いつもと変わらない日常
正直、心に穴が空いている、なんて言葉で済ませていい状態じゃなかった。
高校三年の夏。
野球部にとっては、言わずもがな「終わり」が見え始める季節だ。
最後の大会。負けたらそこで引退。勝てば、もう少しだけ夢を見ていられる。
そんな時期に、俺は恋ですら戦わずに終わらせてしまった。
……まぁ、俺が失恋したのは、ちょうどそんな夏だった。
野球部。
それが俺の肩書きだ。
別にエースでもなければ、スタメン確約の主軸でもない。
でも三年間グラウンドに立ち泥だらけになってきた事実だけは本物だ。
小川陽介。
唐突だが、俺の名前だ。
どこにでもいそうな名前で、どこにでもいそうな顔。
覚えやすいわけでもなく、忘れられやすいわけでもない。
強いて言うなら「いじられ役」。
クラスに一人はいる、笑われてるうちに存在が許されてるタイプの人間だ。
――教室。
窓は全開で、風は一応入ってきているはずなのに、ちっとも涼しくない。
その代わり、遠慮という言葉を知らないセミの鳴き声だけが、耳を責め続けてくる。
「はぁーあ……」
自分でも驚くくらい、深いため息が出た。
そりゃそうだ。
たった昨日告白すらしないまま失恋したんだ。
気合いを入れろと言われても、どこから入れればいいのか分からない。
「まーた陽介が、しけたツラしてやがる」
後ろの席から、軽口が飛んでくる。
「……なんだ。和斗」
東山和斗。
俺のチームメイトで、クラスメイトで、腐れ縁。
俺と違って、そこそこモテる。
顔立ちも悪くないし、背もそこそこある。
野球部っていう肩書きもあって、女子からの評価も安定している。
うちの野球部は県内でもそこそこ強い。
だからなのか部員は目立ちたがり屋が多い。
ヒーロー願望丸出しで、スポットライトを浴びたくて仕方ない連中ばかりだ。
その中で、和斗は少し異質だった。
目立つのが嫌いで、騒がれるのも苦手。
必要以上に前に出ないし、空気を読むのも上手い。
だからか、自然と俺と一緒にいることが多かった。
「もうすぐ背番号発表だろ。気合い入れろよ、陽介」
「おまえは気合い入るだろーな。へーんだ」
我ながら、ガキみたいな返しだと思う。
でも、口に出さないとやってられなかった。
夏の大会。
和斗は、この大会で野球を引退する。
その後の進路もほぼ決まっていて、大学では野球を続けないらしい。
だからこそ、最後の大会にかける気合いは半端じゃない。
しかも――
あいつは、ちゃんと彼女を呼ぶらしい。
スタンドで応援する彼女。
試合後に笑顔で駆け寄ってくる彼女。
想像するだけで、胃の奥がキリキリした。
……クソが。
「俺は見向きもされねーけどな」
小さく呟いた言葉は、たぶん和斗には聞こえていない。
「チッ……彼女持ちが。くたばれクソ野郎。大会でエラーしちまえ」
「エラーするざまも、お前よりはかっこいいぞ。陽介」
「和斗、シバくぞ」
いつも通りの、くだらない言い争い。
周りから見れば、何も変わらない日常だ。
でも、俺の中は違った。
笑って、冗談を言って、悪態をついて。
そうやって誤魔化している間も、胸の奥にはぽっかりと穴が空いている。
告白できなかった後悔。
期待してしまった自分への嫌悪。
そして、選ばれなかったという事実。
それら全部が混ざり合って、
俺の心を、静かに、確実に蝕んでいた。
セミの鳴き声は、今日もやけにうるさい。
夏は、俺の気持ちなんてお構いなしに、平然と進んでいく。
――置いていかれるのは、いつだって俺の方だった。
「なぁ陽介」
和斗が、ふっと声のトーンを落とす。
からかい半分の顔が、少しだけ真面目になる。
「……何だよ」
「昨日さ、なんかあっただろ」
その一言で、胸の奥がぎゅっと縮む。
さすがに長年一緒にいるだけあって、隠しきれないらしい。
「別に」
そう言って、俺は視線を逸らす。
嘘だと分かる言い方だ。
分かってて、そう言う。
和斗はそれ以上突っ込んでこなかった。
それが、ありがたくもあり、少しだけ腹立たしくもあった。
「ま、いいけどさ」
そう前置きしてから、和斗は笑う。
「でもよ。野球だけは裏切らねぇからな」
その言葉が、妙に胸に刺さる。
裏切らない。
努力すれば、少しは報われる。
結果が出れば、誰かが見てくれる。
恋は、そうじゃない。
どれだけ想っても、どれだけ一緒にいても、
相手の“好み”という、どうしようもない壁の前では、全部が無力だ。
顔。
身長。
雰囲気。
最初から、俺は土俵にすら上がっていなかった。
「……お前の背番号、何番だろうな?」
俺は話題を変えるように聞いた。
「俺? まぁ、妥当なとこだろ。1桁ほしいなぁ。」
和斗は肩をすくめる。
余裕だ。
こういうところも、少しだけ羨ましい。
俺は、どうだろう。
ベンチか、ギリギリレギュラーか。
監督の評価は悪くないが、決定打に欠ける。
――恋愛と同じだな。
器用貧乏。
悪くはないが、選ばれない。
チャイムが鳴り、ホームルームが終わる。
教室が一気にざわつき始める。
俺は立ち上がり、窓の外を見る。
夏の空は、嫌になるほど青い。
雲は高く、遠く、手が届かない。
あいつも、今頃どこかで笑っているんだろうか。
誰かの隣で。
考えるな、と自分に言い聞かせる。
でも、考えないようにすればするほど、思い出は勝手に再生される。
Bluetoothみたいに、
もう繋がっていないはずなのに、
距離が近づくと、勝手に反応してしまう。
俺はバッグを肩にかけ、教室を出る。
グラウンドへ向かう廊下。
スパイクの音。
汗の匂い。
夏の終わりの気配。
恋は終わった。
でも、夏はまだ終わらない。
せめて、この大会が終わるまでは。
この胸に空いた穴を、
野球で塞げたらいいのに。
そんな都合のいいことを考えながら、
俺は白線の向こうへ足を踏み出した。




