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プロローグ 〜 退屈な日々の始まり

 この記録を私以外の者にみせてはいけない。

 もしこの記録が、多くの人達の手に渡ることになったら、私が馬鹿ではないかという、誤ったイメージを世間に与えてしまうからだ。


 風呂上がり、私は冷蔵庫に入っていた牛乳で、喉を潤す。

「アカネ、袖汚い」

 着ている青のパジャマの袖で、口を拭いていると、リビングに居た姉――私は雪姉と呼んでいる――に注意された。

 私は笑顔でごまかし、さっさと二階に上がる。風呂に入る前読んでいた本が、もうすぐ終わるところなのだ。続きを考えながら登っていたせいで、あやうく突き当たりの壁にぶつかりそうだったが、ギリギリで右に避け、自分の部屋に入る。


 電気を付けると、女の子らしい、と自分では思っている、緑っぽい印象の部屋が照らされる。窓を開けているので、庭の方から鈴虫の声が聞こえる。まだ昼は暑いが、夜は冷房を付けなくても涼しくなってきた。夏休みの二日目以降、全く使わなくなった勉強机は無視して、その隣のベッドに寝っ転がる。背中で踏んづけている本を、手で引っ張り出して、私は本を読み始めた。


 二十分程で読み終わり、一息入れる。なんとか読書感想文の本を読見終わった。小学校三、四年生向けの本だったが、思っていた以上に内容の濃い面白い本だった。部屋に入ってきた、涼しい心を奪われる。爽やかな夜風が、読書の興奮を冷ましていく。外から聞こえてくる羽音には、知らないうちに、コオロギの音色が加わっている。

 なんか綺麗。これが、虫の音楽祭と言うやつか。

 オーーーーーイ。

 そう思った瞬間、自分の腹から野太いおじさんの声がした。

 オーーーーーーーーーーーイ。

 もうちょっと静かにしてほしい。せっかくの風流な雰囲気が台無しだ。全く、いっつもこいつは空気が読めない。もし、学校が始まった後も、この声を出してたらただじゃおかない。

 あれ、そういえば、私は今日晩ご飯のカレーをおかわりしたはずだ。

 きゅるるるるるる。きゅー。

 いまさらかわいい音を出しても無駄だ。

 食欲に歯止めのきかないこいつを殴る。数分後、少しお腹が痛くなり、どうやら反省してるみたいなので殴るのをやめた。


 疲れたので、布団に仰向けになり瞑想していると、何か忘れている気がした。目を開けて、視界の端にあった、カレンダーにピントを合わせる。今日は八月二十四日。夏休みも残り一週間だ。

 あることに気づいた。ベッドから跳ね起きて、側にある勉強机の方を素早く見る。クシャクシャのプリントの束が椅子の下に落ちていた。何か嫌な予感がする。床に落ちているその束を手に取ると、それが夏休み前にもらった、数学の課題だということに気づく。変な感覚の正体はこれだったのだ。


 夏休みの初日に手をつけた記憶はある。しかし、途中から解けなくなったので、諦めて放置していた。何ページ終わっていたっけ。震える手を動かし、ページを捲っていく。三十ページ中三ページしかやっていない。


 母から事あるごとに、「宿題はいつするの?」と言われていた大量のつけが遂に回ってきた。このままでは典型的な、夏休みの宿題が終わらない子供達と、一緒の道を辿ることになる。それは断固、阻止しなければならない。

 急いで他の課題も調べるが、今の状態を把握すればするほど愕然とすることになった。

 どれも提出が出来る状態とは言い難い。だがこれらは今から、いや明日から頑張れば、まだ一人でなんとかなるだろう。


 問題は、この数学のプリントだ。とりあえず、これを片付けよう。

 机の上にある目覚まし時計の針は、二十一時五分前を指している。できれば、今日中に十ページまでは終わらせておきたい。机に向かい、プリントを捲り、数学の教科書を開く。

「……。ふむぅ……」

 どうやら、人間は夏に漫画を読み続けると、数学の問題がわからなくなるらしい。

 降参だ。全くわからない。

 姉はさっきリビングにいたな……。よし、仕方ないが、容姿端麗で頭のいいあの姉に教えてもらうことにしよう。


 部屋を出て階段を降りると、風呂場の方から姉の高い鼻歌が聞こえてきた。珍しい、何かいいことがあったのだろうか。やれやれ、可愛い妹が課題に追われているというのに、呑気に鼻歌を歌いながら風呂に入っているなんて。

