第4話 さ、朝食にしましょ
ふわりと鼻をくすぐる、やわらかな香り。
パンを焼く香ばしい匂い。
野菜を煮る湯気の匂い。
ミオが今まで感じたことのない、はっきりとした──安心する匂いだった。
「……ん……」
まぶたが重い。けれど、その向こうからやわらかな光が差し込んでくる。
ミオはゆっくりと目を開けた。
外が……明るい。夜が明けている。
薄いカーテン越しに差し込む陽光が、部屋の隅を金色に染めていた。
暖炉はまだ小さく火をたたえており、赤い火種がパチリと音を立てる。
冬の朝はいつも寒気で目が覚めるものだ。けれど、身体が冷えていないことに気づいたミオは、ゆっくりと自分の肩に目を向けた。
──羽毛布団だった。
見たこともないほどふかふかで、柔らかくて、軽いのにとてもあたたかい。
(……あったかい……)
奴隷部屋にあった、あの、くず布の束とはまるで違う。寒さから身を守るには役にもたたない。それでもせいぜい、布くらいはかけてやろうかという、見下した優しさ。
でも、これは──違う。……眠るミオのために、誰かがそっと掛けてくれた、温もりだった。
……こんなにあたたかいのに、泣きたくなるのはなぜだろう。ミオは、ぽつりと吐息をこぼし、自分の体温で温まったそれをぎゅっと抱きしめる。
ふと反対側を見ると、ソファーにはお姉ちゃん──フィオナが同じく布団を掛けられて横たわっていた。
もう苦しそうな顔はしていない。
安らかな寝息を立てて、ほんのりと、口元に笑みが浮かんでいた。
ミオの胸が、じんと熱くなる。
ほんの数時間前まで、絶望しかなかったのに。
今は──とても暖かい。
(……よかった。お姉ちゃん……)
ミオはそっと体を起こし、姉のそばへ行こうと椅子から身を乗り出す。
だがその途端、足元がふらりと揺れ──
「……わっ!」
椅子から、落ちた。
ぺたりと音を立てて尻もちをつき、布団がずり落ちる。
「まぁ、大変! 大丈夫?」
明るい声とともに、台所からひとりの女性が駆け寄ってきた。
やや丸い体格に、優しげな目元。年の頃は五十代だろうか、白いエプロンをつけて、手には木べらを持っている。
その手が、ミオの肩をそっと支える。
「ごめんなさいね、びっくりしちゃった? 体、まだ本調子じゃないんだから、急に動いちゃだめよ?」
その口調は、どこまでもやさしかった。
誰かに、こんなふうに心配されたのは、いつ以来だったろう。
「え、っと……」
ミオは戸惑いながらも、小さくうなずく。
「あらあら、可愛いわねぇ。あなたがミオちゃん? 私はロッテ。ここの家政婦なの。……って言ってもね、この屋敷にはジーク様とルス様しかいないのよ。男ばっかりの寂しい家なのに、今朝来てみたらこんな可愛いお客さんがいるんだもの! びっくりしちゃった!」
にこにこと笑うロッテの顔は、まるで陽だまりみたいだった。その声を聞いただけで、胸の奥がふっと軽くなる。
ミオがきょとんとしていると、ロッテはふわりと頭を撫でてくれた。
──その声に、フィオナも目を覚ました。
「ん……ミオ……?」
「お姉ちゃん!」
ミオは慌てて立ち上がろうとするが、またふらりと足元が揺れる。
「あらあら、まだ無理しちゃダメ。ね?」
ロッテがミオを抱きかかえるように椅子へ戻す。
その光景を見て、フィオナもようやく状況を理解したらしく、布団の中でそっと上体を起こした。
彼女もまた、分厚く温かな布団に包まれている自分を一度確かめる。
そして、それが何を意味するのか、すぐに察したのだろう。
「……ここは……?」
「お屋敷の中よ。ジーク様があなたを治療してくださったの。それで、あなたたちぐっすり眠ってたのよ。二人とも、ずいぶん疲れてたみたいね」
ロッテの言葉に、フィオナは息を呑む。
それと同時に──ぐぅ、と静かな音が響いた。
それは、フィオナのお腹からだった。
「っ……!」
フィオナは顔を真っ赤にして、布団の端でお腹を押さえる。
ミオもそれを見て、思わずくすっと笑ってしまう。
その音に──空気がふっとやわらいだ。
「あらあら、可愛らしい合図だこと」
ロッテは手をぱんと叩き、嬉しそうに目を細める。
「さ、朝食にしましょ。もう焼き上がるころよ」
そう言って、ロッテは湯気の立ちのぼるキッチンへと戻っていった。
部屋には、またあのやさしい匂いが広がっていく。
あたたかな光と、やさしい人の声。美味しそうな香り。
それは、ミオが生まれて初めて“朝が優しいもの”だと思えた──そんな光景だった。