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君がここにいるうちに  作者: ましの
朝にとける、ゆき
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着信は『運命』

 唐突に乾いた電子音が耳元で鳴り響いた。

 安眠というぬくもりが広がる布団を吹き飛ばそうとしているのは、まさかのベートーベンだ。

 いや、それは違うか。

 十八世紀のドイツの作曲家が二十一世紀の日本にいる私の安眠を妨害できるわけがない。

 正確には、ベートーベンの交響曲第五番ハ短調。またの名を『運命』

 枕元でイントロだけを何度も繰り返すそれは、目覚まし時計の音じゃない。かといって、目覚まし代わりに設定したスマホのアラームでもない。

 五回目のイントロに突入する直前で通話ボタンを押した。

「……あい」

 寝起きで呂律が回らないのを承知の上でなんとか応答。

 次の瞬間、

『いつまで寝ているつもりだ! 早く来い!』

 太い怒鳴り声が鼓膜に突き刺さる。ガンガンと脳内に余韻だけを残して通話はプツリと途切れた。

 呻きながらスマホの画面を見ると、三件の不在着信と目覚まし用に設定していたアラームの残骸が張り付いている。

 時刻は午前四時三十分。

 完全なる寝坊だ。

 たっぷり三秒間は画面を睨みつけてから、布団を一気に跳ね上げて起き上がった。途端に、冷え込んだ空気が待ってましたとばかりにスエットの隙間から入り込んでくる。あまりの寒さの思わず布団を拾い上げそうになるのをぐっと堪えた。

「うひゃあ」

 声を出して気合を入れてみようにも寒いものは寒い。そもそも気合が入りそうな声なんて出そうにもない。悲鳴になり損ねた声が空しく部屋に響く。

 鳥肌の立つ脚を急いでジーンズに突っ込む。もたもたしていたらベートーベンが五回目の乱入をしかねない。すばやくロンTの上にバーカーとウインドブレーカーを羽織る。

 ここまでは順調だ。

 しかし、手がかじかんでうまく靴下を履くことが出来ない。バランスを崩した拍子にゴツンと鈍い音を立てて年季の入った勉強机に足を打ちつける。運が悪いことに小指だ。

「い!」

 思わず叫んだ。寒々しい部屋の中で足を押さえながら数秒間悶絶。

「くっそう、負けないんだからな」

 特別声援を期待しているわけじゃない。そもそもわたしのほかには誰もいない部屋の中で端からそんなものは期待していない。ただ自分を鼓舞するために言っているだけ。ようは独り言。

 ズルズルと芋虫のようにベッド脇まで這うと、その下に手を伸ばしてパタパタとあたりを探った。指先に硬くて冷たいものがぶつかる。目当てのものだ。わたしはベット下に転がるそれらの一つを掴んでよろよろと立ち上がった。

 打ち付けた小指はまだジンジンと痛む。だからといってのんびりなどしていられない。目尻にたまった涙を拭って静かに部屋のドアを開けた。


 静かに眠る住宅街にスニーカーの駆ける音が響く。吐き出す息が白く曇って闇の中に溶けた。

 午前五時前。日の出までまだ一時間はある。空は白んでくるどこか完全な闇だ。星がまだきれいに瞬いている。

 十二月に入ったばかりのこの季節は、昼間はまだ暖かい陽気が残るが暦の上では立派な冬だ。その証拠に、夜の空気を孕んだこの時間帯は凍えるほどに寒い。それでもこうして走っていれば汗ばんでくる。

 アスファルトを蹴るたびにぶつけた小指がスニーカーの中でうずく。

 三日前から突如として始まった早朝ランニングには依然として慣れる気配がない。そもそも低血圧のわたしにとって寝起きのランニングは拷問だ。三日坊主で終わらなければいいけれど。

 昨夜から水分を摂っていない体はカラカラに乾いている。呼吸をするたびにゼイゼイと喉の奥が鳴った。

 せめて水ぐらい飲んでおくべきだったと後悔したところで遅い。足は必死に目的地に向かっている。いくつの自販機を恨めしげに睨みつけて通り過ぎたことか。煌々と闇を照らすあいつらを見つける度に、無一文の自分を恨んだ。

 そもそも、どうしてこんなことになっているのか。

 それは全てベートーベンのせいだ。

 ……違うな。

 ベートーベンは悪くない。

 あえて言うなら『運命』というやつだ。

 右手にスマホ、左手にキャットフード。痛む足の小指。カラッカラの喉。

 この状況は全部そいつのせいだ。

 両手に持ったおもりが腕を振り子のように回転させる。

 ありがたいことにあれから一度もベートーベンはやって来ない。黙り込むスマホを気にしながら派手に足音を響かせて住宅街を駆け抜けた。


「す、すいま、せん。はぁ……。おくれ、ました。……ふう」

 神社に続く二百五十段の石段をヒイヒイ言いながら駆け上がると、鳥居の下では黒い影が腕組みをして待っていた。

 まずい。相当ご立腹のようだ。

 暗くて顔が見えなくても気配で分かる。明らかにピリピリとした空気を醸し出している。

 待てよ……。半分くらいはこの寒さのせいではなかろうか。

 などと考えながらわたしは石畳に膝をついた。持っていたキャットフードがカツンと音を立てる。

 上がった息は収まる気配がなく何度も浅い呼吸を繰り返す。心臓発作を起こしているような感じだ。……経験したことがないからわからないけれど。

「遅い!」

 頭上から降ってきた声に顔を上げる。

「四時には来るようにと言ったはずだぞ!」

 有無を言わさぬ鋭い声に思わず身を縮める。

「すみません。アラームに気づきませんでした。明日からはちゃんとします」

「当たり前だ! お前は自覚が足りん!」

 息も整ってきたところでようやく立ち上がって向かい合う。

 黒い影は相変わらず運動部の鬼顧問のように腕を組んで仁王立ちしている。品定めをするような数秒間の沈黙。わたしはすっかり慣れたその沈黙の間に姿勢を正した。

「早くしろ真理まり。彼女が待っている」

 どうやら落第点は取らなかったようだ。

「はい、師匠」

 わたしはその背中に続いて境内の奥に進んだ。

テンションおかしいです……(__;)

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