第80話 最強無敵の“孤高の悪魔”も──
ジークは静かにフィオナの前へ歩み寄ると、深く、丁寧に──まるで騎士のように、優雅な礼を取った。
差し出された手は、夜の光を湛えるように落ち着いていて、けれどどこか、不器用な温かみがあった。
フィオナは胸の奥がふっと熱くなるのを感じながら、スカートの裾をつまみ、小さく礼を返し、その手に触れる。
二人の指が触れ合った瞬間、まるで合図されたかのように音楽がひときわ鮮やかに鳴り響いた。
──二人の息が合う。
ジークが軽くリードをかけると、フィオナの身体は自然にそれへ吸い寄せられ、ふたりは滑るように舞い始めた。
まるで昔から一緒に踊ってきたかのように、足の運びも、呼吸の速度も、視線の交わりさえもぴたりと重なる。
一歩、また一歩と踏むたびに、周囲の視線が吸い寄せられた。
人々は次々とダンスの輪を作り、二人を中心に花が咲くように広がっていく。
「……ジーク様、ダンスがお出来になるなんて。てっきり興味のないものかと」
フィオナが囁くと、ジークは当然のような顔で答えた。
「風の魔法だ。音楽とダンスの型を音の振動と運動パターンへ分解し、手足の動きを最適化するよう再構築した魔法術式でな。こちらは身を任せているだけで、どんな曲にも──」
フィオナは思わず、くすっと笑った。
「分かりましたから。今はダンスに集中してください」
「む……」
軽く窘められ、ジークはわずかに言葉を止める。
けれどその沈黙が、ふたりの距離をさらに親密にした。
二人はゆっくりと、時に流れるようにターンを決め、煌めくシャンデリアの下を滑るように舞い続ける。
それはまるで、フィオナがいつか見た絵本の一幕に迷い込んだようで。
夢のような時間はあっという間に過ぎていった。
やがて──音楽が静まると、
「……先に帰る」
ジークはそれだけを告げ、踵を返した。
残響のように魔力の残り香を残しながら、静かに会場を後にする。
呆然と見送る暇もなく、残されたフィオナを、先ほどとは比べ物にならないほどの人の渦が包み込んだ。
だが、その空気はまるで違う。
彼女が獣人である事など、もはやどうでもいい。いや、もしや、獣人である事こそが重要なのか?
“孤高の悪魔”に選ばれた少女。
かの人が自ら手を差し伸べ、共に踊った相手。
その意味を、社交の場にいる誰もが理解している。
誰もが慎重に言葉を選び、ひと言でもいい、彼女と縁を結ぼうと熱を帯びて距離を詰めてくる。
(こ、これは……さっきの方が、まだ話しやすかったです)
苦笑いしか出てこない。
人混みの中、フィオナはどうにかセシリアの元まで辿り着くと、そっとその手を取った。
彼女は驚いたように瞬きをし、それからすぐに笑みを浮かべて頷く。
ふたりは人の波から逃げるように抜け出し、夜風の吹くバルコニーへ向かう。
夜の王宮を包む星々の下で、喧騒から離れ、フィオナはようやく深く息を吐いた。
「改めて……今日は、本当にありがとうございました。セシリア様のおかげで、素敵な思い出ができました」
「いいえ。わたくしの方こそ……フィオナさんに出会えて幸運でした」
フィオナは少し恥ずかしそうに笑いながら言った。
「今度、本当に遊びに来てくださいね。僭越ながら、お菓子を作りますので」
「えぇ、ぜひ。わたくしも、とっておきの茶葉をお持ちしますね」
笑いながら交わされる約束は、国のしがらみも、身分の差も越えた、ふたりだけの温かな灯のようだった。
広大な王宮の上、星々は静かに瞬きながら、新しい友情を祝福するかのように輝いていた。
◇ ◇ ◇
──ジーク邸、裏庭。
深い夜の静寂を切り裂くように、魔法陣が淡い光を宿した。
風が逆巻き、時空がわずかに歪む。
次の瞬間、ひび割れた光の中から、ジークがゆっくりと降り立つ。
肩で軽く息を吐くと、彼を覆っていた光は薄い殻が砕けるように散り、美しく結われていた髪は解け、身体を包んでいた完璧なタキシードは、霧のように消えてゆく。
玄関に向かう頃には、いつものだらしないシャツ姿に戻っていた。
──
屋敷の灯りはすでに落ちている。
深夜の気配が濃い廊下を抜け、リビングの扉を押すと──
「おや、ジーク様。こんな夜更けに……散歩でも?」
ルスが、柔らかく笑みを浮かべて待っていた。
わかっていて言っている、完全に“わざと”の口調だ。
「……あぁ、そうだ。散歩だ」
ジークは短く返し、ソファーにどさりと座る。
肩を落とす姿は、どこか気まずさのにじむ逃げ腰。
「転送魔法は危険なのでお控えください、と何度申し上げたか」
「……うるさい」
ジークは視線を逸らし、髪を無造作にかき上げた。
ルスは追及するでもなく、静かに温かいコーヒーを差し出す。
いつも通りの仕草。
「フィオナさんは、ご無事でしたか?」
「あぁ」
短く答えてコーヒーに口をつけるジーク。
湯気が静かに揺れ、沈黙が落ちる。
「それはよかった。……お疲れ様でした」
ルスは深く頭を下げ、その場を離れようと背を向けた──そのとき。
カチリ、とカップを置く小さな音が響く。
「全くもって……問題というわけでは、ないのだが」
普段の彼からは考えられない、歯切れの悪い声。
ルスは、不思議に思い振り返る。
「……はい?」
ジークは珍しく、言葉を探していた。
沈黙のあと、ぽつりと。
「フィオナに……思い人ができたそうだ」
暗い声。
「…………」
ルスは硬直した。
いや、硬直するしかなかった。
(この方は……いったい? 何を、どう勘違いして……)
フィオナの思い人が誰かなど、今更言うまでもない。けれど、この様子ではそれを理解していないようだ。
「さ、さようですか……」
とりあえず口を動かして返すしかない。
ジークはうつむき、コーヒーに視線を落としたまま続ける。
「それはあいつの自由だ。……別に構わん。構わないのだが……」
それ以上言わず、カップを置く音だけが響いた。
そして立ち上がる。
「寝る」
いつも通りの、そっけない背中。
だが、その歩みにはどこか影が差している。
『相手さえ分かれば、いっそ呪い殺して……いや、それではフィオナが……』
ルスはその背中が廊下の向こうに消えていくまで見送り──ふぅ、と長く息を吐いた。
空になったカップを手に取りながら、ぽつりと一言。
「……いやはや。最強無敵の“孤高の悪魔”も、乙女心は解せませんか」
まるで孫を見る祖父のような、優しい呆れ笑いだった。




