満員電車で急展開
電車はだいたい揺れるポイントが決まっている。毎日同じ時間に乗っているとさすがに慣れてくるので揺れるポイントがわかってくるのだ。それさえ覚えていればぼんやりと考え事をしていても上手くバランスを取って涼しい顔をしていられる。しかし、これはあくまで車内が空いていればの話で、もちろんそれは満員電車をのぞいた場合だ。折り重なった人の群れが一気にのしかかってくるのだから、よほど怪力の持ち主でなければ不可能だろう。
ガタンと音を立てて揺れる電車内で人の壁に押しつぶされる。あまりの苦しさに叫びだしそうだ。つま先が床にちょこんとついているだけで浮いているといっても過言ではない状態。暖房と人の熱気でムンムンとする車内は冬だというのにめまいを起こしそうだ。
次の駅で降りようかな……。もう学校なんてどうでもいい。
そんなことを考えていると一際大きな振動が襲いかかる。つり革にぶら下がってなんとか難を逃れたが、後ろにいた乗客がバランスを崩してわたしの背中にタックルを決めた。一人では受け止められないほどの体重がのしかかってきて、しっかりと握っていたはずのつり革から手が外れた。目の前にはモバイルを眺めながら悠々と座っている女性の膝。
やばい!
と思ったのも束の間、誰かがわたしの腕を掴んだ。危機一髪目の前の膝にダイブせずにすんだが、女性は怪訝な顔でこちら見ている。
「すみません」
誰に謝っているのか自分でも把握していないが、とにかく小さく言って頭を下げた。どこかの誰かはまだ腕を掴んだままだ。
そのとき、「大丈夫?」かけられた声に目の前がチカチカとした。つり革をしっかりと掴んで態勢を立て直すと視線を巡らせる。
「あ!」
そこにいた人物を認めて、わたしは小さく叫ぶ。
「大丈夫?」
隣でささやいていたのは『横顔の君』だった。
驚きとともに心臓が飛び跳ねる。なにが起こっているのかわからずに、わたしは数秒間心配そうに覗き込む『横顔の君』を凝視した。
彼は怪訝そうな顔でもう一度「大丈夫?」と問いかけてくる。その言葉に我に返って、わたしはなんとかうなずいた。
「だ、大丈夫です」
やっとのことで応答すると、彼はほっとしたように柔らかな笑みを浮かべる。凝視していたのが恥ずかしくなって慌てて視線を外した。
「今日は一段と混んでるね」
呟くように語りかけてくる声に聞き惚れそうになりながら小さくうなずく。
「はい。苦しいくらいです」
「はは。確かに」
光が差し込むようなまぶしい笑顔にめまいを覚える。ささやくような小さな声にも関わらず、わたしの耳は彼の息遣いまで拾っているようだ。パンク寸前の鼓膜にのたうち回る鼓動が合わさって脳内はお祭り騒ぎ。
「途中で降りちゃおうかと思いました」
緊張のあまり第二の理性がやってきて、停止寸前の体を通常運転に切替えた。置いてけぼりを食らった思考は二百メートルくらい後ろで踊っている。
「学校はサボっちゃダメだよ?」
つり革につかまった「横顔の君」が覗き込むように首をかしげている。
わわわわわわわ! どうしよう、どうしよう、どうしよう! 首筋とか喉仏とかヤバ過ぎるんですけど! 近距離フェロモンに当てられて酔いそう。ああ、なんだかフラフラしてきた……。
「顔、真っ赤だよ」
「ふえ?」
脳内のお祭り騒ぎにつられて目がぐるぐる回る。
でも、それだけじゃないような。ちょっと……。
「気持ち悪いかも……」
ぼそりと呟いたはずの言葉を彼は聞き逃さなかった。
「大丈夫? 人酔いしたのかな。辛かったら寄りかかっていいよ。もう少しで終点だから」
そう言ってわたしのカバンを取り上げる。
突然の事に驚いていると「俺が持ってるから」と、有無を言わさない声音に一段と心臓が跳ね上がる。
人酔いは人酔いでも、あなたに酔っているんです。
とはとてもじゃないけれど、口に出しては言えない。
真っ赤な顔のわたしはきっと滑稽に見えたのだろう。座席に座った女性は含むように小さく笑っていた。
「少し飲んだ方がいいよ」
「ありがとうございます」
差し出されたペットボトルを受け取った。すぐに飲めるようにとキャップは外してある。
気が利くなあ。
ペットボトルに口をつけながら彼を見上げた。
電車を降りたわたしは『横顔の君』に言われるがままホームの隅にあるベンチに座った。
「落ち着いた?」
心配そうに覗き込んでくる彼にまた血が昇りそうだ。思わす顔を背けるようにうつむいた。失礼なのはわかっているけれど、これ以上は確実に何かが爆発する。絶対に。
「すみません、朝の忙しいところ」