 姉が風呂から上がるまで待ってようと、静かなリビングに入る。昨日から、父と母は一緒に、二泊三日の温泉旅行に行っている為、中には誰もいない。明日までこの家には姉と私の二人だけだ。

 すこし寂しい。だが、遅くても明日の夜には帰ってくるだろう。お土産もいっぱい買ってきてくれるはずだ。


 ソファに座ると、前にある机の上に、自分の服が綺麗に畳まれて置かれていた。

 母の居ない間、家事や炊事を雪姉がしてくれている。私も姉を手伝おうと思っていたが、最初にやろうと考えていた洗濯は、私が起きた時にはもう終わっている。それならと姉の料理の手伝いをすることにした。だが、野菜の下準備を頼まれた時は、野菜を切る前に指を切って騒ぎを起こし、その騒ぎの後、料理の味付けをお願いされたので、さっきの汚名を返上しようと、調味料をこっそりアレンジした結果、変な味の肉じゃがが出来上がることとなった。さらに炒め物を任されても焦がしたりと、私は惨敗した。

 へこんだ私が、自信をなくして部屋に閉じこもっていると、料理を作り終えた雪姉がやって来た。雪姉に優しく励まされ、思わず私はうるっときてしまった。

 常日頃から姉に対抗心を燃やしている私は、彼女の精神攻撃により、プライドを大きく傷つけられた。


 その後、母の居ない間の家事と炊事を任せる気まずさを、トイレ掃除大臣になることで乗り越える以外になかった。

 迷惑をかけた姉には、今度コンビニに行ったときにでも、好きなスイーツを買って来てあげよう。励ましてくれたので渡すわけじゃない。


 時計を見るとあの読書時間も入れて、もう三十分位は経っている。遅いな、私なんて十分もあれば上がるのに。

 オーーーーーイ。

 またあの親父が復活した。私は再度、親父をボコボコにした。

 お腹が痛い。悪い物でも食べただろうか。

 オーーーーーーーーーーイ。

 この親父はボディアーマーでも着ているのか。しょうがない、何か腹に入れよう。


 キッチンに向かい冷蔵庫の扉を開く。何か甘いものが食べたい。たしかメロンアイスがあったはずだ。しばらく冷凍うどんや冷凍食品の中を探すが、アイスはどこにも見当たらない。何か他になかっただろうか。ひょっと、果物ゼリーが出てくる淡い期待をしながら、もう一度冷蔵庫をくまなく探す。

 結局見つかったのは、一昨日遊びに来た母の友達が、お土産として置いて行ったプリンだけだった。母の友達が帰ったその夜、私はプリンを食べてしまった。父と母も食べていたのを見た気がするので、恐らくこのプリンは姉のだ。


 その時、私の中の悪魔が、プリンを食べようと囁いた。だめだ、そんな事してはいけない。雪姉はこのプリンを食べるのを楽しみにしているはずだ。今思えば、風呂に入りながら鼻歌を口ずさんでいたのは、風呂上がりにこの好物を食べようと考えていたからかもしれない。

 雪姉が、美味しそうにプリンを食べる姿を想像して、必死に自分の欲望と闘う。何とか冷蔵庫の扉を閉める。

 扉を開きたくなる誘惑に襲われる。私の脳内では、善と悪の壮絶な戦いが始まろうとしている。

 勝敗は分かりきっているので、その前に冷蔵庫から離れて自分の部屋を目指す。

 心の中で悪の剣と善の盾が対峙する。

 私は急いで階段を登り、忍者のように廊下を走る。

 剣が勢いよく斬りかかり、盾は力を込め身構えた。

 私は部屋のドアノブを回し扉を開けた。

 刀身が弾かれることなく盾を紙のように切っていく。

 意識が薄れていく中、明るく光り輝く部屋の中に、うっすらとプリンの面影を見た。


 気がつくと、私はベッドの中でプリンを口に含んでいた。私はなぜプリンを食べているのだ。姉に勉強を教えてもらいにいったのではなかったか。

 容器を見ると中のカスタードが三割ほど減っていた。バレるとは思うがとりあえず冷蔵庫に戻そうと、開けたプリンの蓋をもう一度はめ直した。姉が来る前に早く戻さなくてはならない。自分の部屋のドアノブに手を掛けた。


