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別れ際に伸びをする

作者: 憂木冷

 三番のプレートをテーブルの上に置き、僕の向かい側に座ると、どこかの国の民族衣装ような、幾何学的で繊細な模様のゆったりとしたティーシャツを着た少女は、「私。ホントは悪いんだ」と話し出した。

 思いつきで行動する小学生のような唐突なその会話の始まりは、人間関係の中で暗躍する様々な意図がまるで感じられなくて、とても自然だ。理想的な会話の始まり方は、いつだってさり気ない方がいい。

「へえ、どうしたんだい」

「今日、自販機でお茶を買ったのよ」

「よくあることだね」

賢四けんしはよく使うんだ。私はなんだか久し振りに使ったんだ」

 自販機。と言葉尻につぶやく。

 言われてみると、僕もそれほどよく飲料水用の自動販売機を使うことはないかもしれない。お互い別の高校に通う高校二年生だ。僕と西園にしぞの西華せいかは、ドラッグストアでのアルバイトを終えると、よく一緒に食事をする。アルバイト代の使い道として、ひとりでいるときに、何の特別な理由もなく、ただ喉を潤す目的でお茶を買うというのは、かなり優先順位の低い使い道と言えるだろう。

 それでも、月に一回くらいは使っているだろうか。少なくとも、自動販売機を前にして「久しぶりだなぁ」と感慨を覚えた記憶は、一度もない。

「確かに、意図して使うものでもないよね」

「うん。それでさ」

 深刻な事態について説明しようとするときのように、西華は一息唾を呑む。

「お釣りが、出てくるじゃないか」

「正常な自動販売機なら、入れた金額と商品の差額を出すだろうね」

「だよねえ」

 僕はシンプルに事実を言っただけだったけれど、西華は強く同意を求めるように、テーブルにやや身を乗り出した。ティーシャツの幾何学模様がそれに併せて揺れる。静止画なのに、動いているように見える心理学の画像みたいだ。

「どうしたんだい」

「どうしたって……多かったんだ」

「何が」

 と言い欠けて、この場合多かったと言えば、それしかないかなと思い直して言い直した。

「お釣りが多かったの」

「そう」

「それはたぶん。誰かがお釣りを取り忘れたんだろうね」

 推理と呼べるほどのことでもない。ただのよくある話。僕だって昔、お釣りの小銭を取り忘れたことがある。自動販売機を使ったことがあるなら、同じ経験を共有している人物はかなり多いだろう。

「私はそれをもらっちゃったんだ。すぐに小銭がやけに多いことに気付いたのに、そのまま財布にしまっちゃったんだよ」

「……」

 ラッキーだね、よくあるよね、それがどうかしたの、悪いって言うほどのこと、話の内容があまりにもふつうの出来事だ。

 一瞬言いたいことがいくつも浮かんで、でもどれも言うべきことではない気がして、

「へぇ」

 と曖昧にうなずいた。

 自分の声に感情が乗った感じがしなかった。

「私は悪いんだ」

 と西華は繰り返す。

 なんだかその姿は、睡眠時間の短さを自慢する子どもに似ていた。今日は三時間しか寝ていない、とか。二日寝てない、とか。

 それはいったい自分の何をアピールしたいのだろう。

 そして僕は強く心中で「ふつうだ」と思った。誰かが取り忘れた自販機のお釣りをもらってしまうエピソードが、誰かにわざわざ話すような悪事とは思えない。もちろんほめられるべきことではないにしても。お釣りを取り忘れるのと同じくらい、誰もが経験したことのある出来事のという気がする。

「悪いの基準がかわいらしいね」

 そんなこと、罪悪感を感じずに行えるヒトの方が多いのではないだろうか。

「そんなことない。悪いんだ、私って奴は悪いんだよ」

「じゃあこうしよう。今から僕と西華で、世の中の悪いことを五つのレベルに分けるんだ」

「五つ」

「たとえば、ヒトを殺すことはレベル五、拾った一円玉を自分のものにするのはレベル一」

 西華が何かをアピールしたいのか、気付いて欲しいことがあるのか、本当は何も考えていないだけなのかはわからない。けれど、意図なんてどうでもいい。お互いが相手の意図を汲まなくても、勝手に流れるような会話の方がずっと楽しい。僕はひとまず、西華の「悪い」が別に取り立てるほど悪いことではないと、説得する方向に話を進めてみることにした。

「三番でお待ちのお客様――」

 モスバーガーの店員がハンバーガーのポテトSセットを二人分トレイに乗せて持ってきた。僕がテリヤキチキンバーガーで、西華がモス野菜バーガー。ドリンクは二人ともアイスティー。マクドナルドでもロッテリアでもよかったけれど、今日はモスバーガーが僕らの夕食だ。

「ヒトを殺すことが一番悪いことなの」

 と西華は自分のアイスティーにミルクとシロップを入れながら言う。指先に付いたシロップの滴を唇でなめて、紙ナプキンで指先を拭いた。

 とても無邪気な質問に思えた。

「わからないよ」

 と僕は答える。

「だけど、一番悪い部類には入るんじゃないかな」

「それは宇宙を壊すのと同じ部類」

 不思議と嬉しそうな表情でそんな質問をする。これはまじめな質問ではないのだと、当然わかったけれど、僕は至ってまじめに、「そんなこと誰もできない。悪っていうのは、ヒトの行い以外に使うべきじゃないだろう」と、思い切り格好つけて答えた。咄嗟にしては、冗談みたいにまじめな言葉が思いついて、それがなんだか滑稽で、僕らは同じ間で笑った。

