第5話 これは……ご主人様たちの食事、ですよね
テーブルを照らす朝日が、料理の湯気に溶け込むように揺れていた。
木目のあたたかい食卓の中央には、焼き立てのパン。それとスープの香ばしい匂いが部屋いっぱいに広がっている。色とりどりの野菜を散りばめたサラダが食卓に彩りを添えていた。
「さ、どうぞ。ここに座って」
ロッテに手を引かれ、ミオとフィオナはおずおずと、長椅子に腰を下ろした。
端にちょこんと座り、背筋をぴんと伸ばす。邪魔にならないよう、尻尾を丸くまとめ、まるで怒られないように祈るような姿勢だった。
その様子を見て、ロッテは微笑みながらキッチンへ戻っていく。朝食の準備の仕上げに向かったのだろう。
やがて、食堂の奥の扉が開いた。
「おはようございます、ジーク様」
ピシッと完璧に着こなした執事服をまとい、側に控えていたルスが丁寧にお辞儀をする。
その横を、髪が寝癖で跳ねたままの青年──ジークが、眠そうな目でふらりと通り過ぎていく。
シャツのボタンは片方だけ留められ、ベルトもゆるい。どこからどう見ても“屋敷の主”らしからぬ風体だが、誰一人としてそれを咎める者はいなかった。
ルスが無言で椅子を引くと、ジークも当然のように腰を下ろす。
ロッテも手に次々と美味しそうな料理を持って戻ってくる。
ふわふわの焼きたてパン、香草入りのスープ、目玉焼きに、サラダ。ハーブで香り付けされた白いチーズ。
姉妹の前にも──同じ料理がそっと置かれていく。
「じゃ、揃ったわね」
ロッテが席につき微笑んだ。
それを待っていたかのように、ジークがぽつりと呟く。
「……いただきます」
その言葉に、ルスとロッテがすぐに手を合わせる。
「いただきます」
ミオとフィオナは──固まってしまった。
小さく顔を見合わせる姉妹。その瞳には、驚きと戸惑いが浮かんでいる。
目の前にある立派な食事。促されるまま、皆と同じテーブルについてしまったが──どうして良いのか分からないのだ。
姉妹にとって、これは食事ではない。同じようなものが、館の厨房に置かれていたのを目にしたことはある。
ただ、それは奴隷が触れてよいものではない。空腹に耐えかねて手を伸ばした同胞は、動かなくなるまで鞭を打たれた。
(まさか……これは、試されているの……?)
その様子に気づいたロッテが、首を傾げる。
「どうしたの? もしかして……まだ体調が優れない?」
ミオは慌てて目を伏せた。口を開いたのは姉のフィオナだった。
「……これは……ご主人様たちの食事、ですよね。私たちは……いつも、カビの生えかけた硬いパンを……床で」
ミオもおずおずと口を開く。その声は震えていた。
「こんな、ちゃんとしたごはん……食べていい……んですか? 怒られ、ませんか?」
素直な疑問。心安らぐ食卓の筈なのに、二人の怯え切った目が、これまでの過酷な日常を物語っていた。
ルスが、僅かに目を伏せた。
老いたまなざしに浮かぶ感情は、言葉では言い表せないものだった。怒り、悲しみ、あるいは無念。
執事としての表情ではなく、一人の人間としての痛みが滲んでいた。
そんな沈黙を破るように、ジークがボソリと呟く。
「……うるさい。黙って食え」
短く、ぶっきらぼうに。
その声に姉妹はびくりと肩をすくめる。
「もう、ジーク様ったら!」
ロッテが軽く……睨むように嗜めた。
「ご飯は楽しく食べましょうって、いつも言ってるでしょう? そんな言い方じゃ、美味しいものも台無しよ?」
ジークはそっぽを向いたまま、何も言い返さない。
ただ、めんどくさそうに頭をかき、ちらりと姉妹の方を見ると、すぐにスプーンに視線を落とした。
ルスはその様子を見て、ふっと笑った。
優しく、慈しむような微笑みだ。
「そちらは、お二人の分です。どうぞ遠慮なく」
「足りなかったら、お代わりもあるわよ!」
ロッテも満面の笑みで二人を見つめる。
意を決して、ミオはそっと目の前のパンに手を伸ばす。もう、限界だった。昨日から、いや、そのずっと前から、まともな食事は何も食べていない。
焼きたてのパンは、ふかふかで、あたたかくて──こんな味、知らなかった。
「……おいしい」
ぽつりと、言葉が漏れた。
それは無意識の声。口の中でとけていく味が、あまりにも優しくて、はじめてで。
その言葉に、姉のフィオナも、震える手でスープをひと口すすった。
「……っ……」
そして、パンにかぶりつく。
その味に、驚き、目を見開く。
堪えきれずに、尻尾が揺れる。
「……美味しい……美味しいです……!」
言葉を繰り返すうちに、ぽろぽろと涙がこぼれてきた。
頬を伝う涙を拭うこともできずに、ただ食べる。
止まらない。お腹が空いていたのもある。けれど、それ以上に──心が、満たされていく。
美味しい。柔らかい。温かい。その全部が──優しい。
「こんな……こんな美味しいもの……はじめて……っ」
フィオナの泣き顔に、ルスはそっと目を細め、ロッテはあたたかく微笑む。
ジークは、ちらりとそれを見て……またため息をつきながら頭をかいた。
「……いいから。さっさと食え」
──料理が冷めないうちに。
その声は、どこまでも不器用で──誰よりも優しかった。