足の先まで数センチ⑤
流星はため息を取り落とす。
窓辺から水面まで、ゆうに十五メートルはあるだろうか。
濁りきった川面は、浅いのか深いのか判別することができない。
ところどころに突き出た石は見るからに硬そうで、打ち所が悪ければどうなることか分からない。
成瀬さん、と流星は彼のすぐ横に並んだ。
「助けて欲しいって、言っています、彼は」
達人成瀬はそれ以上何も聞かず、「分かった」とだけつぶやいた。
なんで、と流星のほうが聞き返す。
「なんで?」
達人成瀬が繰り返した。
「普通は疑問に思うはずです。……聞こえませんでしたよね。成瀬さんには、あの人が『助けて』なんて言うの、聞こえなかったですよね」
「聞こえなかったねえ、うん。それで?」
どくり、と心臓が高鳴った。
「気持ち悪くないんですか」
「うん?」
じっと流星の顔をのぞき込んだまま、達人成瀬のひとみの奥が、きらり、と光る。
「聞こえたんだよね、流星君には。だったら今はその事実だけで、十分だ」
「十分?」
「ああ。今ね、あのビルに紺色の制服を着た人たちがたくさん駆け込んでいくのが見えた。警察だよ。助けて欲しいって彼が願っているのなら、警察が抑え込んでも、抵抗しないはずだよ。だから、もう大丈夫」
達人成瀬は、心底安心したようにして、すっかり暗くなった空を仰いでいる。
「やっぱり、ああいう年ごろの子を見ると心配になるよ。弟を、思い出すからね」
腑に落ちない表情で、流星は唇をかんだ。
強くかみ締めたまま、達人成瀬が見つめている先を、ぎゅっ、とにらみ据える。
そんな流星の様子に気づき、昔ね、と言いながら、達人成瀬が声を張る。
視線は前に向けたまま、流星のほうは振り返らない。
「……おれの弟の学年に、サトリっていうあだ名の男の子がいたんだって。サトリっていうのは、ほら、人の心を読んで悪さをする妖怪のことだよ。そのサトリがね、ある日、クラスのリーダー格の男の子が『泣いている』って言い出して、その子を怒らせちゃったんだ」
流星は、欄干のはげた塗装の一点を凝視したままこの声を聞いていた。
「リーダー格の子は、もちろん否定した。泣くとか弱音を吐くとか、そういう感じの子じゃなかったから。でも、絶対に聞こえたって言って、サトリのほうも引かなかったんだってさ」