「アカネ。ちょっと入るね」

 突然無機質な雪姉の声が、扉の後ろで聞こえ身体が勝手にドアの鍵を占める。

 ガチャッ。

 扉が開かれる直前に鍵が掛かり、敵の侵入を食い止める。

「なんで鍵を閉めたの。なにかやましいことがあるの?」

「い、いや無いけど、服着替えようとしたの。見られたら恥ずかしいから」

 明らかに、いつもと声のトーンが違う。緊張で、声が上ずってしまった。

「何を言ってるの? 女同士で恥ずかしさなんて感じる必要ないわ。さぁ、ドアを開けなさい。ちょっと、聴きたいことがあるの」

「待って。ほら、私も中二だし、少しは色気も付いてきたじゃない? だから、黒のパンツなんていうさ、大人っぽいパンツ買っちゃったから恥ずかしいの」


 内緒にしていた秘密を、こんな口実に使うことになるとは思わなかった。しかし、今ここで姉を部屋に入れるわけにはいかない。このプリンを見られたら終わりだ。

「貴方くらいの年頃だったらそれくらい普通よ。でも、どうしても見せたくないっていうならここで待っとくわ」

「あの、いろいろやる事があるから長くなるわ。それより何? 私に話があるんでしょ」

「大変なのね。あぁ、聞きたいことっていうのはね」

 姉がそこで、意味ありげに一旦言葉を区切る。次にくる言葉が、容易に想像できて、身体中の毛穴から、変な汗が噴き出しくる。


「プリン、知らない?」

 ――予想できていたはずなのに、一瞬頭が真っ白になった。姉が言葉を発してから、何秒経っただろうか。黙っているのは、知っていると肯定するのと同じだ。

「プリン? プリンがどうかしたの」

「いや、知らないなら別にいいの。それだけ」

 雪姉がそう言うと、ドアの後ろの気配が消え、なんとなく寂しげに廊下を歩いていく足音が聞こえた。


 ごめんなさい。と、心の中で謝る。雪姉の悲しんでいる顔が頭に浮かび、罪悪感が身体を痒くすると、後悔が胸に宿る。


 手に持っているプリンがあのとき感じた魅力を失い、私に罪の重さを伝える。今から謝れば許してもらえるだろうか。

「アカネ、一つ聞きたいことがあるんだけど。」

 さっき、廊下を歩いて行ったはずの、足音の主がまた戻って来ている。

「どうして部屋からプリンのあまーい匂いがするの?」

 何か答えなければいけないと分かってはいるが、さっきから、思考をプリンという言葉が埋め尽くしている。

「出てくる気はないのね」


 雪姉の気配が消えた。私は悪い子だ。勝手に人のものを食べて、さらにそれを誤魔化すために嘘をついた。謝ろう。赦してもらえなくてもいい。


 鍵を外し扉を開くと、プリンを食べられた悪魔がいた。姉の鷹のような鋭い目つきは、私の左手に握られたプリンの容器を見つめている。怖くて逃げ出したくなる。腰の高さまである艶やかな黒い長髪は私がどこに逃げても、どこまでも伸びて追いかけてきそうだ。

「その手に持ってる容器は何?」

 潔く謝るしかない。覚悟を決める。

「ごめんなさい、私が食べました」

 彼女の整えられた眉が不満そうに形を変える。

「そう……。で、まさかそれだけでは赦されるとは思ってないでしょうね?」


 そう言って、雪姉のお人形のような唇が笑う。

 姉上、そうとう怒っているようだ。

「はい、何なりとお申し付けください」

「うむ、それでよろしい」

 雪姉が納得したように、満足げに頷く。

 罪を償う覚悟ができた。もう心は清々しい。

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