はじめての教え
十二月だというのに妙に気温が高かい。冬がどこかに行ってしまったような日だ。
『星の丘』に続く坂を上りながら巻いていたマフラーを乱暴に剥ぎ取る。
思わず感嘆をもらしそうになるほどの夕暮れは、まるで夏の終わりのようだった。
「今日は早いのね」
受付で面会票に記入していると通りがかった小川さんが声をかけてきた。
「はい。半日授業だったので。友達と少し遊んでから来ました」
遊ぶというよりは吊るし上げられているような感じだったけど……。
「あらいいわね。今日はカヨさんお部屋にいるのよ。見せたいものがあるんですって。案内するからちょっと待ってて」
カヨさんの部屋は寂しげだった。荷物が少ないからそう感じたのかもしれない。病室のようなのっぺりとした空間の中で、窓際に置かれた赤いガラス製の空の花瓶が目を引く。
カヨさんはベットの脇に座って手の中の小さな冊子をめくっていた。
「カヨさん。里子さんが来たわよ」
小川さんが声をかけると、彼女は嬉しそうに顔を上げた。いつもと同じ表情。わたしを手招きして隣に座らせる。
「ほうら」とカヨさんが持っていた冊子をわたしの膝の上に乗せた。
「なに?」
滑らかな手触りの古ぼけた黒い表紙。本にしては紙が厚い。意外にもずしりと思い冊子を持ち上げて表紙をめくる。
「アルバム?」
そこにはセピアに色あせた写真がきれいに並べられていた。所々に書き添えられた言葉はインクが薄れて読み取れない。
「お父さんがよく写真を撮ってくれたでしょう。ほら、ここ」
そういって指差したのは一枚の家族写真だ。家の前で撮影したらしい。おかっぱの小さな女の子とその両親。母親は腕に赤ん坊を抱いている。
「これが私。お母さんが抱いているのが里子よ。里子が生まれてすぐに撮ったの。きっと覚えていないでしょうね。こんなに小さかったんだから」
カヨさんが指しているのは母親に抱かれた『里子』
そこからはカヨさんと『里子』の成長記録になっていた。ページをめくるたびに幼い女の子が少しずつ大きくなっていく。
お祭りの山車の前。田んぼのあぜ道。雛人形。そこに並ぶ二人の女の子。季節ごとに並べられた写真は時間をさかのぼって見えないはずの色彩を伝えてくる。
「こっちは私が国民学校に上がったときの写真」
校門の前に並ぶカヨさんと母親。それに母親の腕にぶら下がるようにしてぐずる女の子。これは『里子』だ。
「私の記念日なのに、里子がどうしても写りたいって泣いたのよ。覚えている?」
カヨさんの手が数ページめくって別の写真を指した。
「だから、里子の入学式の写真にも私が写っているの。ね?」
それまで黙って写真を覗きこんでいた小川さんがささやいた。
「あら。目鼻立ちが尾上さんにそっくりだわ」
言われてみればどことなく似ているかもしれない。でも白黒の写真を見慣れていないせいか、わたしにはよく分からなかった。
「本当に大きくなったわねえ」
その言葉が写真ではなくわたしに向けられていることに気づいたのは、カヨさんが顔を上げてこちらを見つめていたからだ。
そう、わたしを見ていた。記憶の中にいる『里子』ではなく、わたしの顔をまっすぐに見つめていた。初めてのことだ。
カヨさんはしばらくわたしを見つめた後で、何度か目を瞬かせるとまた記憶の中に戻って言った。
どこまでも続いていくかと思えた写真の列がアルバムの中盤に差し掛かった頃、それはプツリと途切れた。残りのページは空白のまま。
「この頃かしらねえ。戦争が始まったのは……」
カヨさんがポツリと呟いて窓の外を見る。
途端におかしな感覚に襲われた。
どくどくと心臓の波打つ音が耳の底で響き、チカチカと光る何かを目が捉える。沈みかけの太陽が空を真っ赤に染めていた。
あれ? 何かがおかしい。
時間が逆行している? 外はすでに暗くなっているはずなのに……。
