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第1話 春のクリスマス part1

 ――この世界は、なぜこんなにも醜いのだろう。

 だれもが自分のために何かを欲し、争う。


 なぜ、争うのか。

 なぜ、自らの星を壊すのか。

 なぜ――――他人を想いやることはできないのか。


 人間一人では何もできない? いや、そんなことはない。

 一人だって、知恵を、力を、そして諦めないという強い意志があれば世界は変えられる。

 これは――戦争だ。

 私が勝つか。世界が勝つかの――――戦争だ。


 

○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●



 ――――僕は、何をやってるのだろう?


 右手に感じる、僕よりも一回り小さい手のひらの感触を受けながら、僕――春乃(はるの) 夜神(やがみ)はふと思った。

 煙草の自販機やシャッターが閉まった店が並んでおり、道幅は二メートルほどしかない路地裏。乗り捨てられてから数年たった錆ついた自転車や、ポリバケツなどが道幅をさらに狭くしている。そんな場所を僕『たち』は走っていた。

 動悸が激しい。走り初めてす十分か、それとも三〇分たったのかは分からない。けど、そろそろ限界に近いのが分かる。

 目線を後ろに向ける。

 そこにいるのは、ハリウッド女優かと見間違えるほど冗談のように美しい少女。ウエーブがかかった金髪は気品さを醸し出しており、碧い透き通った碧眼はまるでサファイアのように美しい。そして、物語の中のお姫様が身に着けているような白いドレスを違和感なく着こなしていた。

 ……ほんと、僕は何をやってるんだろう。

「てめえら! 待ちやがれー!」

 後ろから何度目か分からない怒声が聞こえてくる。

 この状態で待てと言われて待つ人はいないと思いたい。少なくとも僕は待つもりはなかった。

 そもそも、なんでこんなことになったんだっけ?

「今、止まらんと許してやらんぞ!」

 止まってもタダでは許してくれないよね……

 もう一度、僕の手をぎゅっと握り締めている少女へと視線を向ける。

「…………?」

 首を傾げられた。きょとんとした表情で。

 もしかして、今の状況が分かって……ない? 

 僕の疲れで引きつった表情がさらに軋みをあげていることだろう。


 ――どうして、こんなことに?


○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●


 ――耳元で、朝の相棒とも言える目覚ましがうるさく鳴り響いている。

 

 ゆっくりと目を開けると、まず目に入るのは天井の茶色い渦のような模様。

「う~~~~ん」

 上半身を起こし、伸びをしてからベットから降り、立ち上がる。

 漫画本や小説、事典などが並んでいる本棚、壁には地元の野球チームの選手が描かれたポスターが貼られており、脇には畳まれたちゃぶ台が立てかけられているのが見える。なんの変哲もない、僕の部屋。掃除も細目にしてるから気になるほどのゴミは落ちていない。

 いまだに残る眠気をふり払うように、僕は自分に言い聞かせるようにして声を張り上げる。

「さーて、今日も頑張りますか!」


○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●



 「よし、こんな感じ……かな?」

 目の前のテーブルの上には、二人分のじゃこ納豆と、ほうれん草と卵のふんわり焼き、野菜とベーコンの和風トマトスープが並んでいた。

 うん、我ながら満足な出来だ。これなら食べる専門である隣の住人も文句はないはずだ。

 親元を離れた一人暮らしのため、僕は自炊してる。朝と夜はもちろん、基本的にはお弁当も作って学園へ持っていく。料理の腕は僕の数少ない特技の一つだ。

 学園の制服の上に熊の模様が描かれた赤いエプロンを脱ぎ、壁にかける。

「あとは……」

 壁時計を見ると、七時二十分を指していた。

 ちょうどいい時間帯だ。これなら学園にも余裕を持って間に合いそうだ。

 もっとも、次にやることがどれだけ時間を喰わないかによって変わるんだけど。

 僕の住んでいる203号室の隣で、202号室の住人である――


「巫女殿を起こさないとね」


○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●


 ここは尻毛荘。一応アパート名……らしい。僕も初めて聞いたとき、どこから突っ込めばいいか分からないかった。知り合いから「アパートの名前は?」と聞かれるたびに言葉に詰まるぐらいには呼びにくい。

 大家さんに聞いたところ「インパクトがある名前にしたかったんだ」と話していた。

 そのインパクトがありすぎるせいか今は六部屋ある中、僕を合わせて二人しか入居していない。

 築三十年の1DKの部屋が上と下に三部屋あり、後は普通の鉄骨造りのアパートだ。

 本来は大家さんが住んでいて管理をしているところなんだけど、二か月前に「ちょっと修行しに行ってくるねっ」と言い残し、僕にアパートの管理を任せてどこかへ行ってしまった。未成年に、それも学生に管理を任せるって……当時告げられた時は口を閉じるのを忘れるくらい唖然としたことを覚えている。

 今は心の底から早く帰ってきてほしいと思っているけど、今のところ僕の思いは叶えられていないようである。

 「202号室」と表札に書かれているドアをノックする。


 ………

 ……

 …



 反応は……なし。

 いつものことなんだけど、たまには「起きてるぞ」と言って欲しい隣人心。

「はぁ……」

 ポケットから鍵を取り出し、ドアを開ける。

 中に進んでいくと、フローリングの床に燃えるごみとプラスチックに分別されたゴミ袋、さらにトンカチやまな板ほどの大きさの木材が落ちている。

 それらを少し脇に寄せてから、リビングの中心で大の字で眠りこけている巫女殿の元へ。

「殺子、朝だよ。ほら、起きて」

 誰もが大和撫子と認めるほどの腰まで伸びる、黒髪を床に垂らし、いつもは凛とした表情を崩さない瞳を閉じ、同年代から嫉妬と羨望と邪念の眼差しを向けられること間違いなしの豊満な胸を紺と白がブロックのように交互におり混ざった寝巻ごしに上下させ、静かな寝息を立てながら眠りについてる殺子の体をゆする。


 刀御巫とうみかなぎ 殺子さつこ、ここ202号室の住人にして、僕のクラスメイトであり、親しい友人の一人。豪快で真っ直ぐな性格で、すごく男勝りな女の子だ。口調も男らしく、護身術や剣術を身に着けており、生半可な男では太刀打ちできないほどの強さを持っている。


 そんな剣術娘も今は、ぐっすりと夢の中にいるわけで。

「…………」

 起きる気配はなし、と。

「さ~つ~こ~」

 揺さぶってみる。

「う、う~ん、早く、おかわりを……よこせ……夜神」

 思わずため息が出た。

 開いたガラス戸の先にある、本来寝ている場所である、居間の布団を見つめる。

「毎度思うけど、なんであそこからここまで寝ながらこられるんだろう……」

 寝相の悪さは本当に折り紙つきだよ。

 居間の丸時計を見ると、長針が7、短針が32を指していた。

 って、もうこんな時間。殺子もせめて寝覚めだけはよくしてほしいよ。

「さ~つ~こ~! あ~さ~だ~よ~!!」

「……ぐぅ、もっとだ、もっとご飯を……」

 再度ため息がでた。こうなったら最後の手段を……って!?

 横を向いて寝ていた殺子が突然、仰向けに体勢を変えた。それだけならいい。それだけならば問題は特にないんだけど! 

 ……寝巻の間から覗く豊満な胸が……その、目に入ってしまった。

 頬が熱を帯びるのを感じ、慌てて目をそらす。

「殺子ももう少し、僕のことを考えてよ……女の子なんだからさ」

 本人に話すと、『何をだ?』って言われそうだけど。

 気を取り直して起こさないと時間が危ない。遅刻なんてしたら大変なことになる。

 大きく息を吸い込み、僕は叫ぶ。

「殺子! 今すぐ起きないと朝ごはん抜きだよ!」

 その瞬間、

「それは困る!」

 焼けたぎったフライパンに触って、すぐに手を引っ込めるよりも早い反応で勢いよく殺子が起き上がった。

 え、あ……

「ちょ、ちょっと……さ、殺子……」

 思わず殺子から再度視線を外し、横を向く。

「何をそんなに、慌てているのだ?」

「その……殺子、前」

「前? ……なっ!?」

 横を向いているから分からないけど、おそらく殺子の表情は茹でたこのように真っ赤なはずだ。

 だって、寝巻がずれて、上半身が丸見えの状態、つまり、その……胸が見えちゃってるわけで……

 慌てて浴衣を直しているのだろう。布がこすれる音がする。なんというか……気まずい。

「……見たか?」

 ポツリ、と殺子が尋ねてきた。

「…………少し」

「そうか」

「……怒って、ない?」

 おそるおそる聞いてみる。

 嘘をつかれることが嫌いな殺子なら、正直に言えば許してくれる……はずだ。

「夜神、前を向け。寝巻は直した」

 声音から判断した限りではそこまで怒っていないらしい。これはわざとじゃなくて事故なんだし。きっとわかってくれたんだ。

「いや、でもよかったよ。そんなに怒って――ごはあっ!?」

 殺子のほうを向き直った瞬間だった。

 殺子の右手の人差指と中指が僕の両目に飛び込んできた。いわゆる目潰しが。

 痛みのあまり、思わず両手で目を押さえる。

「って、殺子ぉぉぉぉ!?」

 許してくれたんじゃなかったの!?

