stage3
もう、意味が分からなかった。笑顔の意味も、血の気が引いていく理由も、考えたくなかった。考えれば考える程頭が真っ白になっていく。真っ白になると、体が無意識のうちに生きようと動く。そこに理性など無い。それに後から気付いて現状を見つめてみれば、目を背けたくなる事実が自分を叩き落そうとしてくる。これを毎回繰り返すくらいなら、いっそのこと何も考えない方が楽だ。
隣の方から、忙しない息の音が聞こえてくる。重力に任せて下に落としていた視線を、ふと、そちらに向ける。
男の子だ。頭を掻き毟っている上に、過呼吸の状態になっている。掻き毟られた頭から、赤く染まった雲脂が髪の毛と共に落ちていた。痛みなど感じていないのだろう。指先が血で真っ赤に汚れているのにもかかわらず、掻き毟るのを止めない。
優香はその男の子をじっと見ていた。いや、「見ていた」というのは間違いかもしれない。優香の視界はまるで靄でもかかったようにぼやけていた。何も考えていない今の優香には、命の危機が迫らぬ限り、見ることすら億劫なのだ。
そして、また突然椅子が消えた。皆、尻餅をついたが、誰も、言葉を漏らすことは無かった。その静寂の中、2脚の椅子が音も無く現れる。椅子の足が、ちょうど先程と出来たばかりの血溜まりを踏みつけるような位置にあった。無機質な黒に、鮮やかな赤が映えて見え、胸の奥のほうにずっしりと重い何かができる。勿論、それが何であるかは考えたくも無かった。
『みなさん、何をぼうっとしているのですか?ほら、さっさと立ちなさい。私は少々せっかちなんですよ?』
生き残った五人は、ゆっくりと立ち上がった。
この時のこどもたちは既に、おもちゃの兵隊でもなく、獣の形でも無いものになっていた。
あんなにギラギラ光っていた目は生気を失い、死んだ魚の目のようになっていたのだ。腕も脱力して、折れているのではないかと思うほど宙に投げ出されたままになっている。
こどもたちは、事切れた操り人形だった。皆、心がボロボロになっていたのだ。
そんな事はお構いなしに音楽は流れ始めた。それは操り糸となって、こどもたちを動かせる。「天国と地獄」の軽快なメロディーの中に、重く暗い、足をひきずる音が混じりはじめた。動く力も残っていない足を無理矢理動かしているのだ。足が上がるはずがない。だから、この不協和音に気付いている者は、ここには誰一人いない。気付いている者といったら、このお遊戯の主催者だけであろう。
たった2脚の椅子の周りをぐるぐる永遠と歩く。こどもたちは、きっとこの椅子に座ることさえ、今は忘れているだろう。音楽が止まったら、皆思い出すのだ。椅子に座れば助かるということを。そのため、今回は前回、前々回とは変わって、生き残れる者は、生きる意思をはやく取り戻したものとなる。しかし、こんな状況で、壊れた小学6年生に何ができるというのだろうか。生きるという本能さえ壊され、また友達の血をあびる恐怖にさらされ、考える事を放棄した子供たちに、生きることを諦めないことができるのだろうか。
いまだに、こどもたちの首は垂れている。なにより、正気を失った目が、絶望を湛えていた。真っ白な床を見ているはずが、光のまったく届かない深海を見ているようだ。こどもたちの精神は、そんなところに置いてけぼりにされているのだろう。そうだったとしたら、そんな精神と肉体のいる場所が違う中で、生きる希望など見出せるのだろうか。
歩く度に足は、さらに力を失っていった。こどもたちの歩く姿は、生ける屍に変わっていた。あの声の主は、それを分かって、音楽がいつもより長く流しているのだ。
更に異常な空間が出来上がっていた。勿論、今までも異常だった訳で、今更このように表現するのは文章表現としてはそぐわないのだろう。が、そう表現することしかできない。何故なら、「異常」を通り越した地点にある、誰であっても目を背けてしまいたくなるような光景だからだ。それを言葉にしようとしても、言葉が途中で姿を消してしまう。言葉でさえその光景を造形するのを拒んでしまうのだ。