「じゃあ変える。ヒトを殺すのは、地球を壊すのと同じ部類であってるの」

 西華はモス野菜バーガーを頬張った。ハンバーガーをおいしそうに食べる姿を愛おしく見つめるような間柄ではないし、僕もポテトを一本摘んでかじった。

「へえ。なかなか気の利いた質問だね」

 宇宙が壊れるのも、地球が壊れるのも、今の僕たちに取って、感覚としての差はない。どちらも取り返しのつかないほど大規模だ。それでいて、世界中の核兵器を一斉に作動させたら、星ひとつくらいなら壊せてしまうんじゃないかという気がする。

「どう考えても、星を壊すのに比べたら、殺人の規模は小さいよね」

「確かにそうかもしれない。でも答えは残念ながら、まだ殺人はレベル五のままだ」

「どうしてよ」

「地球を壊せば、悪は滅びる」

 僕らは笑った。

 すました顔で言えてよかった。僕はこのセリフを思いついた瞬間から、それを言う自分を想像して笑い出してしまいそうだった。冗談というのは、照れが混じっていては面白くない。本気で言っているように見えなければ、滑稽さは滲み出て来ないものだ。

「今日はトークが冴えてるじゃない。何かいいことでもあったの」

「特別なことは何もないよ。きっと誰かが僕の今日を審査したら、大抵はつまらない一日だと判断するだろうね」

「じゃあ、昨日、何かいいことあったの」

「そういう話の流れじゃなかっただろう。西華はバカだね」

「ひとこと余計だよ」

 怒って僕のテリヤキチキンバーガーの、上に乗っているバンズだけを奪い取って食べようとする。

 しばらく実にくだらなくて楽しいバンズ争奪戦が繰り広げられた。西華が一口僕のバンズをかじった時点で、僕も西華のハンバーガーからバンズを奪い取って戦いは集結した。

 どちらのバンズも一口ずつかじられた状態だから、公平に戦いは終わったと思っていたが、後から思えばどちらもその一口分をかじったのは西華だった。僕の方が一口分損をしている。視覚情報だけでうっかり平等性を受け入れてしまった。

「さっきまで何話してたんだっけ」

「さあ。よく覚えていない」

 思い出そうと思えばたぶん思い出せるけれど。どちらでもいいと思った。どこかから引っ張ってくるよりも、流れるような会話の方が今は楽しい。

「なんだったかなあ」

 幾何学模様の少女はポテトとハンバーガーを交互に食べながらぶつぶつつぶやく。

「あ、そうだ。賢四に何かいいことがあったって話だ」

「別にいいことがあったって話ではなかったと思うよ」

「じゃあなんだよ」

「西華が勝手に、僕になにかいいことでもあったのかって訊いてきただけだよ」

「覚えてるじゃん。嘘つきだなあ」

「君の話を聞いて、今、この瞬間に、ぱっと、思い出したんだよ」

 嘘ではなかったけれど、わざと冗談めかして言う。僕が嘘つきだと思われるかどうかは重要なことではなかった。

 試行錯誤だ。いつだって。

 楽しいことするための。

「絶対嘘だ。その言い方は嘘にしか聞こえない」

 と西華は大げさに言う。もちろんそれは、嘘を吐く容疑者を刑事が追求するような切迫した言い方ではなく、大人の嘘を見破った子どものような、いたずらな優越顔で。

 こういうことが、楽しいな、と思った。

 話し相手が笑っているのが楽しい。

 それに、おいしい食事は、少しだけ幸せの感度を高くしてくれる気がする。高級食材でなくたっていい。有名シェフでなくたっていい。少しだけ僕らの緊張を和らげてくれるような、些細なおいしさで十分だ。

「別に嘘を吐く意味なんかないでしょ、本当に本当だよ、真実で事実だ」

「言葉って重ねると、信憑性がなくなるんだよ」

「面倒くさいな西華は」

「どっちがだ。私は賢四よりメンドクサい奴は見たことがない」

「面倒くさいくらいの方が話していて退屈しないだろう」

「ばか、私は賢四と話してるときはいつも退屈感じてるから」

「僕は西華と話すの楽しいけれどね」

「なんだその急なデレ。あんたツンデレだったのか」

「ツンデレって、そろそろ死語じゃないかな」

「勝手に死ぬな」

「何その雑な返し」

 結局。様々な会話が途中で投げ出されて、始まってまた投げ出して。そいういう繰り返しになっている。会話に結末とかオチは、必要のないものなのかもしれないと、だんだん思うようになってきた。たぶん結末がないのは、終わらせるのが惜しいからなんだろう。

 心地いい会話は終わらせるものじゃなくて、たいてい切り上げるものだ。

 ハンバーガーもポテトもなくなり、アイスティーもなくなり、それでも話す言葉は尽きる様子がなかった。まだ西華が今日着て来た、幾何学模様のティーシャツについてすら触れていない。そんなの初めに話題に上げるべき注目の存在のはずなのに、そんな暇がなかった。

 時計を見ると、十一時を回っていた。

「そろそろ行こうか」

「あー、もうこんな時間か」

 なぜかヒトは、別れ際に伸びをすることが多い気がする。

 西華は両手を組んで裏返し、座ったまま「ん、んー」と伸びをした。

 この時間をもう少し引き伸ばしたい。そんな洒落た心理行動だろうか。そうなんだとしたら、とても同感だ。意味がなくても、楽しいことは続けばいいと思う。

 立ち上がって。

「そういえばその変なシャツなんなの」

「あ、そうそう、これさあ」

 ありがとうございます。と声を掛ける店員に軽く会釈しながら、僕らはモスバーガーを後にした。

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