「誰も怒ってないとは言ってないだろう。刀御巫家の女の裸体を見たのだ。この程度で済んだことを、逆に感謝してほしいぐらいだぞ」

「そんなこと言っても、痛いのは痛いよ……」

 殺子は僕の無常な叫びを無視するように、かぶりをふり、

「軟弱者め。ほら、さっさと朝食を食べるぞ。学園に遅れてしまう」

 そう言って殺子は玄関へ歩いていく。

 というか朝ごはんは僕が作ったよね!?

「ちょっと! 殺子ってば! もう~」

 目に溜まった涙を制服の裾でぬぐってから、慌てて殺子の後を追いかけた。


○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●


 住宅街。

 こげ茶色の学生鞄を持ちながら、僕と殺子は学園へと向かっていた。

 一年と一か月、変わらない風景。少し肌寒いが、あと一か月もすると、気温もぐんぐんと上がり、今度は逆に暑苦しくなることだろう。

 向かいから歩いてきたサラリーマンがじろじろと隣を歩いている殺子にぶしつけな視線を向けて通り過ぎる。一方の殺子のほうは気にした様子もなく平然としてる。これもいつもの光景だ。

 確かに普通の人からすれば奇抜で、常識から外れているんだろう。僕も殺子の姿を初めて見た時は驚いたものだ。

 それもそのはず、殺子の格好は上半身は白、下半身は赤ときっちり別れている服……いわゆる巫女装束を着ているのだから。さらにその服装に不釣合いな黒のバットケースを肩にかけている。

「殺子っていっつもその格好だけどさ、たまには学園の制服、着てみたら?」

 僕の問いに殺子は呆れ顔で、

「前にも言っただろう。私は刀御巫家の人間だ。この服装は刀御巫家の巫女であることを忘れないこと、そして責任と誇りを持つこと、そういう意味が込められているのだ。だからこそ私は外に出る際には、この服装以外着るつもりはない」

「それはそうなんだけど……せっかく制服があるんだしさ。一度ぐらい着て、登校してみたら? もったいないよ?」

 友達として贔屓目はなしで、殺子は美人の類に入ると思うんだけどな。

 かわいいというよりはかっこいい、といった感じだけど普通にしていれば、一ヶ月に一度は下駄箱にラブレターが入っていてもおかしくないと思う。

 僕の提案に殺子は気難しげな表情を浮かべ、

「……そういう問題ではないのだが。少なくとも、私が刀御巫家から絶縁されない限りはこの服装以外で外出する気はない」

「そこらへんは本人の意志が優先だから、僕は何もいことはないけど……」

 個人的には殺子の制服も見たいんだけどな。けっこう似合うと思うし。

「それより、夜神、例のやつを忘れているぞ」

 例のやつ……? ああ、あれか。

「ごめんごめん。出る前に慌ててたから、忘れてたよ」

 殺子に向き直り、息を大きく吐き、脳へと「とある」命令を送る。

 集中力を高めるために目を閉じる。

 風景が一瞬にして暗闇へと移り変わり、遠くで聞こえていた車のクラクションや鳥のさえずりが耳に入らなくなる。意識を体の奥へ、奥へと伸ばすように、高めていく。

 集中……集中……


 ――――来た。

 

 目を開ける。

 暗闇に包まれていた視界が光に包まれる――が、殺子の周りには黒い煙のようなものが霞がかっていた。

 あれ? 結構濃いな……黒い煙はどす黒いほどではないものの、かなりの濃さを表していた。

 解除の命令を脳に送ると、風景は一瞬にして朝の住宅街へと変化した。

「殺子、何か忘れ物してるよ」

「む、そうなのか」

「うん。黒い煙が見えてたからさ。今日はけっこう濃かったけど。何か、心当たりはない?」

 殺子は右手を顎に当て、気難しげな表情を浮かべ、

「うむ…………む」

 眉を潜め、険しい表情を浮かべる殺子。

「そ……そ、そんな大事なものを忘れたの?」

 神妙な表情で頷く殺子。

 ごくり、と思わず唾を飲み込む。確かに煙が濃いほど本人への違和感が大きくなるけど……まさか、水城先生の課題? いや、それなら同じクラスの僕もやってなければいけないはずだから……違うとして、じゃあ財布? いやいや、確かに大事だけど、今日は使う予定なんて――


「うむ、どうやらお昼のお弁当を忘れたらしい」


 ……さようですか。

「なんだ夜神、そんな表情をして。いいか? 食というのは人間にとって生きるために最も必要なものなのだ。それを忘れるということは、自ら、『死にたい』と言っているようなものだ。そう思わないのか?」

「単に殺子がお昼ご飯を食べないと死にそうになるからでしょ。半年前に忘れた時なんて、 麻薬中毒者のごとく『何か……食べ物……を』必死な形相でいってたもんね」

「なっ!? そ、そんなことはないぞ! べ、別に私はお昼ご飯がなくても……」

「なくても?」

 すると殺子は、苦虫をか噛み潰したような表情を浮かべ、

「う、ううう……と、ともかく! 私はお弁当を持ってくる! 夜神は先に行っててくれ!」

 僕から背を向けて、脱兎のごとく尻毛荘の方向へ走り去っていった。

 こういうところは素直じゃないんだから、まったく……


○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●


 殺子が忘れたお弁当を持ってきてから、僕たちは学園へと向かっていた。

 殺子の手には先ほどまでは持っていなかった、黄緑色の風呂敷に包まれた重箱がを握られている。 

 ぽつり、と隣を歩く殺子が呟く。

「やはり、その能力――『真実の世界ガイア』は役に立つな」

 苦笑いを浮かべながら、

「『違和感が分かる』っていう能力? でも、本当に微妙だよ? 違和感が分かっても、その違和感の正体は分からないんだもの」

 つまり、数式が間違っているの分かるが、答えが分からないと同じようなものだ。僕としては、これが能力と言えるのか甚だ疑問に思ってる。

 一応、煙の濃さによって対象が思っている「違和感」の度合いは図れる。先ほど煙が濃かったのは殺子が「お弁当」に対して執着心を見せていたためだ。

 真実の世界ガイア、という大層な名前がつけられてるけど、実際はそんな大した能力じゃない。

「なに、それでも能力は能力だ。誇りに思ってもいい」

「慣れるまで苦労したけどね」

 そう、最初は大変だった。見えるもの全てが違和感を覚え、あらゆるものに黒い煙が纏わりついており、気持ち悪かった。

 まるで世界自体に違和感があるような、そんな感じだったことを覚えてる。

 だけど、時がたつにつれて黒い煙は視えなくなり、今では集中した時限定で視えるようになった。

「それに僕は、あんまりこの能力が好きじゃない」

「……『死ぬ運命』のある生物が分かるというやつか」


 死ぬ生物は決まっている――僕は、この真実の世界ガイアを持つことによって知ることになった。

 生物は基本的に「自身の生」に執着を持つのは当たり前だ。

 なら、その生物が死ぬ運命にあるとしたら? 例えば何秒後かに車に轢かれ、死ぬ運命だとしたら?

