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第9話 孤高の悪魔

「隠しだてするなら……お前ら、ただじゃ済まねぇぞ!」


 がなるような声に、床板が震える。

 重いブーツの足音が、屋敷の静けさを容赦なく踏み荒らしていた。


 フィオナとミオは、廊下の角に身を潜め、ただ震える手を握りしめることしかできない。


 口を歪めて笑いながら、ルスに詰め寄る奴隷商人……。


「お姉ちゃん……あの人たち……」


「……うん。間違いない。……“あの領主”の使いだわ」


 言葉を絞り出すように、フィオナが呟いた。

 恐怖にすくむ膝を押さえつけて、歯を食いしばる。


 怖い。あの地獄に連れ戻されるのが、怖い。

 でも、それ以上に──。


 この屋敷の人たちを巻き込んでしまうのが、何よりも怖かった。

 ロッテさんの優しさも、ルスさんの温かい微笑みも、あの無愛想な主がくれた恩も──すべてが壊されてしまう。

 だから。


「……行かなくちゃ。私たちが、出ていけばいいの」


 意を決して立ち上がったフィオナが、角から出ようと一歩踏み出した、その瞬間──


「どけ」


 無表情な横顔が、ふたりのすぐ脇を通り過ぎていった。


 ジークだった。

 朝と変わらない、ボサボサの髪に、眠たげな目──けれど、彼が一歩踏み出すたび、空気の密度が変わっていく。


 ルスの前に立ち、男たちをまっすぐ見据える。


「……なんだ、騒々しいな」


 その一言に、場の空気が一瞬だけ止まる。


「っ……これは、申し訳ありません。ジーク様のお手を煩わせてしまうとは」


 ルスが丁寧に頭を下げる。

 だがジークはそれに反応せず、奴隷商人の男たちに目を向けた。


「お前がこの屋敷の主か?」


 男の一人がそう尋ね、前に出る。

 粗末なマントに、赤く縫い取られた紋章──それが示すのは、とある領主の家系。


「俺たちは、かの有名な“グラン=ノルド侯”の使いの者だ。逃げ出した奴隷を探している。この屋敷に来たはずだ」


 フィオナの顔がこわばる。

 グラン=ノルド侯爵。

 その領地で生まれた獣人は、人ではなく“所有物”として飼育され、貴族たちの──“道具”、“玩具”、あるいは……壊れたら捨てるだけの“処分品”として扱われる世界。


 口にすら出したくないその名を、今、目の前で告げられた。


 フィオナはミオの手を強く握りしめた。


(ダメ……あの人に逆らっては……)


 そして駆け出す。


「待ってください!」


 手下たちが振り返る。


「この方々は何も悪くありません! 私たちが勝手に逃げ込んだだけです! ……ですから、私たちを連れて行って、それで終わりにしてください!」


 膝を折り、玄関の石畳に頭をつけた。

 そのすぐ後ろで、ミオも小さな体を震わせながら、姉の手を握っている。


 だが。


「……黙ってろ」


 ジークが、ふたりに向けて片手をゆるく上げる。


 そして、何事もなかったかのように、奴隷商人の男に向き直った。


「ノルド? ……知らんな。どこの田舎者だ?」


 その言葉に、男たちが吹き出した。


「なんだそりゃ。どっちが田舎者だ。こんな辺境の、誰の地かもわからんところに住んでるような連中が──」


 その時だった。

 ジークは、片眉ひとつ動かさず、こう返した。


「……何だ、貴様ら。誰の土地かも知らずに入ってきたのか?」


 沈黙。そして──空気が一変する。

 冗談を言っていた手下たちが、一瞬にして表情を凍らせた。


 突如として放たれた、得体の知れない恐怖。

 何故か……今から語られる事実を、“知ってはいけない”。いや、“知りたくない”。本能がそう警告を鳴らす。


 ジークの背に並ぶように、ルスが静かに進み出た。


「ご説明しましょう。……こちらは、ジーク・ヴァルト・セロ様。この一帯は、ジーク様のお治めするヴァルト領でございます」


 その名が告げられた瞬間、恐怖が場を制圧した。


 ヴァルト・セロ。

 ──“孤高の悪魔セロ”


 その名を耳にした瞬間、男たちの顔から血の気が引いた。


 どの国にも属さず、どの法も通じぬ男。

 王国より“侯爵”の爵位を授けられてはいるが、影響力は“公爵”以上。いや、王ですら常にその顔色を伺って政を進めるという。


 たった一人で軍を退け、国の運命を翻弄し、精霊災害すら鎮めてしまったという、伝説の人物。


「てことは、あんたは……“白獅子”」


 今度はルスを見て、男は口をパクパクと開く。


 ルスは小さく「昔の事です」と、そう返すだけだった。


 話には──聞いていた。

 そんな“厄災”や“伝説”、“英雄”と呼ばれる存在が居る事を。


 ただ、遠く“帝国”からやってきた彼らにとっては、俄かに信じられない話だった。警戒を怠ったのだ。

 だが今、現実として目の前に立っている。


「……じょ、冗談だろ。そんな……」


 奴隷商人の男が声を震わせる。

 もちろん、冗談などでないのは分かっている。

 この男から発せられる“気配”は、その存在を証明するに充分な恐怖を孕ませていた。


「ま、待ってくれ。俺たちはただ、命令で。……そ、そう! 領主様のご命令なんだ──」


 額から汗を吹き出しながら、男は取り繕った笑顔を浮かべる。


「──ほう。ならば、そのノルドとかいう領主と話を付ければ良いのだな?」


 ジークが脅しとも本気とも取れない顔で聞き返す。

 いや、実際に言葉以上の意味は無かったのかもしれない。彼のことだ、“話を付ける”とは金銭なり契約の事を言ったのだろう。


 しかし、一人で国すら滅ぼせる男から発せられた、その一言はあまりにも強烈だった。


(……このままでは、ノルド領、いや──帝国が滅ぶ!)


 男たちは顔を青くして、急ぎドアへと踵を返す。


「お、お時間を取らせて申し訳ありませんでしたっ! こ、この件はなかったことに──ではっ!」


 逃げるようにドアが開けられ、数秒後には足音すら聞こえなくなった。


 フィオナとミオは、ただ呆然と立ち尽くす。


 ──孤高の悪魔セロ。

 又の名を、単に“魔王”と。


 その名は、奴隷である自分たちにすら届いていた。

 伝説、災厄、禁忌。決して触れてはならない者。


「……お姉ちゃん」


 絞り出すようなミオの声に、フィオナはただ黙って、首を振ることしかできなかった。

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