの。とっても誠実でしっかりしていて、口数は多いほうじゃないけど、私も両親もすぐにあの人のことを気に入ったのよ。借り物のスーツが体に合わなくてね。ちょっと肩が落ちていたんだけど、すっと伸びた背筋は今でも覚えているの。きっと一目惚れだったのね」
柱時計の時間を刻む音が寿子さんの声に混じって先を急かす。
「そんなにかっこよかったんですか?」
「そうね、格好いいって言うのとはちょっと違うのかもしれないけど。こう、凛として高潔? そうね、たとえるなら手の届かないところに咲く綺麗な花みたいな感じかしら」
「あの師匠がですか? それって、あんまり男の人には使わない表現ですよね」
「ふふ」口元を隠して小さく笑う。その様がどことなく少女のように見えた。
「そうよね。でも本当にそんな感じだったの。料亭のお座敷で私を見上げたあの人は、とっても綺麗な顔をしていたのよ」
そう言われても想像がつかない。確かにはっきりとした目鼻立ちだから若い頃はそれなりに男前だったのかもしれないけど、寿子さんが言うほどとは思えない。一目惚れ効果というやつだろうか。
「そのお見合いで師匠が言ったんですか?」
わたしの言葉に寿子さんが意地悪な笑みを浮かべる。
「まあそう急かさないの」
言われて、持ったままだった毛糸をコタツの上に置いた。
「お見合いは当たり障りのないことを話して終わったの。だってそういうものでしょう? 形式だけというか。それで『良縁ですので、ぜひ』ってお返事をしたのよ。それから何日かして二人でデートをしたの。出来たばかりだった美術館へ行ってね。あの時計台のあった美術館よ。つかず離れず微妙な距離を保ちながら二人で歩いたのよ。それがもどかしくってね。結局私はあの人の後姿を追うので必死だった。美術品なんてひとつも見ていなかったんだもの。笑っちゃうでしょ?」
寿子さんはそこで言葉を切って、冷めかけたお茶を一口飲んだ。
「それでね、美術館のはずれにあった時計台までただ黙々と歩いたのよ。そこであの人はやっと立ち止まったの。鮮やかなステンドグラスを見上げながら、彼は言ったのよ。『今回のことはなかったことにして下さい』って」
「え?」
「私、振られちゃったの。きっとどこで言い出そうかずっと悩んでいたんでしょうね。最後の最後で、あの人はようやくそういったの」
そういうと寿子さんは一旦区切ろうとするかのように、立ち上がった。
「待ってください。それで終わりじゃないですよね?」
わたしは慌てて引き止めた。
寿子さんは新たにお茶を入れなおすと、「もちろん」とうなずいた。
「あの頃は若かったら、どうしても諦めきれなくて待ち伏せしたのよ。働いている場所を知っていたから、帰りに職場から出てくるのと待っていたの。人通りの多い場所で、運よくあの人が出てくるのを見つけて、そのまま後をつけたわ」
「なかなか大胆ですね」
「ほんとよね。でも結局私はあの人の後姿を追いかけるしかないのかと落胆したわ。なんでこんなことをしているんだろうって引き返そうとしたとき、突然あの人が振り返ったのよ。もしかしたら付けられていることに気づいていたのかもしれないけど」
「それでどうしたんですか?」
「私ね、頭の中が真っ白になってしまって言いたいことはたくさんあったのに、『私じゃ駄目なんですか?』って直球で聞いていたわ。きっと今にも泣きそうな顔をして痛んだと思うの。あの人は困った顔でしばらく考え込んでから、静かに言ったのよ。『自分は死神だから、あなたを幸せには出来ません』って。なにを言っているのかわからなかったわ。だって、ちゃんとした職に就いているし、ご両親もご兄弟もいるのに、そんなこと信じられないでしょう? 断るにしても、もう少しまともな理由を考えて欲しいと思わない? だからね、『そんなこと関係ありません』って言ったのよ」
「それで?」
「でも結局、彼は逃げるようにその場を立ち去ったわ。私一人を置いてね」
「それひどい!」
「そうよね。でも、そんなあの人の態度が私に火をつけたのよね。意地でもって思って、何度も挑戦したの。何度そんなことを繰り返したのかしらね。あの人がようやくうなずいてくれたのよ。それからはびっくりするくらい順調で、気づいたらおじいちゃんとおばあちゃんになっていたわ」
「ハッピーエンドってことですよね?」
「今のところはね」
そういって寿子さんはやわらかく微笑んだ。
「そうだ、真理ちゃん。いいことを教えてあげる。編み物が上達するコツよ」
「どうしたらいいんです?」
「想いを込めるの。ほら植物に話しかけると良く育つって言うでしょ? あれと同じよ。使ってくれる人の笑顔を思い浮かべながら編むと上手くいくわ」
「でもそれって重いってやつじゃ……」
「そんなこと気にしなくていいのよ。大切な人ならちゃんと喜んでくれるから」
にっこりと笑みを浮かべる寿子さんの顔を見ていると納得してしまう。それが正しいのだと思わせてくれる説得力のある笑顔だ。
「わたしも嬉しかったです」
クリスマスにもらった白いマフラーはすっかりお気に入りになっている。
「そうでしょ」
そういうと寿子さんはわたしの肘を優しくたたいた。
時間はすでに六時を回っていたらしく、柱時計が鐘を六つ鳴らした。その音を待っていたかのように玄関の引き戸が音を立てる。
「帰ったぞ」
機嫌のよさそうな声が廊下に響く。
「いけないもうこんな時間。真理ちゃん、お夕飯はお雑煮でもいいかしら?」
「手伝います」
わたしが立ち上がると同時に茶の間のふすまが開いて師匠が現れる。その顔をにんまりと見やって、寿子さんを追いかけて台所へ向かった。
「あの人にはさっきの話、内緒よ」
寿子さんがこっそり耳打ちすると、わたしたちは顔を見合わせて小さく笑った。