 真実の世界ガイアは「違和感が分かる」という能力だ。世界から消える運命――死にゆくものに対して「違和感を覚えてしまう」ということになる。つまり――死期が近い生物が分かってしまうのだ。

 以前、真実の世界ガイアを使いこなしているか試した時だった。

 野良犬に真実の世界ガイアを使うと、その野良犬は黒煙に塗りつぶされるように全身が黒煙に包まれていた。気になって後をつけてみると、野良犬が信号のない十字路で反対車線へと渡ろうとした時、突如としてトラックが猛スピードで現れ、野良犬を撥ねていったのだ。

 もちろん野良犬は即死。初めはただの偶然だと思っていた。だけど真実の世界ガイア)を使っていくうちに猫、鳥などの動物。終いには――人間の死ですら分かってしまった。

 だから、僕はあまりこの能力は好きではない。でも、普段から発動していなければ初めの頃のようにあらゆるものに黒煙が見えてしまうかもしれない。なのでこうして毎朝、殺子に真実の世界ガイアを使っている。

 ――殺子が黒煙に塗りつぶされないようにと、祈りながら。


「だが、お前はそれを乗り越えた。並の人間なら発狂しているところだ。それに――」

 殺子はそこで言葉を切り、一瞬だけ悲しそうな表情を浮かべた……ような気がした。

異眼保持者サードアイラーでもある」

「でも、『違和感が分かる』っていう能力はまだしも、異眼サードアイは僕が持っていてもしょうがないよ。宝の持ち腐れってやつじゃない?」

「確かに、一般人にとっては余計な能力かもしれんな。だが」

 殺子は遠くを見るように目を細める。

「我々にとっては必要なものなのだ」

 そうだ……殺子は。

「その……失言だった。ごめん」

 僕の言葉に、殺子はきょとんとした表情を浮かべた後、「くっくっく」と静かに笑った。

「謝る必要などないぞ。単に私の運がなかっただけだ。ただ、それだけのことだ」

 湿った空気を入れ替えるように、少し声の調子を上げて殺子が尋ねてきた。

「それより、今日の異眼(サードアイ)の調子はどうだ? 暴走など起こしたら大変だからな」

「え、あ、うん。ちょっと待ってて」

 僕は目を一瞬だけど閉じ、すぐに目を開ける。

「どう? きちんと赤くなってる?」

「ああ、問題ない」

 辺りを見回してみる。

 近くの電柱の側には、顔が潰れたような二十代前半のような女性の自縛霊。道路の中心には杖を持った老人の自縛霊が。赤い小袖を着ている座敷わらしが、通りを走っている車を透明人間のようにすり抜けながら通りを歩いている。

 通行人の中には、三十代ぐらいのスーツを着ているサラリーマンらしき人物の中心に紫色の球体が浮かんでおり、その近くには会社用のバッグを持ったOL風の中心には赤色の球体が浮かんでいる。

「うん、バッチリ。そこの電柱に女性の自縛霊、あっちの道路の真ん中には老人の自縛霊、座敷わらしがちょうど……今、僕の横を通り過ぎて、あとはサラリーマンに扮している妖怪とOLに扮している神様がいるよ」


 この世には神や、妖怪、幽霊と言われる存在、通称『異類異形イレドレックス』と呼ばれるものが実在する。殺子によると普段は人間に視えない、そして干渉されないように空視化トランスしたり、人に変化したりしていているらしい。

 その存在を区別できるのがこの眼、『異眼(サードアイ)』というものだ。長年研究されているらしいんだけど、ほとんどの異眼(サードアイ)を持っている人間、通称、『異眼保持者(サードアイラー)』は先天性、とだけしか分かっていない、と聞いている。


 異眼(サードアイ)発動時は瞳の色が変わり、保持者によって色は違うらしい。ちなみに僕は赤色だ。

 人に変化している異類異形は神は赤、妖怪は紫、霊は青色の水晶、通称『虹水晶(レインオリジン)』が体のどこかに埋まっており、これを壊されると消滅してしまうと殺子は言っていた。人間の心臓のようなものだ、と説明された。


「うむ、コントロールは出来ているか?」

 目をつぶり、異眼(サードアイ)を解除するよう脳に命令を送る。

 目を開ける。すると自縛霊や座敷の姿、そして先ほどの体の中心に球体が浮かんでいた、サラリーマンやOLからは球体は視えなくなっていた。どうやら暴走はしていないようだ。

「どう? 目の色は戻ってる?」

「ああ、大丈夫だ。暴走する異眼保持者(サードアイラー)もいるらしいからな。毎日、確認は怠るなよ?」

「分かってる。ちゃんと毎日やってるよ」

「ならばよし。それにしても、辺りを見回しただけで五体もの異類異形(イレドレックス)を見かけるとは……本当にこの町は異類異形(イレドレックス)が多いのだな」

 殺子はそういうと、きょろきょろと辺りを見渡しながら歩きだす。

「そうらしいね。確か、神守市は陰気が濃いんだっけ?」

「うむ。異類異形(イレドレックス)は陰気が濃い場所を好むからな、自然と集まってくる。あとはネジが一本飛んだ人間も集まりやすくなるな」

「だから犯罪率も多いんだよね、神守市って。治安もあんまりよくないし……」

「陰気が濃いと人間は負のエネルギーに溢れて攻撃的な性格になるからな。それも原因の一つだろう」

 殺子はそこで、一つ咳払いをし、

「話は変わるが、今日の依頼は?」

 えーと、確か……

「山口さんが話し相手になってほしいって」

 山口さんというのは尻毛荘の近くに住んでいる一人暮らしのおばあちゃんだ。

 今までにも、屋根の修理や部屋の掃除などを頼まれたことがある、月夜見(つくよみ)アシスタンスのお得意様だ。

「ああ。あの老婦人か。しかし、なんだ。なんでも屋『月夜見アシスタンス』を初めてから一年経つが、『いなくなったペットを探してほしい』『家の屋根の修理を頼みたい』『なんで彼女ができないのか教えてください』などという、つまら……あー、地味な依頼しかこないではないか」

 殺子、本音が漏れてるよ。

「地味って……なんでも屋ってこんなものじゃないの?」

 少なくとも一般的ななんでも屋ってこんなものじゃないのかな? それに僕たちはまだ学生だし。

「……現実はそうかもしれんが」

 そこで殺子は言葉を切り、目を大きく見開き、右拳を強く握り締めながら、

「だが! 私は『悪い霊がいるので退治してほしい』『とある組織から命を狙われている。その組織を殲滅してほしい』などというような血沸き肉躍る依頼をこなしたいのだ!」

「そんなこと言ってもさ……」

 そんな展開は漫画やアニメの中でしかないって。

「とりあえず、学園の授業が終わったら殺子は山口さんの家に直行で」

「うむ、心得た。お前はどうする?」

「僕は遠くのスーパーが特売日だからそっちに。そういえば山口さん、殺子のこと褒めてたよ。『真剣に話を聞いてくれて、真面目に答えてくれる』って」

 殺子の考え方や立ち振る舞いは一般的からは少し(?)外れているけど、人を思いやることに関しては心配していない。それにお年寄りを敬う心は人一倍持っているし。

「ふっ。人の話は何事も真剣に聞くのは、依頼など関係なくとも、私にとっては当たり前のことだからな」

「じゃ、そういうわけで、よろしくね」

「うむ」



○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●


 放課後。夕陽がオレンジ色に照らし出している学園の玄関から校門へと、僕と殺子は歩いていた。

 下校する生徒の談笑する声や、野球部のランニング時の掛け声、遠くからは救急車のサイレンの音が聞こえてきた。

「それで、視月に連絡はついたのか?」

 バットケースを肩にかけ、風呂敷に包まれた弁当箱を持った殺子が問いかけてくる。

「あー……昨日の夜も電話してみたんだけど……」

 僕がそういうと、殺子は仕方ないな、と言いたさげな表情を浮かべ、

「まったく、月夜見アシスタンスのリーダーだというのに、あやつは何をやっているんのだ」

「仕方ないよ、留学生なんだし。きっとアメリカに慣れるために、忙しいんじゃないかな」

「だが、せめて一言ぐらい連絡をくれてもいいではないか。もう一カ月だぞ一カ月! 二年に進級した途端、いきなり『アメリカへ留学することになりました。月夜見アシスタンスのリーダーはダーリンこと、春乃夜神くんに任せます。ではではー』と、書置きだけを残して今まで音沙汰なしだ! まったく、あやつは何を考えているのだ」


 霞初月(かすみそめづき) 視月(みつき)。僕とは幼馴染の女の子で、月夜見アシスタンスの設立者。

 明るく、人当たりもよく、いつも周りに人がいる、そんな子だった。そして僕に――


「夜神?」

 慌てて我に帰ると殺子が僕の顔を覗きこんでいた。

 視月のことを思い出していたら、どうやらいつのまにか校門についていたようだ。

「ごめんごめん。ぼーとしてた」

「大丈夫か? これで夜ご飯の味が落ちていたりしたら困るぞ」

「はいはい。殺子のほうも山口さんの依頼、頼んだよ」

「心得た。今日の夜ご飯、楽しみにしているぞ」

 そう、ここまではいつも通りの日常。普段なら殺子が山口さんの依頼をこなし、僕が夜ご飯を作っておき、二人仲良く食べて、宿題をして、テレビを見たりして、ほどよい時間になったらお互いの部屋に戻り、寝る。

 朝は目覚ましに起こされて、朝ごはんを作ってから殺子を起こし、一緒に食べて、一緒に学校へ行く。


 そんな――日常だったのだ。


○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●


 殺子と校門で別れて、スーパーに向かっている途中の道。

 そこは人が一人も歩いていないさびれた商店街跡。道幅は車が一台ギリギリ通れるぐらい狭く、全ての店にシャッターが降りており、店と店の間には路地裏へと続いている道がある。

 視月、元気にやっているのだろうか。

 小さいころからずっと一緒にいた幼馴染。僕が事故にあってからも変わらずに傍にいてくれた大切な人。一か月間顔を合せなかったこともないらしいのに、今は声すら聞けない状況だ。

 事件とかに巻き込まれてなければいいんだけど……


 ――カンカンカン、と何かを叩く音が聞こえてきた。


 ん? 

