第8話 逃げ出した奴隷を探してるんだ
「じゃあ、今度こそ“ちゃんとした”お風呂ね」
ロッテが両手にタオルと新しい着替えを抱え、ふたりを風呂場へと導く。
その背中はどこか頼もしくて、まるで母親のような安心感があった
脱衣所で姉妹が服を脱ぎ終えると、ロッテはメイド服の裾を捲り上げて風呂場へと入っていく。
「まずは掛け湯よ。足元から順に、少しずつお湯をかけて、汚れを流して体を慣らすの」
瓶から溢れる湯を桶ですくって足にかけると、ふわっと湯気が上がった。
ロッテにとっては当たり前の習慣。けれど、ミオとフィオナにとってお湯の温かさは初めての経験だった。顔を見合わせながら、見よう見まねで同じようにやってみる。
たったそれだけでも、じんわりと足元から温かさが広がっていった。
「それからね、身体はこすらないで、泡で包むように優しく洗うの。お肌、傷ついちゃうから」
ロッテは、湯のそばに置いてあった石鹸を取り、手のひらで丁寧に泡立てて見せる。
その優雅な手つきは、まるで魔法のようで、ミオは思わず見惚れてしまった。
体の洗い方を一通り教え終えると、ロッテは大きな湯船の前でにっこりと笑った。
「さ、じゃあ後は湯船に入ってみて。ゆっくり、身体の芯まで温まってから出るのよ。私は先に出てるから。あ、のぼせないように時々外気にも当たってね」
手を振りながら、ロッテは湯気の奥へと姿を消していった。
ふたりだけが残された露天の湯は、白く煙るような霧に包まれて、まるで夢の中のよう。
風は冷たいけれど、湯に沈めた身体からふつふつと熱が昇ってきて、芯から緩んでいくのが分かる。
ミオが、目をまんまるにして呟いた。
「お姉ちゃん……おふろだよ。すごい……」
フィオナは目を閉じたまま、小さく頷く。
「うん……夢みたい……。昨日まで、冷たい地べたに寝て、怒鳴り声と鎖の音ばかり聞いてたのに」
ポツリポツリと、心から漏れる言葉が湯気に紛れて消えていく。
「ジークさん、ちょっと怖いけど……でも、いい人だよね?」
「ええ。きっと、優しい人よ」
一瞬吹いた風に、湯の表面が波紋を描く。
雪国の冷たい空気の中、それでも湯の中はまるで春のような心地よさだった。
「……ねえ、お姉ちゃん。ミオたち……ここにいていいのかな」
「……わからない。でも……」
フィオナは、湯の中でそっとミオの手を握った。
「今は、そう……信じてみたい。そう思ってる」
その言葉に、ミオは黙って頷いた。
肩まで沈んだお湯は、全身を優しく包み、凍えていた心を、少しずつ溶かしていく。
──そして、湯から上がったふたりは、体をよく拭き、ロッテの用意した温かい衣服に袖を通した。
ジークのシャツは相変わらずぶかぶかだったけれど、それがまた可笑しくて、姉妹は顔を見合わせてくすくすと笑った。
髪も尻尾もふわふわに乾かし、体の芯までぽかぽか。
頬にうっすら紅が差し、まるで別人のような表情で、ふたりは廊下を歩いていく。
──だが。
そんな穏やかな時間は、突然終わりを告げた。
玄関の方から響いた声が、空気を一瞬で凍らせた。
「──逃げ出した奴隷を探してるんだ。この辺りに逃げたはずだ。見かけなかったか?」
フィオナがピタリと立ち止まった。
ミオの手を無意識に握りしめる。
その声──忘れようにも忘れられない。
皮の鞭。鉄の鎖。その音と共に脳裏に焼きついた、あの恐怖。
姉妹を売り捌いた、あの奴隷商人の声だった。
廊下の先、玄関付近では、ルスが落ち着いた様子で対応している。
「……左様でございますか。ですが、申し訳ありません。この屋敷ではそのような方はお見かけしませんでしたよ」
「嘘をつくな。逃げ出したのは獣人の姉妹だ。血の跡が、ここに向かっているんだよ!」
怒号。床板が踏みつけられる音。
ミオの呼吸が浅くなり、フィオナの手が震え出す。
先ほどまで湯に包まれていた体が、まるで氷水を浴びたかのように冷えきっていく。
あの地獄が、また自分たちを迎えに来た。
──そんな感覚が、ふたりを襲っていた。