おでんと夫婦
「真理ちゃん、おでんは好きかしら?」
寿子さんがおでんをお皿によそいながら、わたしに笑顔を向ける。つられて笑みを浮かべながらうなずく。
「好きです。自分じゃなかなか煮込み料理って作らなくて」
「まあ、良かったわ。たくさん食べて行ってね。夫婦二人だけだとどうしても余らせちゃうのよね。何日も同じ料理を出すと男の人は嫌がるし。ねえ?」
と、師匠に同意を求めた。わたしの向かいに座っている師匠はその問いかけを無視して、こちらに向かって言った。
「叔母さんに誘われていたんだろう? 無下にしていいのか?」
その言葉にわたしは顔をしかめる。さっきから師匠はそれしか言っていない。
「くどいですよ。叔母さんは形式上誘っているだけなんです。断るのが正解なんですよ」
すると、今度は自分の妻に向かって文句を言い始める。
「お前もお前だ。年配者が無理やり誘えば断れないだろうが。それに若い者の口にお前の料理が合うとも思えん」
だが寿子さんも言われっぱなしとはいかない。
「あら。真理ちゃんは喜んで食べてくれてるじゃない。それに若いんだからちゃんと食べないと」
「本心かどうか分からんだろうが」
師匠の嫌味に、わたしは首を振る。
「寿子さんの料理は本当においしいですよ。この間の肉じゃがだって大好きです。このおでんだって、こんなに味が染みるんだって感動ものです」
寿子さんに向かって言うと「ありがとう」と嬉しそうに返って来る。それを聞いて師匠はため息をついた。
書店で師匠といがみ合った後だというのに、わたしは大庭家の茶の間にいた。
帰り際に師匠にかかってきた一本の電話がわたしをここへ呼び寄せていた。
電話の主は、確信犯的におでんを多く作った寿子さんだった。
それまでギクシャクとしていたわたしと師匠だったけれど、寿子さんが間に入ることで一気に和やかな雰囲気に一変する。そのことは以前大庭家に来たときからなんとなく察してはいたけれど、今日ここに来ることではっきりと分かった。
しかめっ面の多い師匠と、和やかな雰囲気を持つ寿子さん。まるで正反対だけれど、だからこそ夫婦でいられるのかもしれない。見るからに亭主関白のように思えた夫婦は傍目にはそう見えるかもしれないけれど、全て寿子さんの絶妙なコントロールの賜物だろう。こうして二人を見ていると、師匠は自覚していないかも知れないが確実に尻に敷かれている。
夫婦の極意、ここに在り。って感じだ。
わたしははんぺんにかじり付きながら、師匠の言葉をのらりくらりとかわす寿子さんの声を聞いていた。
にぎやかな食卓は、学校のお昼休みとは違った安心感があった。
なんでだろう。なんでこんなに無防備でいられるんだろう。自分の心の中を探ってみるが、それらしい答えは見つからない。暖かい茶の間とか、コタツとか、おでんとか。そういったものが心をくつろがせているのだろうか。
それにこの感じ……。
不意に鼻の奥がツンとして視界がにじんだ。それに気づいて慌てて頭の中を空っぽにする。こんなところで突然泣き出すわけにはいかない。食べることに集中しようと、玉子を丸ごと口の中に詰め込む。
「真理ちゃん、そんなに慌てて食べなくていいのよ。まだいっぱいあるんだから」
寿子さんの明るい声にうなずきながら、わたしは涙があふれないように玉子を精一杯咀嚼した。
「時計台、クリスマスの朝に取り壊されるそうよ」
夕食を終えてお茶をすすっていると、寿子さんが思い出したように言った。
「そうらしいな」
師匠がそっけなく答える。
「あれからずいぶん経ったものね。覚えている? あのときの……」
「その話はいい」
寿子さんの言葉を師匠がさえぎった。少々棘のある言い方にわたしは興味を持つ。
「駅前の時計台ですよね。なにか思い入れがあるんですか?」
書店で師匠は何かを隠していた。それが何なのかもしかしたら分かるかもしれない。そんな想いで口を開いたのだ。
しかしそんな淡い期待は見事に砕け散る。
師匠が不機嫌そうに湯飲みを勢いよく置いた。中に入っていたお茶が衝撃でわずかにこぼれる。
「昔の話はしなくていい」
師匠の強い言葉に、さすがの寿子さんも従わないわけにはいかないようだ。
「そうね。昔のことだものね」
そう言って時計台の話題は途切れた。
一体なんだというんだろう。時計台になにが隠されているんだ? 疑問ばかりが膨らんでいく。
わたしが時計台で見た光景と、師匠が隠していることになにか繋がりがあるのではないだろうか。湯飲みに目を落としながら考える。
そんなに隠し通したいというのなら、是が非でも暴いてやろうじゃないか。