 足元から何かを叩いているような振動が伝わってくる。

 なんだろう……? 立ち止まって足元を見てみるとマンホールがある。どうやら発信源はここのようだ。


 ――その音は、先ほどよりも強くなっていく。


 再度中から叩く音。先ほどよりも強く振動を感じる。中に水道局の作業員でもいるのだろうか?

 あわててマンホールから足をどける。

 すると、叩く音はピタリと止み、マンホールの蓋が持ち上がっていく。

「すいません。乗っかっていて。まさか人がいると――!?」


 マンホールの蓋が外され、脇へと転がっていく。


 ――ひょこっ。

 モグラのように、頭を覗かせ、手すりを手をかけ、人影が全身を表した。

 それが作業服を着た市の職員なら驚きはしなかっただろう。

 でも、僕の目の前にいたのは――

「ど、どうも……」

「…………?」

 目の前にはどこかの王国のお姫様のような豪華な白いドレスを着ており、頭の上には冠を載せ、ウェーブがかかった流れるような金髪の少女。

 まるで人形のように肌白く、ガラス細工のような整った顔立ち。

 どう見ても作業員からは程遠く、むしろ日本人からもほど遠く、一般人からも遠い存在のように見える。

 ……まるで西洋人形のようだな、と僕はふと思った。

「…………」

 目の前の少女は首を傾げ、感情が読み取れないほどの無表情で僕をじっと見つめてくる。

 思わず挨拶しちゃったけど、一体、何者なんだ? 本当にどこかの国のお姫様? いやいやいや、現代に限ってそんなことは……

 というか、マンホールの蓋って普通五十キロ以上あるよね!?  それをこんな華奢な子が持ち上げ……た? 頭が混乱してくる。何から突っ込めばいいのか、と。

 ……待てよ。

 異眼(いがん)を発動させ、目を開ける。

 だけど少女を見ても特に異常はなく、普通の眼で見た時と同じような光景が映っていた。

「え? 異類異形(イレドレックス)でも……ない?」

 折れそうなほど華奢な細い腕で、一体どうやってあのマンホールの蓋を持ち上げたんだ?

「…………」

 宝石のような薄い碧い瞳を僕へとじっと注いでくる。

「え、えと、何かな?」

「…………」

 ……じっと見つめてくる。

「もしかして、何か困ってる?」

 コクリ、と目の前の少女は頷いた。

 困ってる、か。


 ――困っている人はね、手を差し伸べられるのをまっているの。だから私はその手を握ってあげたい。引っ張ってあげたい。出来る限りのことをして、助けてあげたい。

 ――君も、そう思わない?


 そう言って僕に手を差し出してきた人のことを思い出す。

 そうだね、僕もそう思うよ。だから――

「……そっか。ねぇ、僕でよかったら、君の助けに――」

 僕の言葉は、後ろから飛んできた怒声にかき消される。

「いたぞー!」

「ん?」

 振り返ると、四十メートルほど先、筋肉質で強面の男たちが怒号を発しながら、こちらに向かって走ってきていた。そりゃもう鬼のような形相で。

 少女は男たちから逃れようと、男たちとは反対の方向へ一歩踏み出す――が、

「あ」

「よっと」

 地面に躓き、転びそうになったところを抱きかかえる。少女の髪の毛が目の前に広がり、シャンプーだろうか、女の子独特の、いい匂いが鼻孔をくすぐってくる。

 碧い瞳と目が合う。

 どこまでも深く、吸い込まれそうな澄んだ瞳。まるで魂が惹かれるような、そんな魔力を含んでいると感じられるほど美しく、綺麗だった。

「お前らあああ! そこから動くなよ!」

 向けられた怒声に、はっと我に帰る。

「こっち! ついてきて!」

 僕は目の前の少女の手を掴み、路地裏へと向かう。

 考えなんてない。ただ、目の前の彼女が逃げたいと思っていると、そう感じたからだ。

 目の前に困っている人がいる、なら助けるの当たり前なんだよね、視月?



○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●


 道幅は二メートルほどしかなく、人、一人がやっと通れるぐらい。空き缶やビニール袋に包まれたゴミが落ちている。

 僕は少女の手を握りながら、引っ張るように走っていた。

 後ろからは強面の男たちが僕たちを捕まえようと、怒号を発しながら、三十メートルほど離れた距離を離しながら、追いかけてくる。

 で、こんなことになっちゃってるわけで……

 僕の手を握りしめている少女を見ると、無表情のまま、じっと僕の顔を見つめてくる。

 視線を前方へと戻す。

「こうなった以上、やるしかないんだけど……さっ!」

 換気扇やゴミ捨て場がある、さらに狭い路地裏へと入っていく。

 これだけ狭い道なら足の遅さをカバーできるはず!

「待てや、こらああああ!」

「そいつを渡しやがれ、クソガキ!」

「今なら許してやったるよ! 止まらんかい!」

 いやいやいや、止まったら間違いなく、コンクリートに詰められて海に沈められるよ!

 右、左、右、右と角を曲がり、狭い路地裏を少女の手を引きながら、駆け抜けていく。

 後ろを振り返る。男たちの距離はそう離れていない。

 このままじゃ、埒があかないどころか、体力的には持ちそうにないだろう。

 唇をきつく噛みしめる。分は悪いけど、賭けに出るしかない。

 そう決心すると、僕は角を曲がった瞬間、十字路の右にある大きなゴミ箱の陰に飛び込むようにして少女とともに隠れる。

 息を潜めていると、強面の男たちが僕たちの隠れているゴミ箱のすぐそばの十字路に走ってきた。

 恐る恐る顔を出し、様子をうかがってみる。

「あいつらあああああ! どーこ、いきやがったああああ!?」

 三人の男が立ち止まり、悔しそうな表情を浮かべながら集まっていた。

「くっそ。せっかく見つけたのに、あいつらめ……どうする、諦めて戻るか?」

 ほっと溜息が出た。そうそう、このまま帰ってくれれば……

「いや、もしかしたらまだこの辺にいるかもしれんよ」

 ドクン、と自分の心臓が大きく跳ねたような感触に陥る。

 落ち着け……落ち着くんだ。まだ見つかった訳じゃないんだ。大丈夫、大丈夫……

「マジかよおおお! じゃあ手分けして探してみるかああああ?」

「それがいいかもしれんね。よし、まずお前さんは――」

 一旦頭を引っ込め、ゴミ箱へと背中を預ける。心臓の音は周りに聞こえるかと思うぐらい、激しく動悸を鳴らしているる。

 マズイマズイマズイ! このままじゃ絶対に見つかっちゃう!

「…………」

 少女と再度目があう。相変わらずの無表情で何を考えているか分からないけど……

 首を横に振る。考えろ考えろ考えろ。何か、あるはずだ。何かがあるはずなんだ。

 ふと、少女の足元へと視線を向けると、手のひらサイズの石が落ちている。これって……使えるかも。

 やってみるしか……ないよね。

 石を拾い上げ、振り返る。男たちの話声が聞こえることから、まだ探してはないらしい。

 そして振りかぶり――思いきり投げた。

 ……遠くから、投げた石が壁にぶつかった音が耳に届く。

「あっちに隠れていやがった! 行くぞ!」

「待てや、こらあああ! 今度こそ捕まえてやるよおおおおお!」

 音のした方向へ男たちがスーパーのタイムセールに群がる主婦のごとく、慌ただしい足音を響かせながら走り去っていく。どうやら僕の試みは成功したらしい。

 男たちの背を見送ってから、ゴミ箱へ背中を預け、大きくため息をつく。

 助かった……

 少女を見ると、碧い瞳を動かさず、相変わらずマネキンのような無表情でじっと僕を見つめていた。

「とりあえずこれで大丈夫……な、はずだよ」

 コクリ、と少女は頷く。

 それにしても、この子はなんで追われていたんだろう?