「あの日もこんな真っ赤な空だった」
カヨさんの声にハッとして目を瞬かせる。その瞬間、真っ赤に染まっていたはずの空は静かな夕闇に沈んだ。
今のはなに? 一体なにを見ていたんだろう。
パチパチと瞬きを繰り返すわたしの横でカヨさんがもう一度言った。
「あの日も、こんな真っ赤な空だった」
声がかすかに震えている。
「警報……、警報が鳴って……」
興奮して次第に声が大きくなる。
「お父さんが怒って、私が壕から飛び出した……。それで、それで里子は……。里子は……?」
「カヨさん?」
大きく体を揺らしながら唸り声を上げはじめる。短く吐き出される呼吸が次第に荒くなっていく。
「ど、どうしたんですか?」
どうしたらいいのかわからずに戸惑いながら声をかける。そばにいた小川さんがすかさず内線で応援を呼んだ。
「カヨさん、落ち着いてください。大丈夫ですよ」
慣れた手つきでカヨさんをベッドに横たえさせると、そのままわたしに顔を向けた。
「ごめんね。今日はもう帰ったほうがいいわ」
その言葉に従うしかなかった。
その翌日。わたしは迷いながらも『星の丘』に立っていた。
迷惑になるかもしれないと気が引けたが、どうしても気になってしまって仕方がなかった。
「来てくれたの?」
わたしの姿を見て小川さんは驚いていた。
「すみません。迷惑だったら帰ります」
「謝らなくていいのよ。カヨさんね、少し体調を崩してしまって今日はずっと寝ているの。せっかくだから、少しだけでも顔を見せてあげて」
その言葉に甘えて、図々しくカヨさんの部屋に入った。
カヨさんは眠っているようで、薄い瞼を閉じていた。わたしは傍らのイスを引き寄せてベットの脇に座った。こうしているとやけに静かに感じる。耳を澄ませば聞こえてくる施設内の物音がひどく遠い世界のように思えた。
夕日が鋭く刺し込んで花瓶の陰が壁に映し出されている。
赤く染まった部屋を見渡して、ふと昨日の感覚を思い出した。あれはカヨさんの言葉をわたしが無意識にイメージしていたものかもしれない。
それとももっと他の何かなのだろうか。
「里子かい?」
突然カヨさんが声を上げた。昨日とは打って変わって穏やかな声だ。覗き込むと彼女は薄く目を開けてこちらを見ていた。
「ごめんね、里子」
夢うつつを漂うようにぼんやりとした声が語りかける。
「あの日、私を探しにきてくれたのよね。だから逃げ遅れて……」
紡がれていく声が頭の中で響いている。
「ごめんね。私が壕を飛び出さなければ、里子はきっと死ぬことはなかったのに……。ごめんね」
その言葉を聞いてハッとした。カヨさんは『里子』の死を受け入れたのだ。今まで拒絶するようにずっと楽しい思い出の中にいたというのに。ついに受け入れてしまったのだ。
掛け布団がもぞもぞと動いて細い腕が弱々しく差し出される。わたしはその手を両手で包み込んだ。ぬくもりがじんわりと伝わってくる。するとカヨさんは安心したように微笑んだ。記憶の中にいる『里子』に向けて。
「ありがとう」
わたしは黙って手をきつく握った。わたしが言えることはなにもないと知っていたから。
「迎えに来てくれたんでしょう」
え?
それを最後に、カヨさんは黙り込んだ。目を閉じてまた眠りに落ちていったようだ。
取り残されたわたしはカヨさんの言葉の意味を考えていた。「迎えに来てくれた」って……?
考えれば考えるほど色濃く浮かんでくるひとつの答えに抗うように、首を振る。
違う。そんなことはない。あってたまるものか。
しばらく考え込んでハタと気づいた。カヨさんの腕がやけに脱力している。
眠っているから? それにしても何かがおかしい。
「カヨさん?」
声をかけるが起きる気配はない。
「カヨさん!」
肩をゆすってみるが、反応がない。
まさか……!