こどもたちが、もう動かない足をひきずってまで歩いている空間は、その位、惨い空間であった。
そのうえ、その悲しみを表現するための涙も、その苦しみを叫ぶための声も、枯れている。いや、それ以上だ。「悲しみ」も「苦しみ」も感じなくなってしまった。
それを見て、もう飽きたのだろうか。あれだけ長い時間流れていた音楽が、ぴたりと止んだ。
それと同時にこどもたちの動きが止まる。これが、生死を分ける時間、「生きる」ということを思い出すための時間となるのだった。
この時間に入った瞬間、優香の心臓がドクリ、と大きく動いた。何かを訴えるようなその音が、優香の精神を、本能を、本来あるべきところに戻す。
優香の目に、光が戻った。そして、生きたいという意思が、心の中で猛火の如く燃え上がった。
次の瞬間、優香の足は椅子めがけて強く踏み出されていた。こうなったら、やることは既に分かっている。今まで引きずっていた足を、操り糸を引き千切るようにして動かし、精一杯走った。
足を引きずる音も消えた静寂に、優香の足音が罅をいれる。その刺激が伝わったのか、二人のこどもたちは意識を取り戻し、急いだ様子で、椅子に向かって走り出した。
だが、もう遅い。優香とその二人の差は、距離にすれば短いが、生死を分ける時間とすれば、とても大きなものだった。
優香は二人が走り出した頃には既に、しっかりと椅子に座ることが出来た。そのため、二人はそれを見てから照準を合わせることになる。これがどういったことを示しているかというと、1脚の椅子を、二人で取りあうという、体力を消耗する行為をやらねばならないのだ。体力の低下は、判断力を鈍らせる。これが、優香との差が大きくなる理由だ。
二人のこどもは激しく衝突して、床に倒れこんだ。二人共、一瞬だけ意識を失ったように動かなくなったが、それに抗うように華奢な女の子が、鼻を押さえながら先に立ち上がった。鼻の中でも切ったのだろうか。血がぼたぼたと押さえている手を伝っては垂れ、床に赤い斑点を作っている。
そのころ、やっともう一人のこどもが起き上がった。スポーツ刈りの男の子だ。彼は起き上がるや否や立ち上がったが、その時にはもう、女の子は椅子にしっかりと座っていた。
座れなかったこどもたちは、只々呆然と2脚の椅子と二人の生存者を見つめていた。そのまなざしは、責めているようで、空っぽだった。
それからは、
誰も、叫ばなかった。
誰も、泣かなかった。
静寂が帰ってきた。
そして、
また、罅がはいった。
鈍い音が、二人の耳に突き刺さる。血が降り注ぎ、今度は肉片があちこちに飛び散った。見間違いかと思ったが、これも現実だった。優香の膝のあたりに、誰のものか分からない一本の指が落ちてきたのだ。
『あぁ、ごめんなさい。適当に済ませたら、力の加減を間違えてしまいました。まあ、別にどうってことはないでしょう。
それより、今まで流していた音楽にも飽きてきましたね。違う音楽に変えましょうか。』
声が止むと、いつものように椅子が消えた。二人は尻餅をついたが、すぐに立ち上がる。そして、またいつものように置かれた椅子に正対した。
たった1脚の椅子が、血溜まりの中に佇んでいる。殺された18人の命の上に立つその姿は、あの声の主の象徴のように思えた。
『さぁ、次で最後のお遊戯ですよ。今度は、しっかりと歩いてくださいね。』
嘲る声が優香の耳にこだまする。だが、顔の筋肉は一ミリも動くことは無い。
優香の心には、生きる意思がしっかりと灯っていた。それは、人が人であるために必要なことの一つであり、生物としての証である。だから、それをどこかに置いていってしまってはならない。生きることを、どんな状況であっても放棄してはならない。
優香は、目を瞑り、ゆっくりと息を吸って、細く、長く息をはいた。心臓の音がひいていくのを感じる。胸の奥で、あまりに張りつめて切れそうになっていた糸が、少し緩む。
少し落ち着き、ゆっくりと目を開けた時、
音楽が流れ始めた。
その音楽の名は、ショパンの「幻想即興曲」。
「幻想」のように甘美なピアノの音色は、優香の心の表面に血の花を一輪咲かせ、そっと心を抉った。