「ねぇ、君って一体――ん?」

 少女の手に、白い封筒が握られている。誰かへの手紙だろうか?

 僕の視線に気づいたのか、少女は封筒をしばらく見つめ、

「え?」

 手に持っていた封筒を僕へと差し出してきた。

「これ」

「え、えと……僕に?」

 少女は僕の目を見つめ、しっかりと頷いた。

 気圧されるように少女の手から封筒を受け取る。

 そして、宛先を見ると――


「なん……で?」

 これってどういうこと……? 


 封筒の宛先には――月夜見アシスタンス様へ――と書かれていた。



○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●



 微かにシャワーが流れている音が聞こえてくる。

 尻毛荘、202号室。

 殺子と僕はテーブルを挟んで腕組みをし、気難しげな表情を浮かべていた。

「これ、どうする?」

 目の前には白い封筒が開かれ、一枚の便せんが置かれている。隣には小切手が添えられていた。

 手紙の内容もさることながら、この小切手が問題だった。小切手には1が1つ、0が7つ並んでいる。つまり一千万円もの大金が僕たちの元へ舞い込んできたことになる。ただの学生である僕たちに、だ。

 一方手紙の内容は「クリスを守ってやってください」とだけ。

 クリス、というのは恐らくあの少女の名前なのだろう。

「…………」

 殺子は僕の問いには答えず、じっと小切手を見つめている。

 気持ちは分かる。一千万円もの大金と、差出人不明の手紙……さすがの殺子も戸惑うよね。

「夜神、一ついいか?」

 いつもよりも真剣な表情。その様子に気圧され、ゴクリ、と思わず唾を飲み込む。

「なに?」

「この小切手で『大秘宝』という漫画を全巻揃えたいのだが」


 ガンッ!


 僕は勢いよくテーブルに頭を打ち付けた。

 真剣に考えてたのがバカだったよ……

「どうした夜神。頭突きの練習でもしているのか。やめておけ、脳細胞が死んでいくぞ」

 勢いよく起きあがり、呆れ顔の殺子に向かって僕は言い放つ。

「なんでこの状態で頭突きの練習をしなければいけないのさ ……っていうか、普通に疑おうよ! 一千万円だよ! 一千万円! 今までお年寄りの話し相手や、犬の散歩の代理や、部屋の掃除を代わりにやってほしいなんて、普通の依頼だったのが! 報酬なんて一万円超えるのがないかどうかだったのに、千倍だよ!? もう少し危機感というか、緊迫感を持とうよ!」

 あまりにも早口で言ったせいか、百メートルを全力で走った後のように、荒い息をぜいぜいと吐き出す。

 そんな僕の様子に、さすがの殺子も押されたのか、

「う、うむ。つい、出来心だったのだ。す、すまなかった」

 多少引き気味で反省の言葉を口にした。

「分かってくれればいいんだけど……とりあえずこのお金には手を出さないこと!」

 こんな怪しいお金に手なんて出したら、何が起こるか分からないし。

 殺子は僕から目をそらしながらポツリ、と。

「……大秘宝」

「さ~つ~こ~?」

「い、異論はない。う、うむ、それがいいだろう」

 はぁ、と思わずため息が出る。

「殺子って、少年漫画に目がないよね」

「うむ。特に友情、努力、勝利、の三つが揃っている少年漫画が好きだぞ。見ていて気持ちいいからな」

「はいはい……で、あの子、クリスだっけ? これからどうする?」

 小切手は保管しておくとして、あの子をどうするかだ。

 常識的に考えれば――

「警察に保護してもらうべきだろうな」

「それはっ!」

 でも、恐らくあの子はそれを望んでない。

 何か複雑な事情があるかもしれないから。

「常識、ではな」

「じゃあ」

 殺子は、ふっと表情を緩め、

「私とて、いきなり警察に突き出すような無粋な真似はしないさ。強面の男たちに追われていた状況は、常識とは程遠い状況でもあるしな。それに――」

 僕の目を真っ直ぐに見つめ、

「お前も望んではいないだろう?」

 そう、問いかけてきた。

 僕は殺子の視線を受け止めながら、しっかりと頷き、

「あの子、クリスは一瞬だけど、怯えた表情をしたんだ。だから、僕は――」

「助けたい、と?」

「視月だったら、そうしてるでしょ?」

 今の僕を作ってくれた人であり、大切な幼馴染の顔を一瞬だけ思い出す。

 きっと視月なら、今の僕と同じことを言っているだろう。

 殺子は「ふ」と呟き、遠くを見つめるような表情を浮かべる。

「そうだな。視月はそういうやつだ」

 そして僕のほうを優しい顔で見つめ、

「しっかりと月夜見アシスタンスのリーダーの意志を継いでいるじゃないか。リーダー代理」

「……本当にそうかな」

「? 夜神?」

「ううん、なんでもない。それより、クリスを殺子の部屋に住まわせて――」

 ……待てよ。今日の朝の光景を思い出す。

 ものの見事に布団から離れていた殺子の寝像を思い浮かべる。

 うん、これは……

「なんだ?」

「いや、クリスは僕の部屋に住まわせようかなって思って」

「異論はないが……常識的に考えれば同性である私のほうが適任ではないか?」

 常識では、ね。でも、同室になるのは「あの」殺子なのだ。

「……前、僕の部屋の水道管が壊れた時があったよね」

 あれは確か五か月ほどの前の話だ。朝、起きたら台所の蛇口から水がでなくなっており、修理のために一日だけ殺子の部屋に泊めてもらった時のことだ。

「ん、ああ。一日だけ、私の部屋に泊まった日のことか」

「朝、どうしたんだっけ?」

 じろりと、訝しげな視線を殺子に向けると、殺子はあの日起きたことを思い出したのか、ばつの悪そうな表情を浮かべ、そそくさと僕から視線をそらした。

「うっ! わ、私だって好きでお前の首を絞めたわけではない! 本当だぞ!」

 リビングで寝ていた僕は、深夜、息が来るしくて目が覚めると、殺子がいつのまにか隣におり、そしてなぜか僕の首を絞めていたのだ。あと一歩、殺子の目が覚めるのが遅かったら、僕は天に召されていたことだろう。

「殺子の寝像の悪さは折り紙つきだからねぇ……クリスにもしものことがあったら大変だし」

 殺子は悔しそうに唇をかみしめ、

「甚だ不本意ではあるが……仕方あるまい」

 と、クリスが僕の部屋に泊まることを承諾した。

 そして僕にチラリと視線を向け、

「もっとも……お前なら間違いを犯す度胸もないだろうしな」

「事実なんだけど、男としてどうなんだろう……」

 信用されてるってとっていいん……だよね?

「とりあえず、僕の部屋に泊まらせるって方向で大丈夫?」

「それでよかろう。尻毛荘の他の部屋でも使えればいいのだが、大家が修行に出かけていてはな」

「あとは、クリスの服装だね。さすがにあの格好じゃ目立ちすぎるよ。殺子、服を貸してくれない?」

 僕の頼みに殺子は「何を言っているんだ?」と言いたさげな表情で、

「私は巫女装束と制服と寝巻……あと、学園指定のジャージしか持っていないぞ」

「え? スカートとかワンピースとか、ジーパンとかは?」

 殺子は呆れた表情を濃くし、

「お前は一年間私と過ごして何をみていたんだ? 私が一度でもそんな格好をしたことがあるか?」

 少なくとも僕の記憶にはなかった。

「いや、ないけどさ……殺子も女の子だからさ。そういうのは、持ってると思ってたんだけど」

「私は無駄なものは持たない主義だ」

 きっぱりと言い切られた。うーん、どうしよう……

「夜神、お前には妹がいただろう。頼んでみたらどうだ?」

「…………」

「夜神?」

 背に腹は代えられない……か。

「そ、そうだね。後で服を送ってくれるよう、電話してみるよ」

「? ああ、頼んだぞ」

 僕の態度が不自然だったのか、殺子が首を傾げている。

 この話題はよくない。さっさと話題を変えてしまおう。

「話は変わるけど、今日の山口さんの依頼は大丈夫だった?」

「うむ。きちんとこなしてきたぞ。帰り際に『やっぱり殺子ちゃんは独特でおもしろいわね』と言われたほどだ」

 そう言って、殺子は誇らしげに胸を張る。

「まぁ……喜んでもらえているのなら――へ?」

 えと……え、あ……

「どうした? 私のあまりの仕事ぶりに驚きを隠せないのか? 気持ちは分かるぞ、うむ」

 殺子が勝手に解釈し、うんうんと頷いているが、今はそれどころじゃない。

「え、あ、う……」

「なんだ?」

 殺子が振り返って、僕が固まった原因を見る。

 そこにはバスタオルを手に持ち、裸体から流れおちる雫を床に落としながら、生まれたままの姿のクリスの姿があった。

 殺子のように凹凸がはっきりとしてる体ではないけど、出ているところは出ており、きゅっと腰のラインが引き締まっていて、モデルと見間違うほどに綺麗だ。……って、見とれてちゃダメでしょ!? 僕!?

