はじまり
待ちに待った監督の新作がずい最近、劇場公開したっていうことを知って、僕は普段のように軽く着替え、近くのシアターに映画を観に行った。エレベーターに乗って8階まで上がれ、シアターに入ればそこは薄暗い広場みたいな所であって、前にはチケットボックスが見え、そこら辺のカウンターの裏に係員が立っている薄い姿が見えた。いや、薄いなんてただ光が足りないからそう見えるだけで、本当に、一体僕は何を言っているんだろう、本当にその係員たちが薄いわけではなく、実は光が足りなかっただけ。そんなわけで僕は、僕が何か間違ってるのではないか、予約した方がいいよなとかをしばしば考えながら、カウンターの前に立った。まるでアヌシーみたいに。アヌシーは犬の名前である。
「何かご用ですか」
「いいえ、映画が見たいんですけど」
「映画ですか。なんの映画ですか」
「えっと、それがですね、花とアリス、いや、殺人事件です。殺人事件ください」
「「花とアリス殺人事件」でよろしいでしょうか。今日はメンズデーなので、お一人様千円でございます」
「はい。ちょっと待ってください」
ポケットの中に僕は手を入れ、財布を探し、財布が家を出る時と同じくそこにいることに余計に安心し、財布を開けて千円を出した。昨日か一昨日、母さんからもらった切れすぎた千円だった。本当に、母さんは潔癖症だから、紙幣も料理もみんなそうだ。
「千円ちょうどお預かり致しました。こちらがチケットで、こちらがパンフレットです」
「ありがとうございます。パンフレットは映画のものですか?」
「はい。そうです。「花とアリス殺人事件」のものです。他はあそこにありますので、よかったらどうぞ」
「あ、ありがとう。映画は何時に始まりますか。その、殺人事件」
「「花とアリス殺人事件」は3時40分に始まります。今3時20分ですから、入場は3時30分から始まります。まだ10分残ってますね」
「そうですか。助かりました。ありがとうございます」
「いいえ、こちらこそ」
女との対話は、いつも難しい。いや、男との対話もそうだけど、女との対話はよっぽど難しく感じられるんだ。まるで喋る壁にぶつかって話すみたいだ。相当疲れる。それは多分僕が男であって、遊んだり話し合う相手もほとんど男だったからであろう。女と遊んだり話し合ったりしたことは、人生の中でも5回か、6回ぐらいだ。まあ、それもある男たちに比べると、結構多い方だと僕は思ったりする。真実はわからないけど、統計ってやつ。僕はそれを信じている。人間よりも、そして心よりも。
映画はまだ始まってない。遅いものだ。スタートって言えばわかるかな。マラソンもそうだけど、始まる前は出発線の前に立っても緊張することしかできない。緊張してトイレに行きたいくらいだけど、トイレに行くこともできず、ただ焦ってるだけ。で、本番が始まると一瞬緊張が消える瞬間がやってくる。嘘みたいに。僕が直接走ったことはたった一回しかないけど、その瞬間の、全身の肌が立つ感覚は、今でも覚えられる。
僕は映画が始まるまでに、トイレに行くことにする。マラソンとは違って、映画はいつでもトイレに行けられるもんだ。トイレに行って僕は小便を済ませ、水と石鹸で手を洗う。手を洗うことは嫌いじゃない。むしろ好きだ。なんでかと言うと、水は冷たくて気持ちいいし、石鹸も滑らかでいい香りがする、だから気持ちいい。手を洗って僕はハンドタオルで注意深く水気を抜い、トイレを出る。トイレを出るともう直ぐ映画が始まるという声がしたので、僕はチケットを持って入り口の前に立つ。だがいつも思うのだけど、なぜ僕らは映画が始まる前に、こうやって立ってる必要あんのかな。JRの改札みたいに、チケットをチェックするだけで入れることはできないかな。なんらかの事情があるわけだけど、よかったらそうやってほしい。いつも立って待機することは面倒くさいし、非効率すぎる。思ってみればわかるだろうに、なぜいちいち人たちを立たせてチケットを確認するのか、よくわからないんだ。まあ、それは別にいい。今映画の上映準備ができたみたいだ。人たちが次々と劇場のなか、いや、入り口の中に入り、僕もゆるゆると前に進んでいく。僕のチケットを男の人が軽くチェックし、僕は本当に映画館に入ることができる。ここは4館しかないけど、9階に10館まであるそうだ。多分ジブリとか是枝裕和とか、そんな人の映画のために待機しているんだろう。それはいい。別に問題ない。僕は4館のあれに入ろうとした。正確に言えば、前を見て番号を確認し、入ろうとした。だが、いつも思うのだが、なんで僕はたびたび狂ってしまうんだろう。今みたいに、変な声が聞こえたりして。
「おい、てめぇ。映画なんか観れるもんか。今重要な問題があるんだろう?」
「重要な問題ってなによ。そう言ってもわかんないってば。説明してくれよ。クソども」
「もう呆れたよ。黙って見るもんじゃない。説明したくもないんだ。自分から探せ」
「いやだよ。そんなこと。僕は映画を観に映画館に来たし、ちゃんと映画を観て帰りたい。てめぇがなんてくだらないことを大雑把に言っても、僕はそれに反応することもないし、答えることもない。なんでも言ってみなよ、全部無視してあげるから、このガキ」
「じゃあ、インコのことを捨てても平気でいられるってこと?」
「インコ?なにそれ。よくわからない」
