予兆
まだ、カヨさんの笑顔を覚えている。手の温かさだって忘れられるはずがない。それなのに、もうここにはいないなんて信じられない。
欠けてしまったなにかを紛らわそうと、わたしは必死で目の前の報告書に向かっていた。
「今、無理をして書かなくてもいいのよ」
その声に顔を上げると、加藤さんがティーカップをテーブルに置いた。紅茶の香りが漂ってきて気分が少しだけ和む。
「急に押しかけてきたのに、すみません」
報告書とペンをを脇にどかしてティーカップに手を伸ばすと、両手でカップを包み込んでゆっくりと紅茶をすすった。張り詰めていたなにかがゆっくりと緩んでいく。
「気にしないで。終生管理士をサポートするのが私の仕事だから。それに、一人でいるのが辛いときだってあるわ。いつでも頼ってくれていいのよ」
微笑む加藤さんの優しさが心にしみる。
「ありがとうございます。普通に授業があったらまだ気が紛れるんですけど……」
「三者面談なんだっけ? もうすぐクリスマスなのに大変よね。真理ちゃんはもう進路決めているの?」
「いえ。早く自立したいんですけど、保護者と意見が合わなくて……」
このまま死神の仕事を続けていればきっと生活に困ることは無いと思うけれど、だからと言ってこの先も続けていける自信は無い。
「そっか。進路が決まらないのは大きな悩みの種よね。お仕事のこともあるし、気が滅入るでしょう?」
「何となく覚悟はしていたんですけど、想像以上に辛いですね。師匠もわたしに黙って勝手に申請出してるし」
「人に対しては初めてだもの。だから特にね」
「慣れていくものなんでしょうか。師匠はいつも平気そうな顔してるし」
ユキのときはもちろん、フォローとして関わった仕事で師匠はなにひとつ動揺する様子など無かった。人の死が近すぎて慣れてしまったのか、それとも麻痺しているのか。けれど、加藤さんはそれを否定した。
「確かに大庭さんはいつも冷静だけど、それに慣れているってことは無いと思うわよ」
そう言って彼女はキャビネットの中のファイルを取りだした。A4サイズの分厚いファイルだ。
「大庭さんの報告書よ。これが一件分」
その言葉に驚いて声を上げた。
「ほんとですか?」
「ええ。一般的に終生管理士の報告書は二枚から多くても四枚程度なんだけど、大庭さんは違うのよ。対象者の人物像ややりとりを細かく記しているの。もしもご家族や関係者に報告書を開示することがあってもいいようにって。でも終生管理士の存在自体が機密だからそんなことは出来ないんだけどね」
「じゃあどうしてそんなに?」
「これが大庭さんなりの消化の仕方なのかもしれないわ。だから普通の人間には消化不良を起こすようなことを、大庭さんは次々とやってのける。終生管理士の中でも飛び抜けた存在なのよ」
「師匠が?」
「そう。現役の特別終生管理士の中で最長齢であり、在籍期間も最も長い。とても珍しいの」
「珍しい? 普通は定年があるってことですか?」
加藤さんの言葉に引っかかりを覚えて問い返すと、彼女は首を振った。
「いいえ。多くの場合、終生管理士は何年も続かないの」
意味がよくわからず首をかしげた。
「それは辞めるってことですか?」
「それもあるわね。やっぱり辛い仕事だから。でもそれだけじゃないのよ」
「それだけじゃない?」
反復すると、加藤さんは言いづらそうに息を吐き出した。
「亡くなる方が多いの」
「亡くなる? それってどういう……」
「死神と呼ばれている人たちは、とても繊細で脆い人たちが多いってことかしらね。だから自分の終わりが見えないのが一番辛いみたい」
それがどういう意味なのか分からず問いかけようとしたけれど、加藤さんはそれ以上は言うつもりがないようで空になったティーカップを片付け始めた。
なんとなく気まずい空気が流れるなか、わたしは話題を変えようと声を上げた。
「クリスマスは予定あるんですか?」
唐突な問いに加藤さんが首を振った。
「社会人はクリスマス関係無しにお仕事があるのよ」
そう言って笑ってはいたけれど、ふと表情を無くして呟いた。
「それに、クリスマスって嫌いなの」
胸元のペンダントをいじりながら遠くどこかを見つめている。
聞いてはいけなかった話題だったかもしれないと、口をつぐんだ。
亡くなるってどういう意味だろう?
そりゃ人間なら誰しも生きていれば必ず死ぬときはやってくるけれど、話の前後から推察するにそういう意味で言った感じではなかったし……。
合同庁舎を出て駅に向かう途中、ずっと加藤さんの言葉の意味を考えていた。
長く続かないのはわかる気がするけれど、亡くなるって……。どう考えても穏やかな言葉じゃない。以前に師匠についていたという人のことも全く教えてくれないし、終生管理士にはまだ教えられていない秘密があるような気がしてならない。それもとても重大な秘密が。
わたしがまだ見習いだから詳しいことが知らされていないだけかもしれない。
そもそも死神って一体何なんだろう。
・選ばれた人にしか資格が与えられない。
・十六歳から資格が認められる準国家公務員。
・人、あるいは動物の最期を看取ることが仕事。
わかっていることを指折り数えて愕然とした。
待って。わたし、これぐらいしか死神について知らないの?