 恐らく僕の顔は茹でダコのように真っ赤になってるだろう。見られている本人はきょとんと首を傾げてるのがまたなんとも……

「そういえば、着ていた服は洗濯していたな」

 殺子の言葉にハッと我に返り、慌ててクリスから目をそらす。今日は厄日なのかも……ある意味吉日かもしれないけど。

 押入れを空けた音が耳に届く。クリスのほうを見ずに音のしたほうを見ると、殺子は押入れを開け、奥から学園指定の上下青色のジャージと……下着類を取り出し、クリスに渡した……と思う。最後のほうは僕は横を向いているから分からない。下着が見えた瞬間、目を閉じたからだ。

「これを着るがよい。明日には代わりの服が届けられるだろう。あの服装は目立ちすぎるからな。今はこれで我慢してくれ」

「ん」

 そしてすぐに布が擦れる音が耳に入ってくる。これって、その……着替えている音……だよね。

「ちょっと、大きい……」

 何が大きいの!? 目に浮かんだ妄想を慌てて打ち消す。

 考えるな、落ち受け、落ち着け……素数を数えてよう。1、2、3、5、7、11、13……

「夜神」

 しばらく素数を数えていると、殺子が声をかけてきた。

「な、なに?」

 今、素数を数えるのに忙しいんだ。えーと……31、37、41……

「こっちを向け」

「いや、でも……クリスが」

「既に着替え終えている」

 耳を澄ましてみる。先ほどのまで聞こえていた布が擦れる音は止んでいる。

 ほっと胸をなでおろす。

「じゃあ――」


 そして、振り返ろうと殺子のほうを向いた瞬間――


「いだあああああ!?」

 本日二回目の目潰しを喰らわされた。

 まるで体の芯が焼けるような痛みに、目を抑え、床でのたうちまわる。

 な、なんで!? 

女子(おなご)の裸を見た罰だ。甘んじて受けるんだな」

「不可抗力だよ~~!」

 目を押さえながら涙目で叫ぶ。

 僕の悲痛な叫びを聞きいられず、殺子は「ふん」と鼻をならしてから、指を三本立て、

「クリス、三つほど聞きたいことがある。いいか?」

「………(コクリ)」

「まず一つ、お前は何者だ?」

 涙目でクリスを見るが、特に表情に変化はないようだ。

「殺子、それは――」

「重要なことだ。もし、どこかの国の大統領の娘だったらどうする? 私たちは国際指名手配犯になるんだぞ」

「それは、そうだけど……」

 確かにクリスの正体が気にならないと言ったら嘘になる。

 でも、無理に聞きだすのは正直気が進まない。

「それで、どうなんだ、クリス?」

 クリスは、視線を下に向け、首を横に振る。

 殺子は顎に手を当て、

「ふむ、答えられないと」

 頷くクリス。

 もし、殺子が無理に聞きだそうとするなら、止めよう。本人が嫌だと言っているのに、無理やりは――

「答えられないか……まぁ、よかろう」

「え、いいの?」

 毒気を抜かれた気分だった。

 僕のぽかんとした表情がおかしかったのか、殺子は「ふっ」と笑みをこぼし、

「本人が答えられないと言っているのだ、無理に聞きだすことはできん。私たちは尋問官ではないのだからな」

 殺子はそういうと、クリスに向き直り

「さて、二つ目だ。追ってきた奴らに心当たりはあるか?」

 しばらく、何かを見極めるかのようにじっと殺子を見つめるクリス。

 そして、コクリ、と頷いた。

 え、心当たりがある? あの強面の男たちのことを知ってるってこと?

「ほう、それは?」

 殺子は視線を鋭くし、続きを促すように問いかける。

「……北龍警備」

「北龍警備ってあの、駅前にある国際警備会社?」

 確か世界規模で要人の警護、施設の管理などを請け負っている会社のはずだ。ここ、神守市でも駅のロフト前にある高層ビル丸ごと一つが北龍警備の支部になっている。

 その北龍警備がどうしてクリスを?

「表向きはな。実際は、異類異形(イレドレックス)のものたちを多く配下に従え、異類異形(イレドレックス)の力を使い、非合法なこともやってのける会社だ」

 ちょっと待って。異類異形(イレドレックス)って……ええ?

「確か、異類異形(イレドレックス)って人間社会に深く関わっちゃいけないんじゃなかったっけ?」

 以前、殺子がそう説明してくれたことを覚えている。だからこそ、今の人間主体の世界があるんだって。

「だからこそ、非合法なのだ。表向きは普通の国際警備会社だからな」

 知らなかった。異類異形(イレドレックス)がこんなにも人間社会に直接的に関係しているなんて。

 どこかで僕は異類異形(イレドレックス)は、宇宙人のようなものとさえ思っていた。人間社会にひっそりと紛れ込んでいる別の種族で、本来の力は使わず、ただそこにいる……そんな風に。

「……しかし、北龍警備か。厄介なものだ。北龍警備に刀御巫家の者はおらんしな……最悪は連合にでも力を借りるか? しかし連合に頼むのは……気が進まんな」

「殺子?」

 一人でぶつぶつと言ってたようだけど、なんだろう? 連合とか、力を借りるとか?

 殺子は首を横に振り、

「なんでもない、こちらのことだ。それと、今の事は内密にしておけ。どこで誰が聞いているかわからんしな」

「う、うん。ていうかこんな話、普通の人なら信じないと思うけどね」

 実感がわかない、というのが正直な感想だ。僕だって、まだ半信半疑、といったところだ。

「一応のためだ。口は災いの元ともいうしな」

 そして殺子は指を三本立て、

「最後の質問だ。この手紙をお前に渡したのは……誰だ?」

 僕も気になっていたことだ。誰が、なんのためにクリスを助け出し、さらに僕たち月夜見アシスタンスへと依頼した人物。

 月夜見アシスタンスは視月の思いつきで始めたなんでも屋だ。殺子が言うように「悪霊退治」や「組織を殲滅してほしい」などと言った物騒な依頼は舞い込んできていない。お年寄りの話を聞いたり、犬小屋を作ってほしいなどの、本当に日常の些細なことをこなしてきただけだ。

 それなのに、一千万円の小切手とともに、国際警備会社から一人の女の子を守れだなんて……どうなってるんだ?

 クリスは目を伏せ、一瞬考え込む表情を浮かべ、

「……女の子」

 ポツリ、と呟いた。

「女の子?」

「声が、そうだった。仮面を、被っていて、あとは……わからない」

 クリスはそれっきり言葉を発さず、黙り込んだ。

 殺子は「ふむ」と呟き、

「なるほど。正体は分からない、と。しかし、女子というだけでは、全く手かがりは掴めんな。夜神、心当たりはあるか?」

「あるわけないでしょ。殺子のほうが心当たりあるんじゃないの? だって、異類異形(イレドレックス)の存在を知っていて、さらに月夜見アシスタンスのことを知っている人だよ?」

 少なくとも僕の周りで思い当たる人物は……殺子、そして視月と異眼保持者(サードアイラー)であるクラスメイトの三人ぐらいしか思いつかない。

 僕の言葉に、殺子は顎に手を当て、

「確かに一人の人間を守る程度ならそれなりの者は知っているし、交流もある。しかし、そこをあえて私たち月夜見アシスタンスに依頼してきた。確かに月夜見アシスタンスには刀御巫と異眼保持者(サードアイラー)が在籍している……が、人間一人を守るのであれば他にもっといい組織や人材はいくらでもいるのだ」

 つまり、クリスを助けた人物は僕たちよりも、クリスを守ることに関して優れている組織を知っているのにも関わらず、僕たちに頼んできたってことか。でも、なんのために? 

