足の先まで数センチ④
「あの、成瀬さん……成瀬さん!」
達人成瀬は、若い男に向けて必死で説得している最中だった。
「悪い! その足じゃ、ここは辛いよな。ほら、そっちのベンチに座って待っててくれるか」
安心した流星は、軽くうなずいて自転車を引いた。
ところが、ふたりのすぐ後ろにいたサラリーマンが、何を思ったのか、がっちりと流星の肩を押さえ付けてきた。
「待ちなさい。君、彼の友人だろう? 自分だけ逃げるのはまちがっているよ」
「いえ、ぼくは……」
「いいから、ほら。君も話しかけたほうがいい」
あまりにも達人成瀬が親身になって説得しているので、その若い男と三人で仲間なのだとカン違いされたものらしい。
「申し訳ありませんけど……」
冷静に否定する流星の姿を見て、そのサラリーマンは自分のまちがいに気づいたようだ。
「ああ……でも、目の前の困っている人を助けるのは、大人の常識だよ、君」
それならば、自分がもっと先頭に立って説得すればいいのに、と流星は唇をかむ。
「あの、もう警察に連絡はしたのですか」
流星にうながされたサラリーマンは、わざわざ大きな声で「ぼくが電話しよう」と真新しいスマホを取り出した。
途方に暮れた流星は、薄暗くなった空を仰ぎ、ビルの窓辺に目をやった。
――『タスケテ』
弱々しい声音が、流星の脳裏に響き渡る。
「オレに構うなよ! うるせえんだよ!」
ひどい罵声を吐きながら、若い男は乱暴に腕を振り回して群集を威嚇した。
その足がまた、窓辺からじりじりと離れていく。
あと数センチずれるだけで、男は重力のまま、落下するだろう。
「うるさい、見るな! あっちへ行け!」
感情を抑制できない苛立ちが、さらに彼自身を興奮させていく。
唇を強くかみ締め、ぎりぎりと歯を食いしばり、男はさらに口の中で声にならない感情を爆発させた。
――『タスケテ』
「みんな消えろ! 消えうせろ!」