残酷な真実
学校はすでに冬期休暇に入っていて通学時間帯の駅はいつもより人出が少なかった。駅から出ると、時計台を横目に見ながら県庁へ続く道を進んでいく。周りには登庁する職員しかいない。その中でジーンズにダッフルコートというラフないでたちのわたしは少々浮いていた。チラチラと盗み見られても気にしない。わたしだって県庁に用事があるのだ。
合同庁舎の三階、廊下の突き当たりにある『特別健康福祉課』のプレートに向かい合って大きく息をついた。
触るなといわれた箱に触った上に、無理やりこじ開けようとしているのだ。これまでそれなりにいい関係を築けたと思っていた加藤さんにこっぴどく嫌われるかもしれない。そう考えると尻込みしてしまうけれど、ここで引いたらきっと後悔することになるから。だからわたしは立ち向かうしかない。
意を決してドアを開けた。
加藤さんは出勤したばかりなのか、まだコートを着ている。冷え切った部屋に点けたばかりの暖房がゴウゴウと温風を吐き出していた。
わたしの顔を見ると加藤さんは少し気まずそうに微笑んだ。
「こんにちは、真理ちゃん。こんな早い時間にどうしたの?」
「申請を出しにきました」
加藤さんの問いかけに躊躇することなく答える。
「申請を? 真理ちゃんが自分で申請を出すのは初めてよね。ちょっと待っててね。私も来たばかりだから」
言いながらコートを脱いでパソコンを起動させた。
「対象者の情報はもう把握してるかしら? こっちで詳細を調べることも出来るけど」
「大丈夫です。大体のことは分かっているので」
そういうと加藤さんはプリントアウトされたばかりの申請書を差し出した。
「まず自分の所属地域と氏名を書いてから、対象者の氏名をここに入れてね」
言われるがまま用紙に必要事項を書き入れていく。対象者の氏名まで来ると迷わず『駅前時計台』と書入れた。それを見ていた加藤さんがギョッとして声を上げる。
「真理ちゃん、待って。これはどういうつもり?」
「時計台を看取ると決めました」
「冗談はやめましょう。この話はまだ早いって言ったでしょ?」
柔らかい声音だったが、無理やり作っていることはあからさまだった。怒っているのか動揺しているだけなのかかすかに手が震えている。
「今じゃなきゃだめなんです。二日後には時計台が壊されてしまうんですよ? そうしたら記憶の底に埋もれて、いつか話そうと思っていた話だって忘れちゃうんです」
「忘れるわけないわ!」
わたしの言葉に加藤さんは胸元のペンダントを握り締めながら叫ぶように言った。
「大庭さんはこのことを知っているの?」
「師匠にはまだ言っていません」
すると、加藤さんは固定電話の受話器を取り上げる。
「今日は帰ったほうがいいわ。大庭さんに迎えに来てもらいましょう」
「そうやって逃げるつもりですか?」
わたしは通話を切るように電話のフックを押した。
「逃げてなんかないわ」
「逃げているじゃないですか。事実から目を背けようとしているじゃないですか」
固定電話をはさんで加藤さんと対峙する。一歩も引かないことを知らせるようにまっすぐその瞳を見つめた。
「逃げないでください。わたしはただ、あの人の言葉を遺したいだけです」
「あの人?」
「川柳靖宗さんの」
その名前を出した途端、加藤さんの瞳が揺れた。
「どうして……」
「聞こえてきたんです。時計台で。ありがとうと言っていました」
そういうと、加藤さんは動揺を隠そうとはせずに震える手でペンダントに触れた。
「教えてください。川柳靖宗さんは、師匠が見取ったんですよね?」
確信を持って問いかける私に、加藤さんは力なく首を振った。
「……いいえ、違うわ。川柳靖宗は……、私の父は……、死神だったの」
「父はガラス作家だった。学校を出てすぐにフランスへ留学してステンドグラスを勉強したの。若い頃は寝る間も惜しんで作品を作っていたらしいわ。四十を過ぎて十五歳年下の母と結婚した。私たちが産まれたのは、父が四十六歳の時。年をとってやっと授かった子供だったから、とても可愛がられたの」
ポツリポツリと話す加藤さんの声を追いかける。その途中、引っ掛かりを覚える言葉にわたしは首をかしげた。
「わたしたち?」
そっと問うと、加藤さんは顔を上げてかすかに微笑んだ。
「私には兄がいたの。私と兄は双子だった。クリスマスの朝に産まれたのよ。父は大喜びしたらしいわ。神様から授かった大切な贈り物だって。大切に育てられた。兄が、死ぬまでは……」
そこまで話すと加藤さんは大きく息を吸って、キャビネットに寄りかかった。