 ……待てよ。

「もしかして、それほど危険だからこそ僕たちに頼んできたんじゃないのかな?」

「なに?」

「だって、僕たちよりもクリスを守ることに優れている組織があるのにも関わらず、わざわざ僕たちに依頼してきたんだよ? ということは、僕たちよりも優れている組織に断られたか、引き受けてくれないと踏んだからなんじゃないかな」

 つまり、

「それほどまでにクリスが重要人物であるか、北龍警備以外にも狙っている組織があると、そう言いたいのだな」

「うん」

 あくまでも仮定の話だ。正直、不明な部分を繋ぎあわせた穴だらけの推測だ。だから疑問は残る。

 どうして僕たちにクリスを預けたのか。そして僕たちの存在をどこで知ったのか。

「確かにありうる話だ。だが、今の私たちにはそれを知る術はない。なに、向こうから仕掛けてくるはずだ。私たちは待っているだけでいいだろう」

 そう言って、殺子はニヤリと獰猛な笑みを僕に向ける。

「なんだか殺子、嬉しそうだね」

 少しだけ皮肉を込めた口調で殺子に言葉を投げかける。

「ああ。ようやく私が主役を張れそうだからな。嬉しくなるのは当然だろう」

 そう言って、殺子は傍に置いてあったバットケースを長年つきそった相棒のようにポンポンと頼もしそうに叩く。

 ……僕としては、その『中身』が出ることは絶対に避けたいところなんだけど。

「む、もうこんな時間か」

 壁時計を見ると、十一時半を指している。

「あれ、もう寝ちゃうの?」

「早寝早起きは基本だぞ。夜遅くまで起きてもいいことは一つもないからな」

 それならもっと寝覚めをよくして欲しいんだけど……という言葉をぐっと飲み込む。

「クリス、お前は夜神の部屋だ。何かあったらすぐに私を呼べ。夜神にそんな度胸は無いと思うが、一応な」

「……僕だって男なんだからね」

 確かに殺子の言うとおりなんだけど、僕のあるようでない男としてのプライドが崩壊しそうだったので反論してみる。

「ならば、せめて私を組み伏せるようになってから言ってもらおうか」

 ……多分、一生できないような気がする。

 ふと思いつく。そうえいば、

「クリス、僕からも一つだけ質問していい?」

 コクリ、と頷くクリス。

「クリスは今までどこにいたの?」

 初めから気になってた事だ。服装からすればどこかの令嬢、もしくは大富豪の娘、と言ったところだろうか。もしくは本当にどこかの国のお姫様……とか?

「北龍警備ビルにいた」

 僕の言葉にクリスは無表情で、平坦な口調で答えた。

 ……え? 駅前の、あの、ビル?

 クリスの発言に殺子が表情を険しくさせる。

「北龍警備ビル、だと? クリス、お前は北龍警備に捕らえられていたのか?」

 頷くクリス。

「軟禁ってことだよね。食事とか、その……乱暴とかされなかった?」

「ご飯はいっぱい出た。だけど、それほどおいしくなかった」

「それはいけないな」

 真剣な表情で、顔をしかめる殺子。

 確かに大事だけど、大事じゃないというか。というか、今は関係ないよね?

「捕らえられていた部屋はどうだったのだ?」

「……この部屋の十倍ぐらい大きくて、綺麗だった」

 この部屋の五倍って……学園の教室以上じゃないか?

 でも、少しだけ安心した。どうやらそこそこいい待遇だったらしい。

「一応はそれなりの待遇を受けていたみたいだね」

「うむ。しかし軟禁とは許せんな。北龍警備め、何が目的だ?」

「身代金目的の人質……とか?」

 見た目からすればどこかの国のお姫様、と言われても信じられるほどの容姿を持っているクリスのことだ。きっとクリスの実家の資金を狙ってたのでは?

「かもな。クリス、心当たりはあるか?」

「抑止力……って、わたしを護衛していた人が、言っていた」

 眉をひそめる殺子。

「抑止力……だと? と、なるとやはり、お前の正体が気になるところだが……話せないのだろう?」

 ゆっくりと頷くクリス。

「ならば、仕方ないな。だが、話す気になったのならば、私たちに話してくれ。その時は全力で力になろう」

 そういって、殺子は頼もしげな笑みをクリスへと向ける。

「僕たちはクリスの味方だからさ。気軽に相談してほしいな」

 にっこりと安心させるようにクリスに微笑みかける。


 困っている人を助ける、それが僕たち月夜見アシスタンスのモットーであり、僕の信念でもあるのだから。


○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●



「ここがクリスの寝るベットだよ」

 僕の横にぽつんと立っているクリスに向かって、僕の部屋のなんの変哲もないシングルベッドを指差す。クリスの服装は殺子から借りた寝巻を着ている。西洋人のようなクリスに日本の寝巻というのはミスマッチのように思えるが、着させてみると意外にも違和感はなく、むしろクリスの気品に浴衣が気圧されている印象を受けた。

「ちょっと狭いけど、我慢してね。大家さんが帰ってきたらちゃんと部屋を用意してあげるから」

 そう言って、床に布団を敷こうとクリスに背を向けた時だった。

 パジャマの裾を引っ張られる。

「ん? どうしたの?」

 振り返るとクリスが裾を掴んでいた。

 何か用事でもあるのかな? それかやっぱり男と一緒の部屋は嫌……とか?

「あなたは、どこに寝るの?」

「え、ああ。ここの床だよ。それがどうかした?」

 床を指さしながら僕が言うと、クリスは首を横に振り、無表情のまま

、「あなたも一緒に寝る」

 …………はい? 今、なんと言いましたかクリスさん?

「えーと……」

「あなたも一緒に寝る」

 強く、裾を引っ張られる。

「だ、だから……それは」

 刺激が強すぎるというか、色んな意味でマズイというか。

「あなたも一緒に寝る」

 さらに強く裾を引っ張られる。

 …………

 ………

 ……


○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●



 ……で、こういう状態になってると。

「………すぅ」

 背中からはクリスの静かな寝息が聞こえてくる。そして、クリスの温かな体温を背中に感じ、体を少しずらす。

 ドクン、ドクンと自分の心臓が鼓動を刻んでいるのがはっきりと分かる。

 眠気なんてどこかに飛んでいってしまった。

「……眠れないって、これは」

 明日、寝坊しないといいなぁ……

 僕の長い長い夜が始まった瞬間だった。


○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●


 次の日の朝。僕は充血した眼を晒しながら、殺子の部屋のリビングでトーストをかじっていた。

「どうした、夜神。目の下に隈なぞ作って」

 僕と同じようにトーストかじりながら、向かいの席に座っている殺子が尋ねてくる。

 僕は殺子の質問の答えを示すかのように隣に座っているクリスへと視線を向けるが、

「…………」

 トーストを食べることに集中しているのか、僕の視線には気づいていない様子だ。

 ため息を一つついてから、

「色々とあるんだよ。男には」

「……良くわからんが、そうなのか」

 首を傾げられた。こればっかりは説明したら殺子にまた「婚姻前の男女が一緒の布団に寝るなど言語道断」なんて言いそうだし。

 そんなことを考えていると、目の前にトーストを乗せていた皿を差し出される。

「夜神、お代わりだ」

 僕は殺子から皿を受け取り、後ろの棚の上にあるオーブントースターへと手を伸ばす。

「相変わらず、殺子はよく食べるよね」

 オーブントースターに入ってあった食パンを取り出しながら、毎朝思っている感想を言う。

 僕なんて朝は食パン一枚で十分なのに、どこかの巫女さんは最低五枚は食べるし。

「ふ、食べる子は育つというからな。私とてまだまだ成長期だ。たくさん食べることにこしたことはない」 

 思わず殺子の服の上からでも分かる二つの膨らみへと一瞬だけ、視線を向けてしまう。

「……まぁ、確かに栄養は行き渡ってるよね」

「何か言ったか夜神」

「いや、何も」

 今の言葉の意味を知られたら、目潰し程度じゃ済まないだろう。危ない危ない。

 内心ほっとしてると、

「おかわり」

 振り返る。クリスが皿を僕に向かって差し出していた。

「え? クリスも?」

 コクリ、と頷かれる。

「む」

 まず殺子にトーストが乗った皿を渡してから、クリスから皿を受け取る。

 渡す時、殺子が微妙にクリスを睨んでいたのはなんでだろう?