そう思った瞬間、わたしは部屋を飛び出した。
「カヨさんが!」
近くにいた職員を捕まえて必死に叫んでいた。
「大丈夫?」
かけられた言葉に力なくうなずいて、わたしはどうにか施設を出た。外はすっかり夜に支配されて冷え込んでいる。入れ違いになるように若い男性が駆け込んでいく。
とぼとぼと正門前まで来てへたり込むように膝を突いた。むき出しの足から這うように冷気が体を支配していく。
「……くっ」
ここに来てようやく涙があふれた。さっきまでのぬくもりがまだ手に残っているような気がして、逃すまいと胸の前できつく組んだ。人を喪うのはこんなにも苦しくて悲しい。封印していたはずの感情がゆっくりと目を覚まして胸の奥で膨らんでいく。
「……知っていたんですよね」
門の前にたたずむ影を睨みつけて言った。
「どうして教えてくれなかったんですか」
涙に飲まれる声が闇を震わせた。
「知ったとして、どうするんだ」
じりと靴音がして影が明かりの中に現れた。厳しい声音に負けそうになる。
「知っていたら、もう少し何か出来たかもしれないのにっ!」
「本当はうすうす気づいていたんだろう? だから毎日のように通った。違うか?」
「違いますっ」
嘘だ。
本当は師匠が言うとおり気づいていたんだ。ただ知らない振りをしていただけで、認めたくなかっただけだ。
「全てのものには等しく終わりが来る。それがどんなに辛いことでもだ。死神はそれを受け入れなければならない」
師匠の言葉が重くのしかかる。わたしは悲しさと悔しさが入り混じった想いを吐き出すように泣き続けた。
どれだけの間そうしていたのだろう。気づくと師匠が隣で空を見上げていた。
「見事な星だな」
そう言われて見上げた空には、街中で見るよりもずっとたくさんの星が瞬いている。弓のような細い月が空の端に追いやられている。
「『星の丘』とはよく言ったものだ」
師匠がポツリと呟いて、こちらを振り返った。
「落ち着いたか?」
厳しさの消えた声が聞いた。
「落ち着いたなら、着いて来い」
そう言って師匠はわたしの腕を掴んで立ち上がらせた。
その家は閑静な住宅街の一画にあった。
『大庭』の表札がかかった民家を見上げる。玄関の明かりは消えているものの、家の中からぼんやりと明かりがこぼれていた。
「ここは?」
その問いかけに師匠は答えない。代わりに「入れ」と玄関の戸を引いた。言われるがまま戸をくぐる。
「帰ったぞ」と声をかけると、奥からスリッパの音が近づいてきて玄関がパッと明るくなった。
「おかえりなさい」
出迎えたのは小柄なおばあさんだ。わたしを見てにっこりと微笑む。
「いらっしゃい。あなたが真理ちゃんね」
驚くわたしを横目に、師匠が靴を脱ぎながら言う。
「妻だ」
「え?」
驚いて死神の妻を見つめる。それに気づいた彼女は「ふふっ」と小さく笑った。
通されたのは温かな茶の間だった。冷え切った体にじわりと血が通いだす。
生活感のあるその場所は死神のイメージからは遠くかけ離れていた。ものめずらしさからきょろきょろと周りを見るわたしを師匠が叱る。
「この人、厳しいでしょ? 気長に相手をしてあげてね。本当は嬉しくて仕方ないのよ」
耳打ちされた言葉に、師匠は「余計なことを言うな」と一喝する。
「座れ」と指されたコタツに遠慮がちに足を入れる。
黒いコートの死神はトレードマークのそれを脱ぐ。中に来ていた深緑のセーターが現れると、一瞬にして師匠はどこにでもいるおじいさんに変身した。
死神の妻はコートを受け取ると廊下に出て行く。それを横目で追いかけて、師匠は静かに言った。
「良く聞け。運命はいつも向こうからやってくる。俺たちの仕事はそれを受け入れることだ」
それは師匠から授かるはじめての教えだ。