第3話 ちょこまかと動くな
屋敷の扉が開いた瞬間、まるで別の世界に踏み込んだような錯覚に陥った。
暖かい──その一言に尽きる。
指先を刺していた寒気がすうっと溶けていき、吐き出す息はもう白くない。
それだけで、ミオの小さな体は小刻みに震えた。寒さからの震えではない。身体がようやく現実に戻ってきた証だった。
決して広くはない部屋。
けれども、床にはきれいな敷物。家具は古びても丁寧に磨かれ、どこも整っている。
暖炉には静かに炎が揺らぎ、部屋全体を包み込むようなぬくもりが広がっていた。
それは、ミオにとって“はじめて”の光景だった。
前に居た屋敷では、奴隷たちが入ることの許されなかった“主様”の部屋。
泥と藁と臭い布団に囲まれた生活しか知らなかった彼女にとって、この場所は……夢の中の世界のようだった。
「どうぞ、こちらへ。暖炉の前があたたかいですよ」
ルスが優しく手を引いて、椅子に促す。
戸惑いながらも、ミオはそこに腰を下ろした。ふわりとしたクッションが背中を支え、全身の力が抜けていく。
そのすぐ向かいには、大きなソファーがあった。
ルスが、姉──フィオナをそっとソファに寝かせる。
すでに意識はなく、目を閉じたまま。
胸元が上下しているのが、唯一の生きている証だった。
「おねえ、ちゃん……!」
ミオはたまらず椅子から飛び降り、姉のそばへ駆け寄ろうとする。
だが、その前に冷たい声が飛んだ。
「ちょこまかと動くな。そこに座ってろ」
鋭く、鋭く、容赦のない声。
振り返ると、先ほどの青年──ジークが、いつの間にかそこにいた。
白いシャツに黒のコート。その裾にはうっすらと雪が残っている。
肩にかけた革袋の中から、何か薬草の束のようなものが覗いていた。
「貴女の凍傷も酷いです。まずはご自身の身体を温めてください」
ジークの言葉を代弁したのか、ルスがそっとミオの肩に手を置く。
「でもっ……お姉ちゃんが、死んじゃう……!」
ミオは絞り出すように叫んだ。
必死だった。何もできない自分が嫌だった。
それでも、ジークはミオに目もくれない。
ただ静かに、フィオナの血に染まった脇腹に手をかざした。
その手がわずかに持ち上げられると、部屋の空気がぴんと張り詰める。
ミオの小さな耳が、その僅かな変化を感じ取ってピクリと跳ねた。
ジークの指先に、淡い光が灯る。
まるで、氷の結晶が静かに息をしているかのような、繊細な輝きだ。
やがてその光はふわりと舞い上がり、フィオナの傷口へと吸い込まれるように溶け込んでいく。
シュゥ……と、微かに肉の焼ける音がした。
苦痛からか、フィオナが無意識のまま小さな嗚咽を漏らす。
痛そう──。ミオも思わず目を伏せる。
でも姉は目を覚まさない。眠ったまま、ただ静かに呼吸を続けている。
数十秒後。
すでに傷口は、なかった。
裂けた皮膚も、滲んでいた血も──跡形もなく癒えていた。
「……お姉ちゃん、なおった……?」
ミオは呆然と呟いた。
こんなの、見たことない。……まるで、奇跡みたいだった。
「……いまの、魔法?」
ジークは何も答えない。
ただ手を払うと、光は霧のようにほどけ、やがて部屋の空気に溶けた。
「……ルス。後は頼む」
「かしこまりました。……少しだけ我慢してくださいね。足の方を拝見します」
老人の優しい声に、ミオは小さくうなずいた。
足元を見ると、自分の足はすでに青白く変色し、ひび割れた皮膚から血が滲んでいた。
……けれど、不思議と痛みは、遠くの出来事のように感じた。
お姉ちゃんは助かった。
それだけで、もう充分だ。
思わず、頬を伝ったのは、溶けた雪じゃない。
ありがとう、と言いたかったのに──その背中は、もう部屋を出ていって、届ける隙もなかった。