 クリスから受け取った皿にトーストを乗せ、隣に座っていたクリスに渡す。

 クリスは受け取ると、バターを塗り、もしゃもしゃとトーストにかぶりつく。

 その様子を、目を細め、クリスへとどこか敵意のような視線を向けている人物が一人。

 はぁ、まったく……

「殺子、食い意地を張らないでよ」

 僕がそういうと、殺子はむっとした表情を浮かべ、クリスに向けていた敵意(?)を僕に向けてくる。

「別に食い意地など張ってないぞ! ただ私の分のトーストがなくなっては困るのだ!」

「それが食い意地を張ってるっていうんだよ……」

 殺子の視線から逃れるように、テーブルに置いてあるリモコンを手に取り、テレビに向かって『入』のスイッチを押す。

 どうやら朝のニュース番組のようだ。ヘリコプターから撮ったのだろう、どこか見覚えのあるビルの中腹付近が黒く焼け焦がれているのが見える。

 ……ちょっと待って。このビルって。

 下のテロップを見て、想像が確信へと変わる。

 テロップには『神守市の北龍警備ビル半焼。放火か!?』と表示されていたからだ。

「これって……」

『警察の調査では内部からの出火ということですが、放火か自然発火かどうか現在調査中とのことです。けが人などは出ていない模様で――』

 スタジオのアナウンサーの声だろう。機械的な口調で説明がなされる。

「なるほど。どうりで昨日サイレンがうるさかったわけだな。クリスを救いだした輩も、派手にやるものだ」

 トースにいちごジャムを塗りながら、殺子が感心したように呟く。

 ……感心するところなのだろうか?

 派手というか、人一人を救うためにここまでやるのか。いや、それだけ警備が厳重だったから、ここまでやらないと助け出せなかった、とも考えられるけど。

「でも、これだけの大騒ぎをしても、けが人を出さないなんてすごいね。クリス、助け出された時、どんな感じだったの?」

 クリスはバターを塗っていた手を止め、両手をじゃんけんのグーからパーに変えながら、

「……どがーん、ばごーん……そんな感じだった」

 つまり、爆弾を使った、ということだろうか。本当に誰なんだろう。クリスを救った人って。

 僕が考えを巡らせていると、殺子から皿を差し出される。

「夜神、おかわり」

「まだ食べるの!? 今日もう七枚目じゃない!?」

「おかわり」

 クリスからも皿を差し出される。もちろん先ほどのまで乗っていたトーストは見当たらない。

「え!? いつのまに!?」



○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●



「結局、何も起こらなかったね」

 お茶を飲みながら、向かいの席で同じようにお茶を飲んでいる殺子に声をかける。

 時計を見るとすでに時刻は午後三時。窓の外からは夕日が差し込んでおり、カラスの鳴き声がどこからか聞こえてくる。

 一応、ということで学園に休みの連絡を入れ、クリスの護衛をしていたのだけれど、どうやら空振りに終わったらしい。

「うむ。だが、昨日の今日だ。何が起こるか分からんからな」

 そういって、テーブルの上にあった最後の煎餅に手を伸ばす――が、

「……(ひょい)」

「なっ!?」

 僕の隣に座っていたクリスが掠め取った。相変わらずの無表情だが、何かを食べている時はどこか幸せそうな表情を浮かべ……ているようにも見える。

「む……むむむ」

 歯ぎしりをしながら、ギロリ、とクリスを睨み付ける殺子。

「…………」

 一方の対象のクリスはそんな視線を物ともせず、リスのように両手でポリポリと噛みしめるように煎餅と食べていた。

 はぁ、と昨日と今日で何度目か分からないため息をつく。

「殺子……一個ぐらいいいじゃない」

「いいはずないだろう! これを食べなかったおかげで私の気力が大幅に削れたぞ!」

 鼻息荒くして語る殺子に呆れた視線を送る。相変わらずというか、なんというか。

「わかったよ。今度買い物へ行ったときにまた買ってくるからさ」

「む。それは全部私が食べていいのか?」

「みんなで分けて食べるに決まってるでしょ。僕の財布から出すだけいいと思ってよね」

 しばらく思案していた殺子だが、「……食べられるだけよしとするか」と呟き、立ち上がって傍にあったバットケースを肩にかける。

「どこか行くの?」

「周囲に怪しい者がいないか見回ってくる。何かあったらすぐに連絡してくれ」

「了解。そっちも何かあったら連絡よろしくね」

「心得た」

 殺子は玄関に迎えながら背中で答える。その背中を見送ってから、テーブルにあるお茶を飲む。それにしてもこのお茶おいしいな。殺子の実家から送られた葉を使ってるけど、僕の記憶がある中では一番おいしい葉であることは確かだ。

「一つ、聞きたいことがある」

「ん?」

 いつのまにやら隣のクリスがじっと僕を見ていた。

「わたしは、ずっとここにいるの」

「そう……だね。もしものことがあるといけないから、当分この部屋から出ないでもらえるかな」

 僕の言葉にクリスは何も答えない。否定も、肯定もしないまま、ただ無表情に僕を見つめている。

「クリス?」

 僕はなぜか、クリスが残念そうに感じてる、と思った。なぜかは分からないけど、そう感じたのだ。


「あなたも……同じ?」


「え?」

 同じ? どういうこと?

 クリスへと「どういう意味?」という視線を向けるが、無表情のまま、何も答えてくれない。

 直接クリスへ尋ねようと口を開きかけた瞬間、


 ギュルルルルルル!


「うっ……」

 お腹から嫌な音。これは……もしかして、

「ちょ、ちょっとトイレに行ってくるね」

 どこか心にしこりを残しながらも、僕はトイレへと駆け足気味で向かった。


○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●


「はぁ~~~」

 便器に座りながら大きくため息をつく。どうやら煎餅を食べすぎたらしい。

 あの二人に合わせたペースで食べてたらお腹も壊すよね……

 次からは絶対に自分のペースで食べようと決意していると、玄関のドアが閉まる音が聞こえてくる。

 あれ? 殺子? それにしては早いと思うけど……携帯の時計を見てみると、まだ出て行って十五分も経っていない。何か忘れ物でもしたのだろうか?


 ギュルルウルルルル!


「うっ」

 反射的にお腹を押さえる。うう、煎餅食べ過ぎたかも……

 これからは絶対にあの二人と同じ量は食べないぞ……ううう。


○○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●


「ふぅ……ようやく治まったよ……」

 今の僕の顔は徹夜明けのサラリーマンと同じぐらいげっそりした表情をしているだろう。そのくらい体にダメージを負った気分だ。

 お腹をさすっていると、

「あれ? クリス?」

 辺りを見渡すが、クリスの人影はなく寝室のほうへ顔を覗かせるが、そこにもクリスの姿はない。

 もしかして、さっきのドアの音って……血の気が引いていく感覚。――マズい!

 僕はお腹の調子も忘れて、携帯電話を取りだしながら、慌てて玄関へと向かう。

 ――どうして!? どうして出て行ったんだ……クリス!


○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●


 ここは『セントラルロード』と呼ばれ、神守市の中心となっている場所である。

 上にアーケードを備え、両脇にはゲームセンター、ファーストフード店、アクセサリーショップなどの店が連なっている歩行者専用道路を学校から帰宅する学生や、定時上がりのサラリーマンが歩みを進めている。

 その風景に異物感とともに混ざっている強面の男たちがいた。手にA4サイズの紙を持ち、通行人と紙を交互に見ながら、何かを探すように、鋭い視線を周囲に光らせている。

 その中の一人、牛塚(うしづか) 鬼燈(ほおづき)は口に煙草を咥えながら、周囲へと注意を向けていた。

 白髪をオールバックにし、狼のような鋭い目つきに、精悍な顔立ちをしている。細身の体型をしているが、ひ弱な印象は受けず、逆に黒のブランド物のスーツに恥じない、男らしい力強さが感じられる。

「牛塚さん、本当に見つかるんですかね? もう、この町から出てしまったんじゃ」

 鬼燈の隣で、丸刈りでA4用紙を眺めていた男が尋ねるが、鬼燈は男のほうを見ずに雑踏の中に何かを探すように射抜くような視線を注ぎながら断言する。

「いや、この町にいるはずだ」

「どうして分かるんです? なにか当てでも?」

「……あいつと一緒に逃げたやつはこの町の学生だ。確か、追跡してた奴の報告によると、神守群城(かみもりぐんじょう)学園だったはずだ。学生ならば、そう遠くへはいけまい。そうなれば、この町にいる可能性が高くなる」

 鬼燈の推論に感心したようにうなずく丸刈りの男。

「な、なるほど、しかし、学園が分かっているならば、どうしてその付近を張らないんです? すぐに見つかると思うんですけど」

 その言葉に鬼燈は目を細め、初めて男のほうを見た。

 が、すぐに雑踏へと視線を戻し、

「……あそこは色々複雑なんだ。命が惜しくないのなら、お前が張ってみればいい」

 鬼燈の意味深な発言に丸刈り男は納得しきれな表情で「はぁ」呟くが、鬼燈はそれ以上言葉を続ける気もないという風に、じっと歩いていく人間たちへと注意を向ける。

 残された丸刈りの男はぽりぽりと頭を掻きながら、手に持っていたA4用紙を眺める。



 ――そこには白いドレスを着て、どこか物憂げな表情をしている少女――クリスが映っていた。


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