そう思うと急に背筋がゾッとし始める。自分が何をやっているのかわからないということが何よりも恐ろしい。給料が高いのは口止め料だとも言っていたけれど、それってかなり危ないことをしているということではないだろうか。
わたしは危険なことに巻き込まれているの?
これ以上考えると恐ろしいことしか浮かばないような気がして、振り払うように頭を振った。
ふと、ポケットに入れていたスマホが短く震える。何かを受信したようだ。無意識にスマホを取り出して確認すると、由香から短いメッセージが入っていた。
【今ヒマ? ちょっと買い物付き合って】
絵文字の入ったメッセージに【了解】と応答して、ホッとした。誰かが側にいてくれれば悪い考えには及ばないはずだから。
待ち合わせは駅前の古びた時計台だ。
色鮮やかなステンドグラスのはめ込まれた時計台は駅前唯一の待ち合わせスポットで、クリスマスの近い夕方とあっていつもより一段とにぎわっていた。
「さすがにカップルが多いなあ」
見回せばどこもかしこもカップルばかり。まあこの時期は仕方ないか。
どこからともなく聞こえてくるクリスマスソングにイルミネーションも合わさって、クリスマスに特別な思い入れがなくてもいやがおうにも浮き足立ってくる。
そんな浮かれた街をいさめるように、空はどんよりとした雲が覆っていていつ雪が降り出してもおかしくない天気だ。吹きつけてくる北風はいっそう冷たさを増している。
「そろそろ丈の長いコートに変えるべきか」
コートは着ているものの上半身しか守ってくれないショート丈で、スカートの裾から出るむき出しの素足が風にさらされてピリピリと痛む。
由香に早く来てもらわないと確実に風邪コースだ。
少しでも暖をとろうと風を避けるように時計台の影に入る。
そのとき、突然耳の底でドクドクと鼓動が鳴り出した。うるさいくらいの鼓動に戸惑っていると、今度は視界の中に蛍の光のようなものが幾筋も飛び始める。
「え? え?」
なにが起こっているのかわからず耳をふさいで何度も瞬きをしてみるが、状況は何も変わらない。
不意に誰かが耳元でささやいた。驚いて声の主を探すが姿はどこにもない。その声ははっきりとは聞き取れないが、男性の声のようだ。子供をあやすように穏やかに優しい声でささやいている。
なに? なにが起こってるの?
訳がわからず戸惑うばかりで、なにをどうしたらいいのかがわからない。
気がつくと、立ち上る無数の小さな光に囲まれてわたしは時計台と向き合っていた。
鮮やかなステンドグラスを見上げると、その向こうに人影らしきものがある。ささやいていたのはその人だろうか。けれど人影はすうっと時計台の奥へと消えた。
「待って!」
呼び止めようとした途端、異変が起こった。
ギギギギッ!
黒板を爪で引っかいたような耳障りな音が周囲に響き渡った。
瞬間、それまでわたしを取り巻いていた状況が一変した。無数の光は姿を消し、耳の奥で鳴っていた鼓動もささやき声もおさまっている。まるで今まで夢でも見ていたかのような変わりように唖然とするしかない。
呆然と時計台を見上げていると聞きなれた声がすぐ隣で問いかけてきた。
「今のなに?」
振り返ると、由香がそこにいる。
「誰かあの中にいたよね?」
とっさに出てきた言葉に、由香が不思議そうな顔をして首を振る。
「はあ? それは知らないけど。あの音なに? 黒板引っかいたみたいな音」
由香が言い終えた瞬間、一段と大きな音が再び響いた。ギリギリと何かが擦れあうような異様な音。たまらずに由香が耳をふさいでいる。
慌てて周囲を見渡すが、そんな異様な音が鳴るような要素などどこにもない。それなのに、わたしたちだけでなくその場にいた全員がその音を確かに聞いていた。
ふと時計台を見上げると、ステンドグラスが細かに震えている。それを見てわたしは呟いた。
「ガラスが鳴ったの?」
ありえない。
そういうつもりで言ったはずが、自分の言葉がやけに腑に落ちた。
「それだ!」
隣で由香が同意の声を上げる。
イルミネーションの光を受けてキラキラと輝くステンドグラスは見慣れたもののはずなのに、はじめて見るような異様な美しさをまとっていた。きっとそこにいた誰もが時計台を見つめていたに違いない。
もうじきこの時計台は解体されるというのに……。だからこそ、わたしに何かを伝えようとしているのだろうか。