だが答えはなかった。たった一瞬だった。精神が戻ったら僕は汗をかいていて、周りの人はもうほとんど映画館の中に入っていた。僕しかいない、いつもそう。僕は深くため息をして、その4館に入った。幸いなことに映画に集中することができて、僕は楽しく2時間を過ごした。映画って素晴らしい。本当、眼を瞑って開けたら2時間が過ぎている。これは映画以外なにもないんだろう。漫画とか小説は、ページを巡らないとだめなんだから。
映画館を出て僕は、ゲーセンに行くか、それとも食堂で夕食をすませるか悩める。ビルの中にゲーセンとフードコート、全部揃ってあるだろうけど、ゲーセンは一階下にあるし、フードコートは3階と5階にいる。5階の食堂が一番近いんだけど、近い分相当高いんだ。ゲーセンはまあ、他のゲーセンと変わらないし値段もそんな高くはないけど、揃っているゲームの種類が指で数えられるほどであり、そんな楽しくないのも短所であった。時間の余裕を持って僕は、今食事を済ませてゲーセンに行くか、ゲーセンに行って食事を済ませるか、考えてみたけど、やっぱり今日はゲーセンは無しにしよう。やりたく気分でもないし、お腹も結構減ってるから、5階でもっと豪華な食事をする方がいいだろう。エレベーターに乗る前に僕は、変な声が聞こえないか耳をすませてみたけど、何も聞こえなかった。あれはなんだったのかな。インコって、鳥以外何がいる?僕のアヌシーみたいに、犬の名前でもないんだったら、じゃあ、本当鳥のこと?わからない。未解決というシールをつけ、僕は5階に降り、寿司を握る食堂に入った。いわば寿司屋っていうやつだ。
寿司がうまいかうまくないか僕はよくわからない。いつも回転寿司は見逃しにするふりをして僕は、1,500円とか2,500円とかする、重とか竹とかで呼ばれるやつを注文する。重は10個のやつ、竹は12個のやつであり、竹の方がもっと高い。今度僕は重を注文しているが、それはお金がないわけじゃなく、ただ味噌汁を筍の入ったやつに変えたからだ。それがなんで理由になるかっていうと、筍の方が300円高いから、その分寿司の分量をダウンしたっていうか、ダウングレードしたっていうかまあそんな感じで、寿司を食べても味をわからないから困る、だからその分味噌汁で補充する。本当、笑わせるなよとかいう人もいるかも知れないけれど、寿司の味をわからない人って、結構いるんじゃないかな。僕が回転寿司を見逃しにするふりをやってるみたいに、他の人たちも寿司とかわからないけどなんだか味をわからないとか言われたくない、だから「ああ、これは美味しい。ありがとう職人さん」「おお、これは素晴らしいな。まるで夢見るような味だ」とか言って、自分の教養なさを無化しようとしてる、せめて誤魔化せようとする、僕はそう思う。
寿司を美味しく食べて僕は、ずいぶん疲れたけどあえて本屋に行くことにする。なぜ本屋さんのなの?と言われたらはっきり言い難いだろうけど、時間を潰すにも、腹を安定するにも役立つからだと答えるしかない。とにかく僕は本屋に入って、本を読みながら時間を潰した。30分ぐらい経ったかな、もう帰ってもええやと僕が思った瞬間、また変な声が聞こえ始まった。今回はさらに強かった、立ってることすらできないくらいに。
「おい、時間だぞ。インコが君を呼んでいる。応答しないのかよ」
「ああ、なんで?なんで僕を呼んでるの?インコは鳥の名前?それとも人の名前?」
「わかんねえ、直接確かめてみればわかるだろ、酔ってるふりはよくないぞ、てめぇ」
「てめぇとかで呼ぶなよ、僕本当に酔ってるから。ビールは飲んでないけど、ビールとか飲んでると僕は酔ってないし、これはまるでウイスキーを三杯ぐらい飲んでるみたいだ。ちょっと、てめぇとかで呼ばないから、助けてくれる?後でちゃんと確かめてみるから」
「ダメだよ、もう。もう我の共にインコは付いている。今彼女は話しかけようとしている、だ、か、ら、今とか後とか、そんな言い訳は聞かない。まず言ってるけど、聞くことすらできない。さあ、準備はできたか?あり」
「ありってなんだよ。僕はそんな名で呼ばれたくない。僕の名前はちゃんとした名前で、お前とは違うんだ。で、インコさんはまだ隣にいる?なんで僕に話しかけようとしてるの?なんか狙いでもあんの?素直に言ってよ」
「さあ、それは君がじかに彼女に聞いてみればわかるだろう。もう時間だ。じゃね」
「ちょっと、何が言いたいのかよくわからないんだよぉ!インコって誰だよ、そんな名前知らないんだよ、せめて説明でもして去ればいいのに、まったく、役立たないやつだな」
酔いはもう治っている。しかしなんだか二日酔いみたいなものが僕の頭んのなかに残っていて、それが僕にしつっこく絡んでいる。脳みその裏から笑っているみたい。きっとやつのせいだ。あいつが変なことを言っているから、つい僕も調子に乗ってしまって、太鼓判を押すことになってる。物事を確かめることになってる。いつもそうだ。僕は一人になって、誰も助けようがない泥臭みたいな、溶岩みたいなとこに身を隠している。自分から隠すようとしているわけじゃない、隠されたんだ。ふう、ため息をつき、僕はインコとかには気を使わず、6階から地上まで降りて家に帰ろうとする。地下鉄で10分ぐらいの距離、歩いていけば約30分。歩いていく体力も気力もなかった僕は、おとなしく電車に乗って家に帰った。家に着いたら疲れすぎて玄関で倒れるくらいだったけど、体に残ってるすべての気力を使いこなし、部屋まであがってすぐさまベッドに倒れ、そのまま朝の9時まで寝てしまった。長いお別れを、友よ。君は最悪の友人だった。それが最初の日であった。