「水難事故だった。まだ三つだったのよ。私は兄が死んだということがどういうことか分からなかったわ。でも、兄が死んだことで一番苦しんだのは父だったの。母の話だと父は兄が死ぬ数ヶ月前から様子がおかしかったらしいわ。なにがあっても絶対に兄から目を離すなって。幼稚園に通わせるもの控えるほどに。でもね、兄はどうしてもみんなと一緒にプールで遊びたいって駄々をこねて、母は一度だけのつもりで幼稚園のプールに連れて行ったのよ。でも、その判断が全ての元凶だった。保育士が目を離したたった数分間で兄は死んだのよ。それを追うようにして五ヵ月後に父も死んだ。クリスマスの朝にね。……あのときのことは今での覚えているの。残された私の誕生日だけでも祝おうと、母はケーキを焼いていたのよ。私は父の帰りを待っていたわ。隣町にあるアトリエから戻ってくるのを心待ちにしていた。でも、来たのは父ではなくて、一本の電話だった。警察から知らせを受けて病院へ行ったの。私は父とは対面させてもらえなかったけれど、病院の廊下で泣いている母の姿だけは絶対に忘れられない」
相変わらずペンダントをいじりながら、加藤さんは視線を上げてわたしを見た。
「その日の夜にね、郵便受けの中に小さな箱が入っていたの。中身は小さなガラスのネックレス」
そういって加藤さんはつけていたペンダントを外した。
「これよ」
差し出されるがまま受け取ったペンダントは、しずく型のガラス球に無数の星屑を閉じ込めたように見えた。蛍光灯の明かりに反射してキラキラと輝いている。
「きれいですね」
手の中のものを返しながら言うと、加藤さんは小さく微笑んだ。
「宝物よ」
ペンダントを再び付け直す。
「私はずっと事故だと思っていたのよ。……大庭さんに会うまでは」
「事故じゃなかったんですか?」
わたしの言葉に加藤さんは首を振る。
「自殺よ。父は自らの意思で死を選んだの」
その事実にわたしはごくりとつばを飲み下した。
「それを知ったのは、この仕事に就いて大庭さんに会ってからだった。真理ちゃんの言うとおり、大庭さんは父を看取ったそうよ。そのときの報告書も残っていた。父は弱い死神だったのよ。大切な人の死を受け入れることを出来ずに、現実を拒んだの。それが分かったとき父を恨んだわ。今までずっと一人だけで年をとっていく自分の誕生日を素直に喜べなかったのは全部父のせいだったんだって。でもね、大庭さんに言われたの。父を恨むなと。恨むなら父をこの世界に引っ張り込んで、なにもせずに父の死を見届けた自分を恨めってね」
加藤さんはそこで言葉を切って大きく息を吸った。その様子を見てわたしは自己嫌悪に陥っていた。
きっと、過去に去ったはずの痛みを引きずり出す作業が辛いのだろう。それをさせている自分はなんてひどい奴なんだ。
けれど加藤さんは苦しいはずなのに話しつづけた。
「大庭さんが残していてくれた報告書を読んだわ。兄を喪った苦悩に満ちていた。もうこんな想いはごめんだって。父には見えていたのよ。母の死も。私の死も。自分の終わりだけが見えなくて、だからもう耐えられなかったって。見たくはないって。だから、自ら命を絶ったの。父が大庭さんに託した言葉は謝罪だった。すまないって。自分の分まで生きてくれって。父の最期を細かに残していてくれた大庭さんを恨むことなんてできなかった。自分だって辛かったんだろうに、黙っていれば一生気づくことなく終わったかもしれないのに、それでも大庭さんは私に父の最期を伝えてくれた。それしか出来ないからって」
そういうと加藤さんはわたしに聞いた。
「父はなんていっていたの? やっぱり謝っていた?」
その言葉に首を振る。
「違います。ありがとうって言っていました。生まれてきてくれてありがとうって。ここにいてくれてありがとうって。子供をあやすように優しい声で」
加藤さんはかすかに震えながらやっとのことで「教えてくれてありがとう」と言った。
しばらくして、加藤さんは涙ににじんだ目を私に向けた。
「真理ちゃん、死神はとてももろいの。大庭さんのような人はほんの一握り。辛くて苦しくて自分を殺したくなってしまうほど。それでも、死神でいられる? 大切な人を見送ることしか出来ない苦しさを、あなたは受け止められる?」
「加藤さん?」
唐突な問いかけにわたしは戸惑った。
「真理ちゃんにはこんな辛い想いはしてほしくないの。あなたは優しいから、きっと他の人の痛みまで背負おうとしてしまうかもしれないから……。この仕事を勧めた私が言うのはおかしいけれど、考え直すなら今のうちよ」
「辞めようと思えばいつでも辞められるんですよね? 長く続かないって、前に……」
「もちろん、いつでも辞められるわ。でもそれは後戻りが出来る状態の話。真理ちゃん、あなた声を聞いているのよね? 恐らくそれは、経験を積んだ死神にしか聞こえない声よ。それが聞こえるようになると、この仕事を辞めたとしても死から目を背けることが出来なくなるわ」
「それって……」
「死から逃れることが出来なくなるの。どんなに今が幸せでも、その終わりが見えてしまう。手遅れにならないうちに、よく考えて」
「でも……」
「真理ちゃんが幸せになれる道を選ぶのよ」
しばらくあいだ、加藤さんの言葉が耳から離れなかった。