恐縮していると、彼はなんでもないと言うように隣に腰を下ろした。
「謝るのはこっち、かな」
「え?」
恐る恐る顔を上げる。
「いきなり話しかけてごめん。びっくりしたよね」
ばつが悪そうに笑いながら続ける。
「この前のパスケースの子だと思ったら声かけてた。それにあまりにも苦しそうだったから」
彼の表情にどうしようもなく惹かれてしまう。じろじろと見るのはいけないと思いながらも目が離せなかった。
「やっと顔上げてくれた。俺、ただの変質者になるかと思ったよ」
「ええ? そんな!」
「だってそうだろ? 知らない男に突然声かけられて介抱されるって、あんまり気分のいいものじゃないと思うよ。とわかっていながら、放っておけなかったんだけど」
「とんだお節介だよね、ごめん」謝る彼にわたしは首を振った。
「そんなことないです。とても助かりました。それに、わたしも覚えていたので……、パスケースを拾ってくれた人だって」
うそ。本当は毎日見てた。変質者はわたしの方だ。罪悪感を隠して深々と頭を下げる。
「二度も助けてもらって、本当に感謝しています」
「そこまで言われると照れるな」
照れ隠しか鼻に触れながら「そうだ」と続けた。
「俺は藤木巧。県立大の二年生」
顔を上げると目が合った。彼が緊張気味に問いかける。
「それで、君の名は?」
「そりゃ傑作だ!」
師匠の笑い声が仕事帰りの会社員や学生でにぎわう店内に一際響いた。
「ちょっとちょっと、そんなに笑わなくてもいいじゃないですか!」
話すんじゃなかった。と後悔しながらも、師匠がこんなに笑うのを見るのは初めてだと内心で驚いていた。こうしているとただのおじいさんにしか見えない。
「『君の名は』とは。今時そんな聞き方をする若者がいるなんてな。まるで朝ドラじゃないか」
「懐かしいな」とコーヒー片手に笑いをこらえる師匠を睨みつけた。
朝ドラって……、いったいいつの時代の話をしているんだ。
この話を由香たちにもしたら大爆笑されたが、それはきっと別の理由で笑ったんだろう。まあそれはいい。どうせなにを言ったって彼女たちには笑いの種にしかならないのは承知のうえだ。けれど、相手が師匠となると腹立たしさが二倍になる。というか、笑いのネタが微妙にずれているような気がするのはわたしだけだろうか。
さっきから師匠のカップの中身がちゃぷちゃぷと波打っている。わたしは大きくため息をついてカップに口をつけた。キャラメルの甘い香りが苛立ちを和らげる。
ここは定期連絡でたびたび使うコーヒーショップだ。駅前に大抵存在するという世界展開の有名チェーン店。
定期連絡の場所は師匠の気分で決まる。お昼休みを見計らったように送られてくるメールが、放課後の行き先を決めた。
お気に入りは、駅前の大型書店とこのコーヒーショップのようで、この一週間は一日おきにループしている。
「そんなに笑うと入れ歯が外れますよ」
「残念だが俺の歯は全部自前だ」
冗談で言ったつもりだったが自慢げに返された。きれいに並んだ葉を見せ付けるように口端を上げている。相変わらず欠点が無いようで。
何かひとつでも落ち度を見つけてやろうと、カップ越しに師匠を観察する。
いつもの黒いコートは脱いでイスの背にかけている。滅多にお目にかかれないコートの中身は地味な色のシャツと目の粗いウールのジャケットだ。いつもであれば。しかし、今日はそこにレンガ色のベストが混じっていた。
何のことはない。ただの防寒だ。このごろ急に冷えるようになってきたし不思議に思うことなんてなにひとつない。いまだにマフラーひとつで我慢しているわたしの方が異様だ。
しかし、これがもしもファッションだとしたら? いつも暗めの色の服を着ている師匠が、鮮やかなレンガ色のベストなど自ら選ぶだろうか……。それに、どうしたって手編みにしか見えないのだ。誰かからのプレゼントだろうか。
「で、施設のほうはどうなんだ?」
わたしの視線に気づいたのは、コホンと咳払いをして話を変えた。
数秒間、わざとらしく目を細めて様子をうかがってみるが師匠は動じない。それもそうだ。向こうはわたしがなにを考えているかなどわからないのだから。
わたしはカップをテーブルに置いた。
「相変わらずですよ。相当気に入られてるみたいです。職員の方たちは喜んでるみたいなんですけど、なんだかうそをついているのが悪く思えてきちゃって……」
「そんなことを気にする必要などないだろう。本人が喜んでいるならなおさらだ」
師匠の言葉に唇を尖らす。
「まあ、そうなんですけど」
なんだか腑に落ちない。
『君の名は』ってタイトルの朝ドラがあったんですよ。